北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

「喪われた悲哀」と「愛されない能力」 その7 

2015-10-07 21:47:46 | 日記

  四


  私は不幸な家庭の子供の種類をここに漏れなく列挙することはできない。離婚した

 親をもつ子供、多くのそしてあの忌まわしい名で呼ばれている「私生児」(チェーホフ

 の『小波瀾』、ジードの『贋金作り』、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー

 家の人々』はそれらの子供を取り扱った小説作品として我々の興味を呼ぶ。)-----

これらの子供が人生の門出において早くも経験する悲しみや苦悩の数々を多少でも

 その深度において測ることのできる者は、子供の自殺数の意外に多いのに驚くよりも

 、むしろ逆にその意外に少ないのに驚かねばならぬであろう。あらゆる悲しみや不幸

 の感情のぎりぎりの極限にいつも死の願望のあることは、たといその死の観念が両者

 の間において内容がいかに違っていても、大人と子供とにかわりはないはずである。

 自殺を思わなかった人間というものが存在するなら、それはよくよく恵まれた人間で

 あると人は考えてよいだろう。


  しかし子供の生活環境は家庭だけには限られていない。子供は早くから社会に触れ

 、特に学校社会は最も重大な生活場面、従ってまた不幸な悲劇の舞台でもある。(「私

 生児」の悲劇は家庭悲劇であるよりも大抵はむしろ社会悲劇である。)かくて子供の自

 殺の問題の考察も、この生活部面を閑却しては、その一面的であることを免れないで

 あろう。学者が「学校児童の自殺」という名前で呼んでいるものが、ここでは省察の中

 心になってくるのである。

  ところでこの問題を研究した学者たちの殆ど一致した見解によれば、学校児童の自

 殺の最大の原因は、威嚇、虐待または処罰の期待だということである。詳しくいえば

 、いわゆる上流社会では、虚栄心の蹂躙、例えば落第による不名誉と白眼視、そして

 下流階級にあっては主として処罰の恐怖という風に分けて見ているものもある。オッ

 トー・リューレの『プロレタリアの子供』は、例えば一八八三年のプロシアの官庁統

 計に拠りながら、その年の八十八人の子供の自殺者のうち、二人が打擲のない上流学

 校の通学生で、六十八人が体刑の恐怖のあまり死に奔った普通の児童であることを指

 摘し、なお学校を「怠けた」ために窓から飛び降りて死んだ児童の例を七件挙げている

 ある学者や、三十五件の学校児童の自殺のうちその十二件が打擲やその恐怖を原因と

 していることを確かめた他の学者を援用している。そしてリューレはここからして貧

 困な無産者の家庭がその子供の教育にとって、いかにあらゆる点で不利な敵対的な状

 態にあるかを論じ、かかる冷酷な「愛なき」社会環境がどのような社会組織の産物であ

 るかに人々の注意を喚起しているのだ。

  だが、私の考えではここでは愛と共に子供の自由についても語らねばならぬのでは

 なかろうか。子供ほど自由を欲し、そして拘束を嫌がるものはない。しかるに社会は

 一つの拘束と制圧との体系である。そして広義の教育というものも元来社会に適した

 一定の情感的、知的、道徳的状態を、まだ社会生活に未熟な若い世代に植えつけるこ

 とをその任務としているから、それは必ずある程度まで拘束的組織とならざるを得な

 い。このことは子供をして、彼が本来もっている生活衝動、即ち幸福を求めんとする

 意志と、教え込まれた既成観念と、つまり自由と抑圧との板挟みに押しやり、彼らに

 何らかの内心の葛藤を作り出すことを意味する。教育から形成される「良心」と自然に

 与えられている「人間性」との争闘は、すべての子供がその児童期において多少とも深

 刻に経験する生活悲劇である。そしてこの闘いに破れたものは、つまり、その両者の

 一定の平衡を得ることのできなかったものは早くも生活敗残者となって、その一部は

 自らの命を絶つの道をとるに至るのである。つまり、私のいうのは、「良心」の過剰は

 子供の劣等感、罪悪感を深めて、彼をして絶えざる自責と自己嫌悪に陥らしめると共

 に、また「人間性」の過剰は子供を自然児、「不良児」、またはいわゆる「怠惰な子供」

 (そんなものは本当は存在しないのだが)にして社会と道徳的拘束の監視人とから彼を

 白眼視されるようにせしめ、そのいずれも内心に深い自己矛盾を感ぜしめ、子供を

 「病的」にしてしまうのである。子供における自由と拘束の配分問題はむずかしい問題

 には違いないが、現代の社会と教育とが余りに多くの無益にして有害な禁止と抑圧と

 の体系の重荷によって、子供の自由を圧し潰していることだけはいわねばならぬ。い

 わゆる試験地獄だけでも子供の自殺志願者を養成するには必要にして十分なる条件で

 あるといえるであろう。


  子供はなぜ自殺するか。-----という問いに対して、愛と自由とのない世界をこん

 な風に指示しただけでは少しも答えになっていないと咎められそうだ。だが、人が

 なぜ自殺するかは、あの聡明な自殺者である芥川竜之介にさえよくわかっていなかっ

 たのである。彼はまた自殺の動機と呼ばれているものは大抵はその動機に至る道程を

 示しているにすぎないともその『遺書』のなかに書いている。子供の世界は本当を言

 えばまだ我々には十分にわかっていない。いわんや子供の自殺をや。----私の書いた

 ことが、ただそのいわゆる道程のありそうな場所のごく粗末な地図にすぎなかったこ

 とは、私自身が一番よく承知している。



      後記 これはある有名な作家たちを両親にもつ一少女の自殺未遂が新聞で

         報道されたときに書かされた時事的文章である。




長かったのですが、これで林達夫さんの『子供はなぜ自殺するか』の全文です、、、。 





         「喪われた悲哀」と「愛されない能力」 その8 につづきます、、、。   


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