こうなったら、「黄泉比良坂」(よもつひらさか)について書くしかあるまい、、、。
島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の国道9号線から、すこし小さな沢に入ったところに
古事記や出雲神話に出てくる「黄泉比良坂」とされている「坂」がある。「坂」と言っても、今
となっては、沢から裏手の民家に抜ける、「こんもりした森のような小山」を越えるだけの
道のようなものか、、、。(道と言っても小高い「峠」のようになっている。その入口まで
の道は、こんもりとした森に沿っている「みの手」です。)
左上を斜めに走っているのが国道9号線。中海の南西、本当に小さな沢で、近くに普通の
民家も迫っていますし、堰堤と緑色に見えますが小さな溜池も見えます。
イザナギ(伊耶那岐)は死んでしまったイザナミ(伊耶那美)に逢いたくて黄泉の国に
行きます。(この時、イザナミが「な見たまいそ。」と懇願するのに、イザナミは我慢でき
ずに見てしまうのです。これが決定的、、、。)ですが、イザナミは既に死んでしまって
いるので、醜い姿「穢れ」を見られてしまった羞恥から、逆にイザナギを追いかけて復讐?
しようとします。逃げるイザナギは、来る時にはなかった坂「黄泉比良坂」を、転げ落ちる
ようにして逃げます。行きには「坂」はありません。「坂」が現れるのは帰りです。この時、
追手がそれ以上に追いかけてこないように、「千引の岩」という大きな岩を置いて、追手を
遮ります。
「みの手」からの入口にある標柱と注連縄。(後世の人為的なものか?)
これは小高い「峠」にさしかかる伊賦夜坂(いふやさか)? (どこまでが「黄泉比良坂」で、
どこからが「伊賦夜坂」か?は、ちょっと難しい、、、。)
「千引の岩」?(これも自然石などではなくて人為的なもの?)
ルース・ベネディクトの『菊と刀』に出てくる、日本人の「恥の文化」の原型が、この
神話の中にあるという人もいるようですが、設計士の僕にとっては、行きにはなかった
「坂」が帰りに現れる、というのが大問題なんです。つまり
『通りゃんせ』
通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ
天神様の 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
作詞 野口雨情? 作曲 本居長世
『行きはよいよい、帰りはこわい』とは、どういう事か?なのです。
「ザ・フォーク・クルセダース」の北山修さんの『悲劇の発生論』にふれている藤崎康彦
さん(跡見学園女子大学)という方の、『ミソジニーの観点から見る日本文化の深層 -
SUCRA』という論文があります。
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110009605165.pdf?id=ART0010066734
「ミソジニー」とか「産屋」とか「母権制から父権制への移行」、木下順二さんの「夕鶴」なども
出てきて、難しい論文です。(「ミソジニー」は女性嫌悪?女性蔑視?女性賎視?内田樹さん
によると一時期のハリウッド映画のほとんどは「ミソジニー映画」なんだそうです、、。)
追記 不親切な記事で申し訳ない。「夢」と「黄泉比良坂」は、何か関係がありそう、、。
「坂」は「境」で、行きと帰りで違うのは「一方通行路」や「非対称性」の問題とも関係
がありそうな気がするのですが、まだまだ考えがまとまっていないのです、、。
追記の追記 イザナギとイザナミは兄妹相姦の話かも知れません、神話は難しい、、、。
「異類婚姻譚」なんて言われると、ますますチンプンカンプン、、、。
追記の追記の追記 どうも、行きの峠までの上りが「黄泉比良坂」で、峠の先の下りが
「伊賦夜坂」のようです。だとすると青木繁の絵の「黄泉比良坂」は
、「黄泉比良坂」ではなくて本当は「伊賦夜坂」になってまうのかも
、、、、。
・
追記のよっつめ 沖縄では「ひら」(平?比良?)は「上り坂」で、「坂」は「下り坂」の
ことなんだそうです、、、。「比良坂」は上りと下りのワンセット?
島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の国道9号線から、すこし小さな沢に入ったところに
古事記や出雲神話に出てくる「黄泉比良坂」とされている「坂」がある。「坂」と言っても、今
となっては、沢から裏手の民家に抜ける、「こんもりした森のような小山」を越えるだけの
道のようなものか、、、。(道と言っても小高い「峠」のようになっている。その入口まで
の道は、こんもりとした森に沿っている「みの手」です。)
左上を斜めに走っているのが国道9号線。中海の南西、本当に小さな沢で、近くに普通の
民家も迫っていますし、堰堤と緑色に見えますが小さな溜池も見えます。
イザナギ(伊耶那岐)は死んでしまったイザナミ(伊耶那美)に逢いたくて黄泉の国に
行きます。(この時、イザナミが「な見たまいそ。」と懇願するのに、イザナミは我慢でき
ずに見てしまうのです。これが決定的、、、。)ですが、イザナミは既に死んでしまって
いるので、醜い姿「穢れ」を見られてしまった羞恥から、逆にイザナギを追いかけて復讐?
しようとします。逃げるイザナギは、来る時にはなかった坂「黄泉比良坂」を、転げ落ちる
ようにして逃げます。行きには「坂」はありません。「坂」が現れるのは帰りです。この時、
追手がそれ以上に追いかけてこないように、「千引の岩」という大きな岩を置いて、追手を
遮ります。
「みの手」からの入口にある標柱と注連縄。(後世の人為的なものか?)
これは小高い「峠」にさしかかる伊賦夜坂(いふやさか)? (どこまでが「黄泉比良坂」で、
どこからが「伊賦夜坂」か?は、ちょっと難しい、、、。)
「千引の岩」?(これも自然石などではなくて人為的なもの?)
ルース・ベネディクトの『菊と刀』に出てくる、日本人の「恥の文化」の原型が、この
神話の中にあるという人もいるようですが、設計士の僕にとっては、行きにはなかった
「坂」が帰りに現れる、というのが大問題なんです。つまり
『通りゃんせ』
通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ
天神様の 細道じゃ ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ
作詞 野口雨情? 作曲 本居長世
『行きはよいよい、帰りはこわい』とは、どういう事か?なのです。
「ザ・フォーク・クルセダース」の北山修さんの『悲劇の発生論』にふれている藤崎康彦
さん(跡見学園女子大学)という方の、『ミソジニーの観点から見る日本文化の深層 -
SUCRA』という論文があります。
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110009605165.pdf?id=ART0010066734
「ミソジニー」とか「産屋」とか「母権制から父権制への移行」、木下順二さんの「夕鶴」なども
出てきて、難しい論文です。(「ミソジニー」は女性嫌悪?女性蔑視?女性賎視?内田樹さん
によると一時期のハリウッド映画のほとんどは「ミソジニー映画」なんだそうです、、。)
追記 不親切な記事で申し訳ない。「夢」と「黄泉比良坂」は、何か関係がありそう、、。
「坂」は「境」で、行きと帰りで違うのは「一方通行路」や「非対称性」の問題とも関係
がありそうな気がするのですが、まだまだ考えがまとまっていないのです、、。
追記の追記 イザナギとイザナミは兄妹相姦の話かも知れません、神話は難しい、、、。
「異類婚姻譚」なんて言われると、ますますチンプンカンプン、、、。
追記の追記の追記 どうも、行きの峠までの上りが「黄泉比良坂」で、峠の先の下りが
「伊賦夜坂」のようです。だとすると青木繁の絵の「黄泉比良坂」は
、「黄泉比良坂」ではなくて本当は「伊賦夜坂」になってまうのかも
、、、、。
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追記のよっつめ 沖縄では「ひら」(平?比良?)は「上り坂」で、「坂」は「下り坂」の
ことなんだそうです、、、。「比良坂」は上りと下りのワンセット?