信濃三十三観音札所めぐり 公式サイト
・信濃三十三観音札所霊場 第九番蓑堂(べべ出し観音)
・御詠歌「井の上や よなよなた来る みのんどう 雨は降るとも 身をばぬらさじ」
・本尊:十一面観音菩薩坐像
・蓑堂山の傾いた観音堂が無事存在しているか、10年振りに様子をうかがいに行った。(令和6年3月2日)
・位置図(国土地理院)
・第九番の蓑堂山観音堂は、須坂市米子の蓑堂山の岩尾根にある。観音堂は昭和40年の松代群発地震で傾いてしまい、以来、本尊の十一面観音坐像はふもとの納札所(樋口さん宅)に安置されるようになったという。
・群発地震以来、荒れたままと言われる観音堂参道。現在は蓑堂山の山裾一帯に張り巡らされた電柵の向こうに閉ざされ、遥拝するのみ。
・柱状節理の露頭に松が連なる蓑堂山の尾根は、米子の集落から一目に収めると結構な壮観。スペインカタルーニャ州、モンセラットを彷彿させる。お堂は姿を留めており、よく見える。
・今も菅笠に白装束で観音堂への岩尾根を伝う巡礼者が見られたなら、更に絵になる景色なのに・・・。
・令和6年3月2日現在の蓑堂山観音堂。「地学で巡る信濃三十三番札所」(しなのき書房刊.R2)に、より鮮明な観音堂の拡大写真があります。
・お堂は傾いた時には築10年を経過していたという。昭和30年頃に建てられたものと推測する。コンクリート製のようである。
・ぶっとい柱状節理をも揺るがした群発地震。「この地方において松代地震の影響はまことに大きかったようである・・・その辺を見ると、2mほどの大きな石が畑の中に九つも並んでいた。これも地震の置き土産だと言って、そこにいた農婦が笑いながら説明してくれた」(「こころの旅路信濃三十三番札所」藤木勇三著:コロニー印刷刊.S49)
・地理院地図に参道が記されている。蓑堂山の尾根に出てから、標高差30mの急峻な登りの先に観音堂がある。参道は石を削った階段状で、鎖場もあるという。
「ベベ出し観音」と呼ばれた由縁:「下着を穿く概念が無い」着物の時代の参道風景を想像。
・モンペもパンツもない着物の時代、女衆はどうやってゴツゴツの岩だらけの険しい参道を往復したのか。頑丈な手すりが付いているなら、それにしがみついて往復できたかもしれないが…。
・着物の時代、女性は着物の下には腰巻を巻いていただけという。田植えの時期には田の神様が喜んだ、という昔話は日本中にある。
(安曇野の例:大正時代まで野良着も長着に腰巻だった。安曇野市豊科郷土博物館「私の野良着」PDF3ページ参照)
・観音様まであと少しのところで、思いもよらぬ険しい岩場を前にした女性は、覚悟を決めて着物と赤い腰巻をひょいと捲り上げ、田植えの姿よろしく岩場を這いつくばったのである。・同行の男性は尻端折の褌姿。女性が岩場を登る時には尻を支えてやり、降りる時には体勢を崩しても受け止められるよう、下で構える。その時!男性の視界にちらついたものは何だったであろうか。・着物の時代には「見えた」のである。これが、この札所が「ベベ出し観音」と伝わる由縁だ。この素晴らしいいわれをもたらした参道が、今は電柵に閉ざされている事が本当に惜しい。
東の尾根から観音堂を目指すが、崖に突き当たりあきらめる。
・写真②のとおり、観音堂の東側に伸びる岩尾根はアップダウンの連続である。
・幅が狭く、切り立った岩尾根(※ナイフリッジ)の周囲には掴まるものがない。樹木も、ロープや鎖もない。迂回路もない。岩場はよじ登る時より、降りる時の方がはるかに緊張する。掴まるものがなければ立往生するか、滑落するかしかない。
・用心して進むも、深く切り落ちた崖(※キレット)につき当たって万事休す。これ以上前進する術なく、引き返した。
・登攀(※)に熟練し、クライミングの本格装備一式が用意できる人以外は、東の尾根からお堂に辿り着くのは絶対に不可能。(登攀※とうはん:岩壁や氷壁の登り降り)
・観音堂に立って着物の時代に想いを馳せたかったが叶わず。再び蓑堂山を調べているうちに、米子城址の存在を知った。
・尾根岩頭部の風化防止のモルタル吹付はいつごろ行われたのでしょうか、蓑堂トンネルの改修と同時期かもとの説を見たことがありますが・・・。
(令和6年3月5日 記)
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