同じく、至文堂 日本の美術 No.121 洛中洛外図より、『洛中洛外図屏風』舟木本右隻
東京国立博物館 方広寺大仏殿付近 の一部分を拡大したものです。
方広寺は徳川家康が、その梵鐘の銘文にクレームをつけて、豊臣家を滅亡に追い込んだ
あの寺ですから、16世紀の最後から17世紀の始めにかけての寺です。左の大きな屋根が
大仏殿の屋根と思われます。その裏側、画面の右側(つまり北側)に、「舞台」のような
ものがあって、「桟敷席」のようなものがあり、平土間(お白洲?)にも大勢の「観客?」が
います。寺院の境内でしょうから、なにかの「勧進興行」なのでしょうか?(浅草の浅草
寺の裏側の浅草公園「エンコ」を想い出します。高倉健さんも亡くなりました、、、。)
シェークスピア劇場のグローブ座も1598年ですから、何かの偶然の一致でしょうか?
「舞台も花のヴェロナにて、、、」
『匠明』書院造配置図
中央やや左下の部分に、「中門」と「舞台」が両方あります。
90°振れていますが、その部分と思われる図です。
私の知る限り、「中門」と「舞台」の両方が並存して、現存している遺構はなかったと思
います。図面も、他には見ないように思います。それにしても、どうして「ダブッて」い
るのでしょうか?(「色代」も「広縁」になって、なくなっています、、、。と思ったら、
その奥に大きな「色代」がありました、、、。それにしても大きい、、、。なんで、こん
なに広いんでしょう、、、?)
(一番下の『第69図 広間の図 匠明』の平面図は、設計士の目からすると建築的には、
あまり洗練されていません。柱が多すぎるのです。実は、光浄院客殿は非常に洗練された
建物なのです。広縁と中門との「つながり」の位置の柱を、構造を工夫して柱をなくし
ていますし、広縁にも柱はありません。まるで、中門建築のエッセンスを記念建築として
後世に残さんが為に建てたのでは?と思えるほどなのです。「柱をなくす工夫」は、吉村
先生の山中湖亀倉雄策氏の別荘を、想い起こさせます、、、。)
写真の右手の、開口部と壁の境には、実は柱はありません。(大野さんも、凄い!)
この別荘の場合は、開口部の引き戸の戸袋の「納まり」の為なんですけど、、、。
追記 『舞台』が出現した時に、同時に『観客』も出現したのでしょうか?『観客』
が出現した時に、同時に『木戸銭』も発生したのでしょうか、、、、?
東京国立博物館 方広寺大仏殿付近 の一部分を拡大したものです。
方広寺は徳川家康が、その梵鐘の銘文にクレームをつけて、豊臣家を滅亡に追い込んだ
あの寺ですから、16世紀の最後から17世紀の始めにかけての寺です。左の大きな屋根が
大仏殿の屋根と思われます。その裏側、画面の右側(つまり北側)に、「舞台」のような
ものがあって、「桟敷席」のようなものがあり、平土間(お白洲?)にも大勢の「観客?」が
います。寺院の境内でしょうから、なにかの「勧進興行」なのでしょうか?(浅草の浅草
寺の裏側の浅草公園「エンコ」を想い出します。高倉健さんも亡くなりました、、、。)
シェークスピア劇場のグローブ座も1598年ですから、何かの偶然の一致でしょうか?
「舞台も花のヴェロナにて、、、」
『匠明』書院造配置図
中央やや左下の部分に、「中門」と「舞台」が両方あります。
90°振れていますが、その部分と思われる図です。
私の知る限り、「中門」と「舞台」の両方が並存して、現存している遺構はなかったと思
います。図面も、他には見ないように思います。それにしても、どうして「ダブッて」い
るのでしょうか?(「色代」も「広縁」になって、なくなっています、、、。と思ったら、
その奥に大きな「色代」がありました、、、。それにしても大きい、、、。なんで、こん
なに広いんでしょう、、、?)
(一番下の『第69図 広間の図 匠明』の平面図は、設計士の目からすると建築的には、
あまり洗練されていません。柱が多すぎるのです。実は、光浄院客殿は非常に洗練された
建物なのです。広縁と中門との「つながり」の位置の柱を、構造を工夫して柱をなくし
ていますし、広縁にも柱はありません。まるで、中門建築のエッセンスを記念建築として
後世に残さんが為に建てたのでは?と思えるほどなのです。「柱をなくす工夫」は、吉村
先生の山中湖亀倉雄策氏の別荘を、想い起こさせます、、、。)
写真の右手の、開口部と壁の境には、実は柱はありません。(大野さんも、凄い!)
この別荘の場合は、開口部の引き戸の戸袋の「納まり」の為なんですけど、、、。
追記 『舞台』が出現した時に、同時に『観客』も出現したのでしょうか?『観客』
が出現した時に、同時に『木戸銭』も発生したのでしょうか、、、、?
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