ロシア・アヴァンギャルドという運動が、見ること・触れることという問題系と密接に関わってくるという見通しが間違っていないとしたら、それを学ぶ勤勉な読者はメルロ・ポンティを読み始めるだろうし、そこからバークリの著書やモリヌークス問題にも関心を抱き始めるだろう。当然クレーリーの著作は丹念に読み解こうとするはずだし、高山宏の本にも手を出すはずだ。そしてこの過程のどこかでヴントやヘルムホルツの重要性にも気付くだろう。そのうちシクロフスキーがこの二人の著作を読んでいたことも分かるだろうし、彼らとマチューシンとの関わりも見えてくるだろう。だいたい、キュビスムの概念を少しでも理解している者なら、マチューシンでなくともその視覚理論には想到するはずで、彼とヘルムホルツとの関連が気になり出してもおかしくない。
マチューシンのことを知っているなら、当然ザーウミのことも知っているはずで、彼の視覚理論とザーウミとが本質的にかなり近いものであることもすぐに分かる。とするならば、立体未来派の人々のザーウミが見ること・触れることの問題系に還ってくるというのは当然の成り行きだ。
ところが、例えばヘルムホルツとマチューシンというテーマで書かれた日本語の論文は見当たらない。ロシア語だったら15年も前に両者の関係性に言及した論文が書かれている(ちなみに勤勉でないぼくは今日知った。で、今日読み始めた)。
ぼくはロシア・アヴァンギャルドという運動はどうも好きになれなくて、3-4年前まではそれに関する知識は皆無と言ってもよかったくらいなんだけど、それでも3-4年もすれば見えてくるものもある。で、そのようやく見えてきたものが、外国では著名な研究者によってとっくに俎上に載せられているにもかかわらず日本ではほとんど言及すらされていないことに、唖然としてしまう。アヴァンギャルドが好きな人たちは、いったい何をやっているんだろうと、不思議でならない。上に書いたようなことは、はっきり言って学部生だって気が付くんじゃないか。だってそれに関係する翻訳があるんだから。
もちろん、人にはそれぞれ自分のテーマというものがある。優れた人たちは勝手に自分のテーマを突き詰めていっているのかもしれない。でも、そのかわり日本にはまだ土台がないんじゃないかと思えてきてしまう。こんな基本的な事柄でさえもが日本語できちんと文章化されていないのだ。自分のテーマを磨くのもいいけど、そういう人たちは自分が死んだ後に自分の研究を引き継いでくれる人がいるとでも信じているんだろうか?未来のことを考えているんだろうか。やるべきは、書誌の伝達とある種の教科書の作成。
ぼくは、自分がいなくなった後のために、丹念に資料を書き出して事実関係を明らかにしてきたつもりなんだけど、どうやらそれは望まれていない仕事だったらしい。自分らしい切り口、自分のテーマで論文を書いた方がよかったらしい。でも、それは間違っていると思う。少なくとも、それだけが奨励されるべきじゃない。いつかこの作家のことを研究したいと思う誰かのために、その人たちのためになるような文章を書いてきたんだけど、それは余計なお世話だったようだ。
他の人たちが何のために研究しているのか知らないけどさ、極私的な興味で研究を続けることだけが尊ばれるのはおかしい、もっと公的な理由、つまり未来のため文化のために研究を続けることが尊重されていいはずだ。そしてそうであるならば、ごく一部の人以外は誰も読まないような専門誌に極私的な視点で書かれた論文を投稿するより他に、することがあると思う。
いつの間にか愚痴になっちゃったな。まあ所詮は負け犬の遠吠えです。
マチューシンのことを知っているなら、当然ザーウミのことも知っているはずで、彼の視覚理論とザーウミとが本質的にかなり近いものであることもすぐに分かる。とするならば、立体未来派の人々のザーウミが見ること・触れることの問題系に還ってくるというのは当然の成り行きだ。
ところが、例えばヘルムホルツとマチューシンというテーマで書かれた日本語の論文は見当たらない。ロシア語だったら15年も前に両者の関係性に言及した論文が書かれている(ちなみに勤勉でないぼくは今日知った。で、今日読み始めた)。
ぼくはロシア・アヴァンギャルドという運動はどうも好きになれなくて、3-4年前まではそれに関する知識は皆無と言ってもよかったくらいなんだけど、それでも3-4年もすれば見えてくるものもある。で、そのようやく見えてきたものが、外国では著名な研究者によってとっくに俎上に載せられているにもかかわらず日本ではほとんど言及すらされていないことに、唖然としてしまう。アヴァンギャルドが好きな人たちは、いったい何をやっているんだろうと、不思議でならない。上に書いたようなことは、はっきり言って学部生だって気が付くんじゃないか。だってそれに関係する翻訳があるんだから。
もちろん、人にはそれぞれ自分のテーマというものがある。優れた人たちは勝手に自分のテーマを突き詰めていっているのかもしれない。でも、そのかわり日本にはまだ土台がないんじゃないかと思えてきてしまう。こんな基本的な事柄でさえもが日本語できちんと文章化されていないのだ。自分のテーマを磨くのもいいけど、そういう人たちは自分が死んだ後に自分の研究を引き継いでくれる人がいるとでも信じているんだろうか?未来のことを考えているんだろうか。やるべきは、書誌の伝達とある種の教科書の作成。
ぼくは、自分がいなくなった後のために、丹念に資料を書き出して事実関係を明らかにしてきたつもりなんだけど、どうやらそれは望まれていない仕事だったらしい。自分らしい切り口、自分のテーマで論文を書いた方がよかったらしい。でも、それは間違っていると思う。少なくとも、それだけが奨励されるべきじゃない。いつかこの作家のことを研究したいと思う誰かのために、その人たちのためになるような文章を書いてきたんだけど、それは余計なお世話だったようだ。
他の人たちが何のために研究しているのか知らないけどさ、極私的な興味で研究を続けることだけが尊ばれるのはおかしい、もっと公的な理由、つまり未来のため文化のために研究を続けることが尊重されていいはずだ。そしてそうであるならば、ごく一部の人以外は誰も読まないような専門誌に極私的な視点で書かれた論文を投稿するより他に、することがあると思う。
いつの間にか愚痴になっちゃったな。まあ所詮は負け犬の遠吠えです。