Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

新海誠特集

2011-05-10 01:02:46 | アニメーション
タイトルは、現在のぼくのブログの状態のことではありません。

そうではなくて、『SFマガジン』6月号の「新海誠特集」のことです。特集を組んでいたのは知っていたのですが、公開前に見たくなかったので、買っていませんでした。で、きのう買ってきて、今晩関連記事を読み終えました。その感想。とりあえず、前島賢(さとし)さんはイイネ!

藤津亮太「モノローグのなくなった世界で」という新海誠論は、自身の以前の論考「二〇四六年夏へのモノローグ」を下敷きにしています。ぼくはこの評論を数年前に読んでいまして、そのときそれに違和感を感じました。この評論での主張は、『ほしのこえ』においては、ノボルとミカコの内面への視線によって、「風景の発見」がなされている、というふうに要約できます。登場人物の内面への視線が取るに足らない風景を発見させている、というのです。「風景の発見」というタームはもちろん柄谷行人の論文からの引用なのですが、確かに柄谷氏は、「内面の発見」と「風景の発見」とを同列に置いています。しかし、それを仲立ちするのは言行一致という「文体の発見」であったのであり、藤津氏の評論では、この「文体の発見」への配慮が決定的に欠如していたため、ぼくは彼の主張の正当性を信じることができませんでした。

いま、「モノローグのなくなった世界で」を読むぼくは、次のような記述に共感を覚えるとともに、しかしやはり何かが違う、と感じるのです。「モノローグによって召還される”回想形式”、その回想を通じて、再発見される背景(=風景)。それこそが新海監督の武器であり、文体であった」。

何が違うのか。それは、藤津氏の以下の記述を読むとき、明らかになります。「本作の背景は、内面へと向かう視線によって再発見されるのではない。その代わり、当たり前の世界の美しさを、当たり前に描くためにその力が発揮されているのだ」。『星を追う子ども』には、それまでの新海作品とは異なり、「なんでもない日常の中に潜んでいる魅力をくっきりと取り出して描く」美術や日常描写が見られるというのです。

藤津氏の論はなるほど明快で、筋は通っています。彼によれば、思い出を語るモノローグによって(つまり内面を見つめるモノローグによって)、過去の風景を再発見してきた従来の新海作品に対して、現在進行形の物語である『星を追う子ども』にはモノローグが存在せず、その代わり、当たり前の世界を当たり前に描いています。そして彼は、新海監督は今作で「日常の魅力を引き出す」画面作りにシフトした、と結論付けています。ここで疑問が生じるのです。いったい何からシフトしたのか、と。もちろん、「風景の発見」からのシフトなのでしょうが、「風景の発見」とは、つまりどういうことなのでしょうか。『ほしのこえ』において「とるに足らない風景が再発見されている」と藤津氏が語るとき、それは「日常の魅力を引き出す」美術とどのような差異があるのでしょうか。彼においては当然大きな違いがあるのでしょう。その違いについては、彼の二つの評論を丹念に読んでゆけば解決するのかもしれません。ですが、ぼくがここで言いたいことというのは、藤津氏が言うように、『星を追う子ども』において初めて新海監督は「日常の魅力を引き出す」画面作りを試みたのではない、ということです。それは既に『ほしのこえ』から連綿と試み続けられていた、新海監督の手法だったのではないでしょうか。そして更に言うならば、むしろ『星を追う子ども』において、美術は従来のような形での日常との関わりをやめてしまった、ということです。

個人的には、『秒速5センチメートル』を評する前島賢氏の言葉の方に、ぼくはより強い共感を覚えます。「どこにでもある平凡な風景を、けれども特別な場所として鮮やかに描き出す力において、新海誠の右に出るものはいないと思わされる」。藤津氏が『星を追う子ども』について語った言葉「日常の魅力を引き出す」と同じような言葉は、実は『秒速』にも、そして恐らくはそれ以前の新海作品にも適用できるものだったのです。だからこそぼくは、『星を追う子ども』で初めてそういう「日常の魅力を引き出す」作品にシフトしたという藤津氏の論旨に、賛同できないでいるのです。いったい何からシフトしたのか、と。

新海作品の美術については、ぼくはこれまでもブログで何度か言及したことがありますが、一言でいえば「イバラード目」を体現している美術です。「イバラード目」とはつまり、「平凡な風景を輝かせる目」のことですが、『秒速』以前の劇場作品は全て例外なく、そのような風景が世界を領していました。しかし同時に、世界に対する登場人物の心理的な孤絶感をも演出してしまう風景でもありました。世界は美しい。けれども、私はそんな世界の中に独りきり取り残されている――。言ってみれば、世界の美と登場人物の孤独ないし虚無感が鋭く対比されていたわけです。

ところが、『星を追う子ども』の美術は、過去作品とは趣きを異にしています。前島氏が言うように、「これまでの透明感溢れるデジタルな色彩から、手塗りのセル画の質感に近づけられている」。ぼくもこれとほぼ同じことを先日書いたばかりですが、要するに背景の描写が質的に変化しているのです。確かに世界は美しく描かれています。ところが以前のような冷たく屹立する背景であることをやめ、温もりのある、登場人物を包み込むような背景に変貌しているのです。これは個人的な印象の域を出ない感想で申し訳ないのですが、しかし過去作品に共通した登場人物の孤独を際立てた背景が、今作ではむしろ和らげる機能を果たしているように思え、またそれによってかよらずか、登場人物たちの孤独感が今回はありありとは伝わってきませんでした。美術と物語叙述の双方において、未知で神秘であった世界は(世界観の設定が詳細に叙述されることはなかった)、今作ではより身近なものとなっています。

とまあ、こういうふうに、新海作品の美術について、思ったことなどを書き連ねてみました。ところで『SFマガジン』の「新海誠作品リスト&特集解説」に、『雲のむこう、約束の場所 新海誠2002-2004』という、新海監督の超ロングインタビュー本が掲載されていないのはどうしてなんでしょうか。遺漏ってやつか。