北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

神奈川県二宮町 駅の北側

2019-10-21 20:50:13 | 日記

このブログの最初の方の記事『東京オリンピックの頃』の中で


   ・・・確か「今日の住宅38集」とか言うタイトルの、文字通り38軒の住宅が

   紹介されている本があって、こちらも擦り切れるほど読んだ。小田原(板橋)

   の長谷川如是閑さんの家(八旬荘)とか、東大総長の茅誠司さんの家などが

   紹介されていて・・・・・


と書いた『長谷川如是閑さんの家』(八旬荘)が、もしかして今でも建っているかな?と思って、

小田原の板橋の周辺をGoogle Map で探した見た、、、。松永安左ヱ門さんと言う、戦前と戦後

の日本の電力王と言われた人の小田原の別宅『老欅荘』の近所らしいのだが、、、、




   



松永安左ヱ門さんの別宅『老欅荘』(地図の中では『松永記念館』)は、すぐに見つかったし、

周辺は、山縣有朋の『古希庵』や、清浦圭吾の『皆春荘』、三井財閥系の別宅などなど、かなり

立派なお屋敷ばかりなのだった、、、。

記憶の中の長谷川如是閑さんの家は、映画『お葬式』の中に出てくる伊丹十三さんの家のような

感じで、在野のジャーナリストの自宅なので、敷地もそれほど広い訳でもなく、豪邸ではない。

1階に玄関があって、2階から相模湾が見えるような、吉村先生の『原邸』のような住宅だった

ように思うのだが、Street View でも見つける事は出来なかった、、、。




その時、『二宮なら小田原から近いし、吉田五十八先生の自邸は?』と思って、やはり探して

みた、、、。たしか二宮駅の北側、少し広い道路を渡って、曽我兄弟のお墓のあるお寺の手前

、少し広い空地があって、その空地の奥に、緩いスロープが敷地の東端に沿って、修学院離宮

の『松並木』のようなアプローチになっていて(スケールはずーっと小さいけど、、)、上り

きったところに簡素な木戸があり、敷地は空地より一段高くなっていたように記憶していた。



 修学院離宮の農道のような松並木

 




その木戸を入った奥が、建物と庭になっていました、、、。


 



ところが、いくら探しても、その空地とアプローチの『緩いスロープ』が見つからない、、、。

『もしかしたら駐車場か何かにでもなってしまったんじゃないかな、、、?』と焦ってしまって、

落ち込んでしまいました、、、。(おっちょこちょいなんです、、、。)



空地とアプローチの緩いスロープが見つからなかったのは、空地に何軒かの住宅が新たに建って

いたからでした。(おそらく、アプローチの緩いスロープの『良い感じ』は大分損なわれてしま

ったのではないでしょうか、、、?)





てんやわんやの後で、こんなことを考えた、、、。







吉田五十八先生の自邸の敷地は、敷地を斜めに横断する『水路』のような流れがあって、敷地の

部分は暗渠になっており、手前の空地のアプローチも、明渠の『水路』に沿って『への字』のよう

に、鍵の手になっていなかったかな、、、? 先生は、戦争に負けるであろう何年か前の日本で、

疎開先として二宮の駅からも近い、農道のような道の奥まった寺院の手前の、農家の横の『水路』

の流れている緩いV字の谷間の『水路』で二分割された土地に、伐り土や盛り土などの工夫をして

敷地全体の設計をすれば、戦時中の面積制限下での小住宅と言えども、小田原の板橋の明治の元勲

達や、財閥や電力王たちのお金持ちの豪邸にも負けない、アプローチと主屋と庭の組み合わさった

自邸を創り出せる事を見抜いて、あの土地に決めたんじゃなかったのかな、、、?(庭はともかく

自邸の建物自体は、固い地盤の上に建てられる訳だし、、、。)





上の写真の庭の下には、太い土管の暗渠が、斜めに走っているはずなんです、、、。

























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