北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

五木寛之さんと高村薫さん

2015-08-05 16:08:53 | 日記
ブログで週刊誌の対談記事を丸写ししても良いんだろうか?良いということにして、20

15年、「サンデー毎日」4月26日号の、五木寛之さんと高村薫さんとの対談。(高村薫

さんが直木賞の選考委員をしていることにふれて、、、。)



五木寛之さん





高村薫さん






五木  最近、いかがですか?新しい書き手は活気がありますか?

高村  小説への向き合い方というのが、私などの世代とは変わってきているのかな、と

    いう気がしますね。

五木  ほう。それはどういうことなんだろう。

高村  とりあえず書いてみたら書けてしまった。そういう感じなんでしょうか。小説に

    向き合うハードルが、とても低くなっているという気はいたします。

五木  なるほど。表現する人がいて、片方に従順な受け手がいるという、主従関係では

    ないけれども、かつてのそういう関係が崩れてきたこともあるかもしれません

    ね。

高村  そうですね。誰もが発信者。

五木  ここで無理に結びつけるわけではないけれど、例えば、昔はお寺さんや教会とい

    うものが絶対的に権威があって、そこから檀家、あるいは信者の方に向けて、あ

    りがたいお話をする。受け手はそれにお布施でこたえる。そういう与える者と与

    えられる者という関係が、今はもう完全に崩れてきているような気がするんです

    が。小説もそうで、一時期、若い人気小説家の小説を読んでいて、描写というも

    のがものすごく粗末にされているように見えるときがあったんですね。でも、最

    近ちょっと考え直すところがあった。

高村  とおっしゃいますと?

五木  与える者と与えられる者という関係が崩れてしまうと、読み手と書き手は階級も

    対等でしょう?そうすると、書き手が丹念に描写したものを受身で読むという形

    ではなく、ある意味では読者参加の文章、つまり表現をイメージ化するのは読者

    の側かもしれない。そんな感じがしてきているんですが。高村さんはものすごく

    細かく書き込まれるけれど、その辺はどうですか。

高村  ウィンドウズ95が出てきてからこの20年、私たちの言葉に対する向き合い方

    が完全に変わったのは確かです。

五木  そこに何が起きたと?

高村  言葉は発信すれば伝わるものという、根拠のない楽観が蔓延する時代になったと

    思います。自分の書いたものは誰かに読まれているはずだという前提に立った一

    方的な発信が増えたのではないでしょうか。

五木  本来言葉というのは、面と向かって交わすものですね。それでも必ずしも伝わる

    とは限らない。

高村  そうです。言葉足らずで誤解が生じたり、不信が生まれたり。どんなに一生懸命

    説明しているつもりでも、相手には理解していただけなかったりするから、本来

    は言葉を発すること自体に注意深くならざるを得ない。書き手がそうやって言葉

    に向き合っていた時代には、読み手も書き手が積み重ねていく言葉をそういう微

    妙なものとして受け止めて、真意を読み取ろうとしてきた。その書き手と読み手
 
    の間でひとつの小説の世界ができていくのが従来の小説のあり方だったと思うん

    です。しかし今は言葉に対するそういう慎重さといいますか、執着、執念みたい

    なものが若い方には少ないようです。




僕は、設計士なもんで、どうしても「小説」を、「建築」とか「設計」に、置き換えて読んでし

まうんです、、、。インキングなんてしない、コンピューターのCADの時代ですから、

良い悪いは別にして、設計の中身もどうしても変わってしまうのかもしれません、、、。

若い建築家の方の中には、住民?の方々とワークショップ(workshop)なるものを

開いて、参加型で共同で設計する手法をされる方もおられるようで、それはそれで時代の

流れで、たぶん従前とは違って、とても良い事なんでしょうけれども、、、、。



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