昔の銀塩時代の鉄ちゃんも、今では年老いた。
デジカメ持って雑草撮りに自転車で近隣を走ることが多い。
時折、ふと記憶の切れ端が目の前を過ぎることがあるのも歳のせいだ。
殆どそれは自転車漕いで走っている場所とは無縁だったりする。
何の脈絡も無いのだから、霧散するはずだけれど
時には妙に頭の隅に残ってしまったりもする。
山陽電車・西新町駅周辺の高架化工事が終わって半年。
電車は高架を走り抜け、車は地上を走っている。
西新町駅周辺の複雑な踏切は無くなり、交通の便は格段に良くなった。
明石川橋梁手前の仮線運用時代の勾配からも線路は撤去されて早晩、舗装道路になるのだという。
同じ場所で撮った何十年も前の旧型車両がふと甦ったから、
高架線運用開始後の画像ページに一枚追加した。
記憶の切れ端を集めた所で元には戻らないけれど、当時の画像を並べて記録する。
【200形】
明石川西踏切から明石川橋梁に向かって勾配を上る各駅停車。
(プリント裏の書き込みは 37.10.19 PM14:07 上り各停 218+219 数えると53年前になる)
当時は西新町駅西方が電車区だったから、何本もの電留線が敷設されていた。
左の建物は検車区の設備。
224+225(左 上り各停) 202+203 (右)
電留線の200形 202+203
山陽電気鉄道設立の経緯はかなり複雑。
明治40年設立の兵庫電気軌道、大正8年設立の明姫電気鉄道(のち神戸姫路電気鉄道に改称)に二社が別個に存在し、昭和2年に宇治川電気が二社を吸収合併、昭和8年に宇治川電気・電鉄部から分離独立したルーツを持つ。
上の202、203形は元は兵庫電軌26、23形、合併後の昭和11年の600Vから1500Vへの更新時に205、202へ改番、
昭和24年に車番整理再改番の際に202+203の固定編成化された。
200系は旧形車両の改造・改番グループだが、前照灯の両側には大型の通風窓が残されていた。
発車を待つ上り各停 224+225 地上駅時代の西新町駅
前照灯左右にあった大型の通風窓は無くなっている。
車体幅とホームとの隙間が生じるために扉部分にはステップが着けられていた。
電車区・検車区が西新町駅西方にあった当時は、この駅を始・終着とする運用も多かった。
区間表示サボの「神戸」は東の基点であった「兵庫」、国鉄兵庫駅前にあった。
画像はこのブログ上には何度も登場している。
214+215 二両編成だが扉数が異なる編成だったから印象に残っている。
214 は昭和11年以降旧兵庫電軌旧型車両の更新として製造された2扉車。
昭和16年製からは戦時の資材不足から非電装となった111~113からの改番車両。
215は昭和18年以降、混雑緩和目的で製作された3扉車。
林神社前踏切から林崎駅(のちに林崎・松江海岸駅に改称)への25パーミル勾配
右側は戦時中は防空壕が作られ、戦後帝国酸素工場が操業していたが現在は高層住宅が建ち並んでいる。
電車線路も現在は高架化されて線路際まで民家が建ち、面影は微塵も無い。
西新町電車区の横を走り、西新町駅に向かう上り各停216+217 。
遠くに西新町駅、その先に国道2号線跨線橋…、撮った人にしかわからないほどに遠い。
林崎~藤江駅間の田園地帯を走る下り各停222+223
両側は殆ど田んぼ・畑だった場所、淡路の島影だけが昔のまま。
232+233 200系は流線型車体が主だがこれは最後期製造のために非流線形。
旧兵庫電軌10形の改番134と、12形改番の135 を戦後再改番したもの。
200形の多くはその後台車・電装部分を300系に転用されたが
この2両は昭和45年にレールの運搬用として窓1枚分を残して片運化され貨車20、21形に改造された。
正式には長物運搬用無蓋電動片運転台貨車 クモチ20、21と呼ばれていた。
☆
【700形(広軌63形)】
各駅停車運用にしか無かった200系車両は車幅・車長共に当時でも最小車両群だった。
明石駅で偶然撮った700形との比較画像。
戦時消失車両が多かった山陽などに国鉄が払い下げた63形の台車を広軌に変更した20㍍車だったから、戦前からの保有車との違いは歴然としていた。
払い下げ時の車番63800の下3桁を利用して「800形」として運用開始した車両。
その後改番して4扉2両固定編成のままで運用されていた700形も、
のちに電装部分のみを流用、2700形として車体を新造し3扉3両編成化された。
(2701+2702のみ2扉車、2両編成で運行)
画像の明石川橋梁も防護柵の無い時代、現在の高架化に併せて架けられた橋梁の二代前の姿。
北側を走る国鉄車両は2階建て寝台特急電車として一世を風靡した731系、昼間も特急運用されていた。
旧国電モハ63形式原形タイプ 山陽入線当初は800形、のち700形に形式名変更。
風貌から「食パン」のニックネーム、大型の通風窓がおでこにあった。
708+709 入線当初は旧国鉄63808 63809の下3桁を採用した。
この為、昭和23年から始まっていた新造車は追番の820から採番されたが昭和24年に700番台に改番。
820から採番された新造車は改番されなかった。
710+711 丸型の試運転サボを着けている。
714+715 下り急行運用 林崎~藤江間
前サボは普通車では区間名、特急・急行は神戸・姫路間運用だったので種別表示。
700形は昭和39年に700、715が2702、2703に改造
702+709は車体のみ更新された。
昭和42年には701→2709、703→2705、704→2706、705→ 2707、708→2708に改造、
3連化対応のために2712、2714を製造している。
尚、712+713は昭和26年西代車庫で消失、その台車・機器類を2700 2701に転用した。
この2700系への対応で、旧国鉄からの譲渡車63系の広軌対応車は足回りに残るだけとなった。
しかしその後の神戸高速鉄道の開業、相互乗り入れ対応で
吊掛式車両では重量や走行音などで地下線路走行には不向きな為
2712・2704・2714・2706→2300~2303、2705・2707→2600・2601として
2300系2編成が誕生している。
車体のみ更新された702+709
その後は改造され3連化された仲間とは違って2連固定編成を続け、昭和52年に廃車となった。
林崎駅の更新700形
☆
【250形】
250+251 西新町電車区建物の南側線路を西新町駅に進入する上り各停。
250形は、戦後の復興期に登場した転換クロスシート採用のロマンスカー820・850形の流れを汲む
正面三窓非貫通車両。
15㍍車だが、200形とは違い連結部まで座席を確保できたために輸送力は大幅に改善された。
各停運用中心で二扉ロングシートだった。
252+253 下り各停運用 上の編成と同じく昭和26年製の250形1次車
一つ西寄りの人丸前駅から高架化されたが大蔵谷駅は現在も高架化されず同じ場所にある。
254+255 下り各停運用 昭和27年製250形2次車
現在は高架化されている人丸前駅の地上駅時代の画像。
撮影当時既に各停も3両編成運用となっていた為に
神戸側254号は貫通路改造され、200形電装部品流用で車体のみ新造された300系300形と混結。
前照灯も2灯シールドビーム化されていた。
288+256+257 昭和29年製250形第3次車
288は、昭和34年から増備が始まった270形(正式称号は250形)の内、昭和39年増備の第3次車に含まれている。
撮影場所は地上駅時代の人丸前駅、この画像の何年か前までは三年間通学時に利用した。
毎朝車中から延々と続く喧騒がこの駅周辺に残っている。
256+257 昭和29年製250形第3次車
3連化以前の270形、特急発車後に待避線から発車した下り各停。
幾つもの渡り線、上下にそれぞれ待避線を持つ地上駅時代で、周囲の建物も時代がかっている。
同窓の実家だった大手旅館も廃業して久しい。
林崎駅西方 270形288号と組んで3両編成化された256+257
☆
【270形】
270号は、昭和34年から増備が始まった270形(正式称号は250形)の第1次車270~273号に含まれる。
250形増備車としての登場なので正式には250形だが、便宜的に270形とされた。
車体長17m、構造も2000系仕様に準じているが、普通車運用を考慮して正面貫通扉とし固定編成ではなく弾力的な編成が組める仕様になった。
前照灯を2灯シールドビーム化した270号。東二見駅到着後回送。
270+271+277 270形のみの3両編成化も実施された。
276+270+271の3両編成 須磨駅
272+273 2両編成時代で前照灯もまだシールドビーム化されていない。
左は国鉄線路、各駅停車はまだモハ72など旧型車が運用されていた時代である。
274+275 昭和35年製270形第2次増備グループ 2両編成時代の西新町駅西踏切付近。
このグループ以降、パンタグラフ取り付け位置は連結面側に移されている。
822+823+277 270形以外の系列とも混結した運用が行われるようになった。
278+272+273 270形のみの3両編成 パンタグラフ位置の異なる編成。
278+820+821 かつてのロマンスカー820形と併結された。
820形は転換クロスシートの2両固定編成、特急運用中心のロマンスカーとして一世を風靡した車両。
運用開始当初は正面非貫通だったが併結運用のために貫通扉に改造された。
☆
【820・850形】
昭和23年から24年にかけて製造されたわが国最初のロマンスカー。
2扉転換クロスシートで当初は特急運用が主だった。
第1次車820~9号、第2次車830・831号、貫通路付きの2両固定編成。
2000・3000系登場以降は、2灯シールドビーム、3連運用のために全面貫通路、
窓枠のHゴム化など幾つかの改造が加えられ、各停運用になった。
最後期は行き先表示巻く取付のために、車番は正面左に移動した。
3000系登場当初には正面貫通路が設置され、原形のイメージは損なわれてい。
先頭車では貫通路の幌が除かれた運用にもなった。
須磨駅での離合。
既に3000系が登場し、特急運用に使われる事は無くなっていた。
最初期の姿を残している画像。
「特急」表示は正面の他、乗車扉横にも掲げられていた。
820形第2次車830+831の内、830には連結側にも乗務員室が設置されていた。
850形は820形を踏襲して昭和25年に850~855の6両が製造された。
当初は正面非貫通、転換クロスシート採用だったが、その後は820形同様の経路を辿った。
画像は高架化以前の明石駅~西新町間
To be continued
☆
【300形(種車は200形)】
昭和37年に200形6両の台車流用、車体のみ更新した。
車体長は15㍍だが、3扉車となった。
330形中間電動車が登場するまでは、300形のみの3連、或いは250形270形との混結3連運用された。
上は300+254+255の3連、各停運用でベンチレータの形状が異なっている。
300~305号は第1次車として鋼体部分のみ川崎車輌で新造され、
艤装、内装、塗装は自社で実施したので製造所銘板は「山陽電車」となっていた。
上は300形3連編成(306+330+301)。
中間電動車の製造に伴って300形3連編成にも変化が出て来た。
302+334+303 かなりスッキリとした編成になっている。
302+303 300形登場当初は2連運用も多かった。
304+305
第2次車は昭和38年に306~315号、第3次車316~321号が昭和42年に製造された。
併せて中間電動車330形6両が製造された。
306+300+301
311+331+318
312+252+313
318+250+319 林崎駅~藤江駅
318+304+318
320+251+321 行き先表示幕取付により車番位置変更
第2次車は昭和38年に306~315号、第3次車316~321号が昭和42年に製造された。
併せて中間電動車330形6両が製造されたが、それ以前は300形3連運用や
250、270形との混生編成もあった。
中間電動車330号を挟んだ300形3連
山陽電車明石駅の高架化以前の駅前踏切。
308+332+309 大蔵谷駅
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【2000形】
☆
【2700形(種車は700形)】
【2300形(種車は2700形)】
☆
To be continued
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山陽電車 昔、鉄ちゃんがいました。私鉄編1
なつかしい。
48年前の記憶が蘇ります。
山陽電車関連の文献はほとんど持っていますが、そこに登場していない写真ばかりで感動モノです。
特にステンレス2000をサンドイッチにした普通鋼2008は初めて見ました。
旧型車の車内の写真はありませんか?
200系 250系 700系 800系 ネットで1回も見たことがありません。
もしあったら是非!
高校時代に撮り始めた頃はフィルムも高価でしたから、車内を撮るなど思いもよらず、もっぱら車両ばかりでした。
当時の資料やネガなどは、震災の折に散逸してしまいましたが、たまたま残していたポジからのスキャンで画像を上げました。
古いものは何もかも無くなってしまうから、せめて画像だけでも残しておきたいですね。
photolion2@gmail.com
土門拳さんの「筑豊の子供たち」写真集に触発されて、
高校時代に写真をやっていたので、暇を持て余して撮った画像です。
もっぱら子どもを撮っていたのですが、今から考えるともう少し系統だった鉄道画像であれば…と悔やみます。
最近の鉄道ファンの撮影マナー違反などの多くは、情報過多になってしまった時代の流れ…を感じてしまいます。