なんか、凄く難しそうなタイトルだ、、。(大丈夫か知らん、、、?だけど書いてみよう
、、、。「○○○○と○○○○」のシリーズって事で、、、。)
「認識」はいいとして、「蓋然(がいぜん)」は「認識」の反対語らしい、、、。
「蓋」は「けだし」で、「然」は「しかり」かな?(なにかの漢文?)
英語にすると、「認識」はrecognitionで、「蓋然」はprobabilityでいいのかな?
「認識」の方は、このごろの「釈明会見」?などで、「認識していませんでした、、。」
などと使われたりするようですが、「蓋然」の方は、あまり「話し言葉」として使われる
事は少ないようです、、、。(あまり馴染みもないだろうし、そもそも釈明にはそぐわな
いのかも、、、。「そんなの当たり前だろう!」と開き直られても困りますよね、、。)
「蓋然」の方は、「物事の道理で行けば、こうなれば最後はこうなりますよねっ!」くら
いの意味でしょうか?(もしくは、そうなる可能性が非常に高いとか、、、。)
ところが、「認識」の方は説明しようとすると、これが案外むずかしい、、、。(普段、
聞き慣れている言葉のはずなのに、、、。)「認める事」「気付く事」「理解する事」と
言われても、「なんのこっちゃ?」ですよね、、、。
でも、「認識」を「私の気持ち」「僕の気持ち」って読み替えたらどうでしょうか?
「私は○○は嫌なの!」「私は○○したかったの!」「私は判らなかったの!」つまり、
全部「私は、、」なのですが、これって「『だいふみ』さん」の記事で言うと「天動説」
の人って事になると思うんですけど、どうやら
認識の人=天動説の人
蓋然の人=地動説の人
って事にはならないでしょうか?(相変わらず乱暴でスイマセン、、、。でも、凄い大工
さんって、もの凄く頭がいいんです、、、。「世界の中心で何とかを叫ぶ」とか言うタイ
トルの本が随分と売れたようですけど、、、?? 読んでないけど、、、タイトルだけで
読む気がしない、、、。著者の方、スイマセン、、、。)
「大奥」の記事の「追記の追記の追記」に
「でも、設計って、こう言う地道な思考、作業の積み重ねなんです、、。」
と書いた「積み重ね」って、「蓋然性の積み重ね」かも知れないんです、、、。
多分、おそらく、設計と言う作業の99パーセントは、この「蓋然性の積み重ね」で、
残りの1パーセントが、「あーしたい」「こーしたい」の認識の部分かな?と感じていま
す、、、。(人によって、このパーセントの割合は違うでしょうけど、、、。)
じゃ、残り1パーセントだから、「認識」はどうでもいいかと言うと、そうではなくて、
逆に凄く大事なんです、、、。
せっかくコツコツ設計して、最後の最後の「色決め」で失敗すると、全てが台無しになる
事があります。「色」の場合は、大部分が経験と感覚の問題でしょうから、(とは言いな
がら、それはそれで色々な考え方も問題もあるのでしょうが、、、、) 労力とか作業と
言う意味では、それほどの比重ではないのかも知れませんが、出来上がりに及ぼす影響は
決定的なような気がします、、、。(「色」と言っても「色即是空」じゃありませんけど
この世の形あるものは全て「色」がある訳で、「色」を決めると言う事は、材質もなにも
全てを決める事になってしまうんですけど、、、。最近は工業製品の製品番号だったり、
日本塗料工業会の塗料番号だったりして、「何だかなー?」なんですけど、、、。)
長くなったので、 認識と蓋然 その2 につづきます、、、
、、、。「○○○○と○○○○」のシリーズって事で、、、。)
「認識」はいいとして、「蓋然(がいぜん)」は「認識」の反対語らしい、、、。
「蓋」は「けだし」で、「然」は「しかり」かな?(なにかの漢文?)
英語にすると、「認識」はrecognitionで、「蓋然」はprobabilityでいいのかな?
「認識」の方は、このごろの「釈明会見」?などで、「認識していませんでした、、。」
などと使われたりするようですが、「蓋然」の方は、あまり「話し言葉」として使われる
事は少ないようです、、、。(あまり馴染みもないだろうし、そもそも釈明にはそぐわな
いのかも、、、。「そんなの当たり前だろう!」と開き直られても困りますよね、、。)
「蓋然」の方は、「物事の道理で行けば、こうなれば最後はこうなりますよねっ!」くら
いの意味でしょうか?(もしくは、そうなる可能性が非常に高いとか、、、。)
ところが、「認識」の方は説明しようとすると、これが案外むずかしい、、、。(普段、
聞き慣れている言葉のはずなのに、、、。)「認める事」「気付く事」「理解する事」と
言われても、「なんのこっちゃ?」ですよね、、、。
でも、「認識」を「私の気持ち」「僕の気持ち」って読み替えたらどうでしょうか?
「私は○○は嫌なの!」「私は○○したかったの!」「私は判らなかったの!」つまり、
全部「私は、、」なのですが、これって「『だいふみ』さん」の記事で言うと「天動説」
の人って事になると思うんですけど、どうやら
認識の人=天動説の人
蓋然の人=地動説の人
って事にはならないでしょうか?(相変わらず乱暴でスイマセン、、、。でも、凄い大工
さんって、もの凄く頭がいいんです、、、。「世界の中心で何とかを叫ぶ」とか言うタイ
トルの本が随分と売れたようですけど、、、?? 読んでないけど、、、タイトルだけで
読む気がしない、、、。著者の方、スイマセン、、、。)
「大奥」の記事の「追記の追記の追記」に
「でも、設計って、こう言う地道な思考、作業の積み重ねなんです、、。」
と書いた「積み重ね」って、「蓋然性の積み重ね」かも知れないんです、、、。
多分、おそらく、設計と言う作業の99パーセントは、この「蓋然性の積み重ね」で、
残りの1パーセントが、「あーしたい」「こーしたい」の認識の部分かな?と感じていま
す、、、。(人によって、このパーセントの割合は違うでしょうけど、、、。)
じゃ、残り1パーセントだから、「認識」はどうでもいいかと言うと、そうではなくて、
逆に凄く大事なんです、、、。
せっかくコツコツ設計して、最後の最後の「色決め」で失敗すると、全てが台無しになる
事があります。「色」の場合は、大部分が経験と感覚の問題でしょうから、(とは言いな
がら、それはそれで色々な考え方も問題もあるのでしょうが、、、、) 労力とか作業と
言う意味では、それほどの比重ではないのかも知れませんが、出来上がりに及ぼす影響は
決定的なような気がします、、、。(「色」と言っても「色即是空」じゃありませんけど
この世の形あるものは全て「色」がある訳で、「色」を決めると言う事は、材質もなにも
全てを決める事になってしまうんですけど、、、。最近は工業製品の製品番号だったり、
日本塗料工業会の塗料番号だったりして、「何だかなー?」なんですけど、、、。)
長くなったので、 認識と蓋然 その2 につづきます、、、
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