Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

しまった!

2012-05-04 22:27:46 | アニメーション
チャンスはどこに転がっているか分からない。悪い場合、チャンスを逃したことさえ気付かない。
きのう、新宿のパークタワーでイメフォフェスの短編アニメーションを観てきて、そのことをさらっとブログに書きました。ぼくはそのとき、自分がとんでもなく大きなチャンスを取り逃がしていたことを知りませんでした。というか、この日、パークタワーで巨大な魚を逃がしていたことを。

魚に喩えては悪いですが、なんとこのとき新海誠監督が会場にいらしてたらしいんですよね!さっきツイートされているのを見て、なにぃっと吃驚。しまったなあ。声をかければよかった・・・いやしかし、今よくよく考えてみると、向こうもプライベートで来ているんだろうし、そういうときに声をかけるのはマナー違反かな・・・?う~む。ああしかし、とにかく残念。まさか新海監督もパークタワーで短編アニメーションを観ていたとは!全然気が付かなかったですよ。くっそう。ひょっとしたらお話できたかもしれないのに(そんなことはない?)。

それにしても、こういうところに来るんだなあ(というかこういうものを観るんだなあ)。へー。

イメージフォーラムフェスティバルJ(について書くはずだったのに)

2012-05-04 00:22:08 | アニメーション
Jプログラムは世界のアニメーション・セレクション。
いずれの作品もそれなりに見応えはありましたが、しかし心に響くような傑作(自分にとっての)は残念ながらありませんでした。ただ、マイキー・プリーズの『イーグルマン・スタッグ』はもう一度観てみたいと思わされました。

プログラムの解説には、「アート・アニメーション選集」と書かれていますが、アートアニメーションって言葉がここでも使われていることにちょっと驚く。ぼくはこの言葉はなるべく使わないようにしていて、どうしても使わざるを得ないときには「いわゆる」という言葉を前に付けるようにしています。もっとも、普通に「アートアニメーション」と言ってしまった方が好都合なときも少なからずありますが。

なぜ「アート」と呼ばないのか。これは今まで色々なところで議論されてきた問題で、そもそも「アート」という定義が不明瞭、「アートアニメーション」と「アニメーション」(あるいはそれと「アニメ」)との差異が不明瞭、それらの区別に本質的な意味はない、仮に区別する意義があったとしても、「アート」という言葉は他のアニメーションより上位に置かれてしまう(つまり権威を有してしまう)、・・・等々の疑問点があります。

ぼく個人の立場を言えば、「アートアニメーション」とそれ以外との間に区別を設ける本質的な必然性を感じないということ、それから一部の作品を「アート」と呼ぶことによって生じる「アート的なもの」から除外される作品にも、十分に「アート」足りえる作品が存在していること(つまり両者に区別は存在しえないということになりますが)、といった点から、「アートアニメーション」という言葉はあまり用いないようにしています。したがって、「積極的にジャンルを区別する必要はあるが、アートという言葉は不適切」といった主張とは異なります。

ただし、実は「アートアニメーション」という言葉を用いると便利なことが多いというのが日本の現状であることも確かです。例えば、「趣味は何」と聞かれて「アニメを観ることです」と答えるのと、「アートアニメーションを観ることです」と答えるのとでは、印象はまるで違います。履歴書の「趣味」欄に「アニメ鑑賞」と書くのと「アートアニメーション鑑賞」と書くのとでは、採用者の印象も違ってくるでしょう。これは、日本では「アニメ」と言うとTVアニメやディズニー、ジブリが念頭に置かれ、その愛好者は子供かオタクかというような杜撰な二者択一が行われているからです。しかし、アニメーションには当然それらの範疇から逸脱した作品が存在しているわけで、当然その愛好者もいるわけです。だから、「アートアニメーション」という言葉が存在意義を持ってしまうのであり、それがここまで広まってしまうのだと思います。要するに、現在の日本の偏ったアニメーションに対する認識が、「アートアニメーション」という用語を招来し、それを便利なものにしているのだと言えます。したがって、「アートアニメーション」という言葉をなくしたいのなら、その人たちはこの現状を何とか変えないといけないのだと思います。

「アート」という冠が有害なのは、それをかぶせられた作品が色眼鏡で見られてしまうことと並んで、それ以外の作品が一段低く見られてしまいそうなことも理由の一つに挙げられます。むしろぼくはこの後者の方に義憤を感じてしまっているんですよね。

ただ、ぼくは「アートアニメーション」という言葉をなくしてしまえとは思っていません。それが現状では有効足りえることは既に書いたとおりですが、やはり適切な用語がないんですよね。インディペンデント・アニメーションとか、実験アニメーションとか、代わりの用語があるにはありますが、どれも定着はしていません。でもそれでいいのかなという気はしています。「アートアニメーション」という言葉も、まだ一般にはそれほど認知されていないはずですが、このくらいの浸透度でいいのでは、という気持ちがあります。あやふやな定義のままであやふやに使用されている言葉ですが、実験アニメーション等の用語と並んで使用されて、何となくのイメージを抱かせることができていればいいのだと思います。「アート」の定義が仮に可能だとしても、それに作品が完全に合致することを証明することがまず不可能である以上、制度として「アートアニメーション」が定義され適用されることは意味を為しません。でも、一つの認識手段としてなら、そういう言葉があってもいい。確かに、よく分からない言葉ではあるのですが、でも分からないままでいい。ぼくはこの言葉を使いませんけどね。・・・と言うのでは、あまりに無責任でいい加減かなあ。

「アートアニメーション」よりも問題なのは「純文学」の方だと思っています。というか、この二つって実はけっこう結びついている気がします。アニメーションの純文学版だと理解されそうな気がするから。

う~む、ちょっと考えてみると、これは非常に錯綜していて奥深い問題のような気がしてきました。ここらで退散しよう。