山桜、1時間30分ほどの映画である。原作は藤沢周平の「山桜」である
藤沢周平の原作は映画、映像の世界では良いんだな。映像にし易いのかも知れない
小説の原作を映画化した場合には、原作より落ちるのが多い。原作を参考にして映画を作るのだろうが、映画監督にすれば原作とは別物で監督の作品なんだろうな。オーケストラも指揮者によって作品は異なってくると
浦山桐郎がいた。「私が棄てた女」ではミツをオーディションにて小林トシ江を起用した。まるでタコ部屋なんだな。外部との接触を一切禁じ、浦山桐郎のイメージ通りの女を作成した。小栗康平も泥の河だったかな、少年を公募で起用し、同じく外部との接触は出来得る限り断ち切った。終わった後に少年から思いっ切りぶん殴られたと
「山桜」の冒頭で、磯村野江(田中麗奈)が墓参りの帰りに山桜の枝を折ろうとする。しかし手が届かず足袋を汚してしまう。そこへ手塚弥一郎(東山紀之)が通りかかり手を伸ばして山桜を折って野江に渡す
櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と言われる。桜を折る行為とはと思い、小生には違和感があった。昔は桜と言えば山桜、吉野の桜なんだな。明治になって染井村の植木職人が新しい品種の桜を改良した。染井村の桜からソメイヨシノと言われた
従来の山桜は花が開花すると同時に葉も伸びる。葉の伸びはじめは緑色だが次第に赤くなると。吉野の山桜は花と赤い葉が一緒である。「山桜」の葉は緑、若葉、青葉と薄桃色の花、気品がある。どこで撮影したか知らないが、1本だけの山桜は気品がある
小林秀雄は明治の文部省の役人は尋常小学校の校庭に染井吉野を植えたと、品が無いと。「山桜」の桜の花と木を見ると、小林秀雄の説も大いに納得するな。吉野の山桜は赤茶けた葉であったので、染井吉野の絢爛豪華さとは比べようがないが、「山桜」の山桜を見ると、間近に見ると良いものだわ
山桜は山に群生している。山では肥料が無いだろうが、春を告げると花開く。遠くに見えるので、山笑うようでもある。里で山桜に会うことは余り無い。しかし桜を切るのは?
櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿とはソメイヨシノを指したのであろうか。確かに染井吉野は寿命が短いと。三春には枝垂れ櫻が多い。滝桜も養生して蘇生したと
「山桜」は極端に台詞が少ない。役者の動作と周りの情景だけである。山桜にしても花瓶に生けても生きてくるんだな。そういう意味では華道も存在意味があろうかな
手塚弥一郎(東山紀之)は母一人、子一人の家、しかも剣の達人。以前に出戻った野江に縁談を申し込んだが、断られた。家庭環境と剣一筋では人柄までは考えが行きつかない。どこの藩でもそうだろうが、腹黒い私腹を肥やす重臣はいる。重臣ゆえに改革者であるゆえに家臣たちは異を唱えられない。代案もないし、改革の流れに乗らざるを得ない
手塚弥一郎(東山紀之)は下級藩士。職務には忠実である。陰では重臣の考えを批判する者もいるが、批判者には群れをなさない。農業とは天候に作用される。長雨がたたり不作になる。百姓とは百種類の作物を育てると言われるが、稲作が最も腹を満たすし、年貢は米である。しかも凶作に乗じて年貢率は増加する
長雨で凶作になったので、婆さんや子は弱いものゆえに腹をすかして死んでゆく。ある時手塚弥一郎(東山紀之)は意を決して悪徳重臣と道で会い刀を抜く。重臣の手下をあっと言う間に峰打ちで倒し、重臣に刃を向ける
重臣は逃げない。やはり腐っても武士だな。逃げずに刀を抜いて手塚弥一郎(東山紀之)に立ち向かう。手下も倒され援軍もいないため、剣の達人に立ち向かう。現代に例えると、論理でくれば論理で戦うんだな。手塚弥一郎(東山紀之)は悪徳重臣を切り殺し、黙って大目付の屋敷まで歩いていく
普通では藩内で上司に剣を抜く。刃を向ける。良くて切腹、悪ければ斬首刑だな。しかし多分、悪徳重臣は切り殺されたのであろうな。殺されたから重しが無くなったので、裁きも出来なくなった。裁きをする者が居なくなった。刑を強行すると百姓の反感を買う
手塚弥一郎(東山紀之)は自己弁護もせず、弁解もせず、助けも請わず淡々として黙している。まさに忍だな。何を忍んでいるか。耐えてはいない
人名で「忍」と言う名がある。普通は女性の名だが、男にもいる。知り合いに「忍」と言う名前の男がいた。若い頃は忍という名前が嫌だったと。分かるな
小生の出身の高校も校訓が「忍」だった。小生も何故「忍」としたか分からない。まあ忍ぶも良いかな。忍ぶ忍ぶれば、偲ぶにも通じるかな
「山桜」の登場人物は科白が少ない。また人の良い悪いがはっきりしている。良い人間はどこまでも良いし、悪い人間、下賤な人間はどこまでも卑しいな。しかれども勧善懲悪とも違うな。物語は淡々として進行していく
時代劇にしても西部劇にしても、良い人物と悪い人物がいる。現代劇と違い、人の良い悪いが色分けされている。はっきりしている。それが人の好さが清々しい、清涼感が漂ってくる。それが時代劇の好さかもしれない。また限界かも知れない。しかし、さっと一服の薫風の感がある
小説だけでなく、世とは理不尽なことがまかり通る。加藤唐九郎はかって、芸術の上では何をやっても良いと。寺山修司は芝居とは演劇とは一つの実験だと。訳も無く、一刀両断とはあり得る。論理では解明できないことも多い。しかれども胸に秘めることもあり得る
榎本三恵子の蜂の一刺しではないが、言葉に出したら消えてしまうこともあり得る。シャボン玉のように口にしたら飛んでいっちゃうこともある
高橋治が語っていたが、無法松の一生をベネチアに持って行ったが、口に出さない恋愛感情が分からなかったと。黙して語らずとは恋愛だけでないだろうな
藤沢周平の原作は映画、映像の世界では良いんだな。映像にし易いのかも知れない
小説の原作を映画化した場合には、原作より落ちるのが多い。原作を参考にして映画を作るのだろうが、映画監督にすれば原作とは別物で監督の作品なんだろうな。オーケストラも指揮者によって作品は異なってくると
浦山桐郎がいた。「私が棄てた女」ではミツをオーディションにて小林トシ江を起用した。まるでタコ部屋なんだな。外部との接触を一切禁じ、浦山桐郎のイメージ通りの女を作成した。小栗康平も泥の河だったかな、少年を公募で起用し、同じく外部との接触は出来得る限り断ち切った。終わった後に少年から思いっ切りぶん殴られたと
「山桜」の冒頭で、磯村野江(田中麗奈)が墓参りの帰りに山桜の枝を折ろうとする。しかし手が届かず足袋を汚してしまう。そこへ手塚弥一郎(東山紀之)が通りかかり手を伸ばして山桜を折って野江に渡す
櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と言われる。桜を折る行為とはと思い、小生には違和感があった。昔は桜と言えば山桜、吉野の桜なんだな。明治になって染井村の植木職人が新しい品種の桜を改良した。染井村の桜からソメイヨシノと言われた
従来の山桜は花が開花すると同時に葉も伸びる。葉の伸びはじめは緑色だが次第に赤くなると。吉野の山桜は花と赤い葉が一緒である。「山桜」の葉は緑、若葉、青葉と薄桃色の花、気品がある。どこで撮影したか知らないが、1本だけの山桜は気品がある
小林秀雄は明治の文部省の役人は尋常小学校の校庭に染井吉野を植えたと、品が無いと。「山桜」の桜の花と木を見ると、小林秀雄の説も大いに納得するな。吉野の山桜は赤茶けた葉であったので、染井吉野の絢爛豪華さとは比べようがないが、「山桜」の山桜を見ると、間近に見ると良いものだわ
山桜は山に群生している。山では肥料が無いだろうが、春を告げると花開く。遠くに見えるので、山笑うようでもある。里で山桜に会うことは余り無い。しかし桜を切るのは?
櫻切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿とはソメイヨシノを指したのであろうか。確かに染井吉野は寿命が短いと。三春には枝垂れ櫻が多い。滝桜も養生して蘇生したと
「山桜」は極端に台詞が少ない。役者の動作と周りの情景だけである。山桜にしても花瓶に生けても生きてくるんだな。そういう意味では華道も存在意味があろうかな
手塚弥一郎(東山紀之)は母一人、子一人の家、しかも剣の達人。以前に出戻った野江に縁談を申し込んだが、断られた。家庭環境と剣一筋では人柄までは考えが行きつかない。どこの藩でもそうだろうが、腹黒い私腹を肥やす重臣はいる。重臣ゆえに改革者であるゆえに家臣たちは異を唱えられない。代案もないし、改革の流れに乗らざるを得ない
手塚弥一郎(東山紀之)は下級藩士。職務には忠実である。陰では重臣の考えを批判する者もいるが、批判者には群れをなさない。農業とは天候に作用される。長雨がたたり不作になる。百姓とは百種類の作物を育てると言われるが、稲作が最も腹を満たすし、年貢は米である。しかも凶作に乗じて年貢率は増加する
長雨で凶作になったので、婆さんや子は弱いものゆえに腹をすかして死んでゆく。ある時手塚弥一郎(東山紀之)は意を決して悪徳重臣と道で会い刀を抜く。重臣の手下をあっと言う間に峰打ちで倒し、重臣に刃を向ける
重臣は逃げない。やはり腐っても武士だな。逃げずに刀を抜いて手塚弥一郎(東山紀之)に立ち向かう。手下も倒され援軍もいないため、剣の達人に立ち向かう。現代に例えると、論理でくれば論理で戦うんだな。手塚弥一郎(東山紀之)は悪徳重臣を切り殺し、黙って大目付の屋敷まで歩いていく
普通では藩内で上司に剣を抜く。刃を向ける。良くて切腹、悪ければ斬首刑だな。しかし多分、悪徳重臣は切り殺されたのであろうな。殺されたから重しが無くなったので、裁きも出来なくなった。裁きをする者が居なくなった。刑を強行すると百姓の反感を買う
手塚弥一郎(東山紀之)は自己弁護もせず、弁解もせず、助けも請わず淡々として黙している。まさに忍だな。何を忍んでいるか。耐えてはいない
人名で「忍」と言う名がある。普通は女性の名だが、男にもいる。知り合いに「忍」と言う名前の男がいた。若い頃は忍という名前が嫌だったと。分かるな
小生の出身の高校も校訓が「忍」だった。小生も何故「忍」としたか分からない。まあ忍ぶも良いかな。忍ぶ忍ぶれば、偲ぶにも通じるかな
「山桜」の登場人物は科白が少ない。また人の良い悪いがはっきりしている。良い人間はどこまでも良いし、悪い人間、下賤な人間はどこまでも卑しいな。しかれども勧善懲悪とも違うな。物語は淡々として進行していく
時代劇にしても西部劇にしても、良い人物と悪い人物がいる。現代劇と違い、人の良い悪いが色分けされている。はっきりしている。それが人の好さが清々しい、清涼感が漂ってくる。それが時代劇の好さかもしれない。また限界かも知れない。しかし、さっと一服の薫風の感がある
小説だけでなく、世とは理不尽なことがまかり通る。加藤唐九郎はかって、芸術の上では何をやっても良いと。寺山修司は芝居とは演劇とは一つの実験だと。訳も無く、一刀両断とはあり得る。論理では解明できないことも多い。しかれども胸に秘めることもあり得る
榎本三恵子の蜂の一刺しではないが、言葉に出したら消えてしまうこともあり得る。シャボン玉のように口にしたら飛んでいっちゃうこともある
高橋治が語っていたが、無法松の一生をベネチアに持って行ったが、口に出さない恋愛感情が分からなかったと。黙して語らずとは恋愛だけでないだろうな