北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

朝鮮人脈

2014-10-05 14:14:58 | 日記
と言っても、そんな言葉はない。私が勝手にそう呼んでいるだけである。私の母は、西暦

2000年代の今でも、思い出の「朝鮮人脈」の中で生きているのだ、、、。美枝子ちゃんが

どうしたとか、宝塚の何とかちゃんはどうだったとか、母の話は、そのほとんどが、朝鮮

時代、それも自分にはまったく判からない、「しもきせん」と言う、自分には、その漢字

さえ判らない、おそらく今の北朝鮮の山の中のどこかの、まるで架空の街?での出来事と

、その人達の引揚げ後の内地での、あーでもない、こーでもないの話に終始するのだ。

登場人物のほとんどは「おばさん」で、その人達の息子さんや娘さんの動向に、母は猛烈

に詳しい、、、。最大の関心事は、息子さんの場合は学歴で、娘さんの場合は結婚相手で

ある。いい年をして結婚をしていないと大変だ、「どうしたのかしらねぇー」って、大き

なお世話だ。こっちは、そんな人達に会ったことも見たことも無いんだってば、、、。

それでも母は延々と喋り続ける、、、これは、もはや、もう、「生き甲斐」そのもの、

これなくしては生きていけない、生きている意味そのもの、なのだ。どうだの、こうだの

言っても、どうしようもない、、、。その母の女学校の同窓会は、たしか「白楊会」とか

言ったのだが、何年か前に開くこと自体やめてしまった。(毎年、帝国ホテルとかで、や

っていて、某有名照明デザイナーの女性も参加していたらしい、、、。)しかし、もう、

これ以上開催しても、会員があまりにも高齢化し過ぎて、毎年開催するには忍びない、と

言うことらしかった、、、。(具体的には、お察し下さい、、、。)それでも母は諦めない

、、、、。毎年、小さなグループで、どこかで小会合を開いていた。(新宿の中村屋とか

、、、こういう需要があるんですね新宿の中村屋さんには、、、)たが、さしもの母も、

ここ何年かはパッタリそれさえもなくなってしまった。長男の十何回かに及ぶ見合い話を

その「朝鮮人脈」で乗り切った母が、である、、、。(私は三男なので被害なし、、、。)

人生って、こういうものなのですね、、、、。



この項、建築には一切関係ありません。お察し下さい、、、。




追記 「しもきせん」の漢字は「下岐川(하기천 ハギチョン Hagich'ŏn)」でした。

    今の朝鮮民主主義人民共和国の日本海側の海岸の街、「興南」から山の中に

    入った所らしいのですが、Google Map では見つかりません、、。長津線と言う

    線路の近くで、大きなダムがあるはずなのですが、、、。





追記の追記  見つけました!!

   
       


       赤い印で하기천역(下岐川駅)とあるところ。左上は赴戦江ダム(부전강댐)




       久保田豊『私の履歴書 経済人9』日本経済新聞社・1980年 より


       私が赴戦高原に足を踏み入れたのは大正十四年の夏であった。(中略)測量、調査は

       約六ヵ月で終わり、いよいよ設計にとりかかった。赴戦江は長津江、虚川江とともに

       鴨緑江の支流で、赴戦高原を北西に流れて鴨緑江に注いでいる川だ。森田さん(註・

       森田一雄)と私の案は、この流れをある地点に集め、そこから逆に、水源の方にトン

       ネルを掘って落差の急な東海岸―日本海に落とそうするものである。いわば流域変更

       であり、人間の力で水の流れを逆にしようというのだから大きなそして愉快な計画で

       ある。



赴戦江ダム(부전강댐)

       




       この写真の発電所の右下が「下岐川(하기천 ハギチョン Hagich'ŏn)」の街?

       





     私の母方の祖父が亡くなった時に、久保田豊さんが代田橋の祖父の家に来て下さいました。

     祖父の墓は豪徳寺にあります、、、。




追記その3   下岐川(하기천 ハギチョン Hagich'ŏn)の町

        左上が発電所。右下が母の通った小学校?(当時は国民学校?)


        




興南のコンビナート









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