その33は大老忠清 下馬将軍です。
第4代上野厩橋(前橋)藩主、承応2年(1653年)、老中首座に就任。
寛文6年(1666年)からは大老に就任して病身の第4代将軍、徳川家綱を輔佐する。
幕政の実権を握り、専制的政治を行ったため、
大手町下馬札のそばに屋敷があったことから「下馬将軍」とも称される。
在任中、伊達騒動や越後騒動などの事件を独断で裁断したことでも有名。
延宝8年(1680年)家綱の死後、後継者問題が紛糾すると
第5代将軍に有栖川幸仁親王を迎えようとし、御三家や他の老中の反対に遭って頓挫。
綱吉の第5代将軍就任後に大老を解任され翌年没した。自害の噂が流れた。
「下馬将軍」と称され、権勢をふるった専制政治家と評されるが、
意外にもその素顔は、小柄で端正な顔立ちの、よく笑う人物で、
芸能を好み、また大変な早口で有名であったという。
譜代の名門、酒井雅楽頭家に生まれ、政治的資質にも恵まれながら、なぜ後世に悪者として描かれたのか。
○前橋藩主酒井氏の菩提寺、龍海院にある酒井忠清の墓所



第4代上野厩橋(前橋)藩主、承応2年(1653年)、老中首座に就任。
寛文6年(1666年)からは大老に就任して病身の第4代将軍、徳川家綱を輔佐する。
幕政の実権を握り、専制的政治を行ったため、
大手町下馬札のそばに屋敷があったことから「下馬将軍」とも称される。
在任中、伊達騒動や越後騒動などの事件を独断で裁断したことでも有名。
延宝8年(1680年)家綱の死後、後継者問題が紛糾すると
第5代将軍に有栖川幸仁親王を迎えようとし、御三家や他の老中の反対に遭って頓挫。
綱吉の第5代将軍就任後に大老を解任され翌年没した。自害の噂が流れた。
「下馬将軍」と称され、権勢をふるった専制政治家と評されるが、
意外にもその素顔は、小柄で端正な顔立ちの、よく笑う人物で、
芸能を好み、また大変な早口で有名であったという。
譜代の名門、酒井雅楽頭家に生まれ、政治的資質にも恵まれながら、なぜ後世に悪者として描かれたのか。
○前橋藩主酒井氏の菩提寺、龍海院にある酒井忠清の墓所


