Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

なぜfacebookをやらないのか

2011-05-13 00:56:11 | Weblog
久しぶりに新海監督の映画と関係ない記事を。

で、なぜやらないのか、と言いますと、過去に出会い現在は音沙汰のない人たちと交信をしたくないからです。ところがフェイスブックってのは、それこそがまさに目的というか、売りなわけですから、ぼくは絶対にやりたくないのです。あと、ネット上に本名と顔写真公開とか、ありえないです。

で、なぜ交信したくないのか、と言いますと、とりあえず過去を高校時代に限定するならば、その頃の自分を自分で嫌っているため、当時の自分を知る人たちとはなるべく関わり合いになりたくないからです。ぼくにとって、高校時代は最低でした。思い出は何もありません。別にいじめられていたわけでもないし、教室で一人浮いていたわけでもありません。でも、ぼくは孤独を感じていたし、通学時はいつもいつも自殺を夢想していました。何もかもが嫌だった。学校も、クラスメイトも、教師も、自分も。中学生の頃は「いつも笑っているね」と評されたぼくの顔は、急激に曇り、ひどく陰鬱になりました。性格は180度変わり、教室ではまるで目立たない、一人の無口な少年へとなり果てました。体力も、気力も、活力も、全てが失われ、ぼくは生ける屍となって毎日登校していました。この暗黒の時代に培われたものは、何もありません。何も残っていません。ぼくは当時の一切を封印して、海の底に沈めてやりたい。だから、この時代に結びつくものとは、どんな些細なものであっても、今更関係したくはないのです。

一方、この暗黒時代に対比されるのが中学時代で、この頃はあまりにもよすぎたために、いま関係を持ちたくないのです。中学時代の友人のことは、ぼくの記憶の中に永遠にとどめておきたい。現在の彼ら彼女らの事情は、知りたくないのです。永遠の少年少女として、ぼくの頭の中に生きている、それでいいのです。

フェイスブックは過去を呼び戻してしまう。ところがぼくはそれが絶対に許せない。だから、やらないのです。やっている人を見ると、幸福なんだな、と思えてきます。過去と訣別せざるを得ない人生、と言えば大袈裟ですが、しかし一方で過去を憎み、他方で過去を愛し、現在を嫌うぼくのような人間にとって、フェイスブックというのはあまりにも単純に過ぎるシステムですね。フェイスブックで繋がりたい人間ばかりが大勢いるわけでもないはずなのに、なんでこんなに世界で普及しているのか、不思議。人生ってもっと複雑なんじゃないかしら。

あ、別にやっている人たちが単純な奴らだ、と言っているわけではないですよ。そうではなくて、人生は複雑なのに、なんで皆フェイスブックの単純さを受け入れられるんだろう、とそこが不思議なだけです。

傑作じゃなくていい

2011-05-11 00:07:51 | アニメーション
先月は、よーし勉強するぞー的なノリだったのですが、最近は駄目です。だるい、疲れた、眠い、の無気力ワードを心の中で連発してます。なんでこんなにやる気が出ないのか。

さて、ここ数日は新海誠作品について色々と書いてますけれども、それらを読む人に、ひょっとしたら誤解を与えているのかもしれない。というのは、ぼくは新海作品が大好きですけれども、同時にそれらが傑作だと感じていると、思われているのではないか?そうではないです。傑作だとは決して思っていません。『ほしのこえ』にしろ『雲のむこう』にしろ、あれは傑作じゃない。かなり不備の目立つ作品です。でも、ぼくは好きなんです。作品の完成度は必ずしも高くないけれども、でも、人の心を激しく打ちます。それでいいのです。

不備というのは、世界観がしっかりと説明されていない(あるいは構築されていない)、登場人物たちの家庭環境が描写されていない、という二点がまずは挙げられます。それによって、リアリティが欠如してしまうわけです。『秒速』は前二作と比べれば完成度は高いですが、やはり主人公たちの家庭がどうなっているかの描写が弱く(とりわけ「桜花抄」で一晩を過ごすときの親の心配はどうだったのか)、リアリティに欠けたところがあったのは否定できません。

しかしながら、これら三作品にはそういう不備を補うだけの絶大な魅力があったのです。むしろ、描かれないことがかえってその魅力を強めているような、そういう逆説的な現象さえ生じていたように思います。繊細な心理描写が浮き彫りになったわけですね。

翻って『星を追う子ども』では、監督はこれまで描いてこなかった世界観や家庭環境を積極的に描こうとしています。でも、前にも書きましたが、それはこの監督の得意とするところではないのです。従来の得意技を封印して、これまで試みてこなかったことを敢然と試みています。

より多くの人たちに見てもらいたいと思っての作品作りだったのでしょうが、でも少数の人にしか分からない作品でもいいじゃないか、と思ったりもします。新海さんは、『雲のむこう』のDVD所収のブックレットに、次のような言葉を載せています。

「(前略)せめて作品には自身の善いところ、美しいところだけを詰め込みたいと願っていました。そしてこの世界の中のただ一人きりでいい、その人の心のいちばん深く、いちばん柔らかな場所にこの作品が届きますように、と。」

間違いなく、ぼくはその「一人」でした。実際には「一人きり」ではなく、たくさんの同志がいることでしょうが。どうかこれからも、新海さんの「美しいところ」だけを詰め込んだ、世界で一人きりの人に向けた作品作りをしてください。

新海誠特集

2011-05-10 01:02:46 | アニメーション
タイトルは、現在のぼくのブログの状態のことではありません。

そうではなくて、『SFマガジン』6月号の「新海誠特集」のことです。特集を組んでいたのは知っていたのですが、公開前に見たくなかったので、買っていませんでした。で、きのう買ってきて、今晩関連記事を読み終えました。その感想。とりあえず、前島賢(さとし)さんはイイネ!

藤津亮太「モノローグのなくなった世界で」という新海誠論は、自身の以前の論考「二〇四六年夏へのモノローグ」を下敷きにしています。ぼくはこの評論を数年前に読んでいまして、そのときそれに違和感を感じました。この評論での主張は、『ほしのこえ』においては、ノボルとミカコの内面への視線によって、「風景の発見」がなされている、というふうに要約できます。登場人物の内面への視線が取るに足らない風景を発見させている、というのです。「風景の発見」というタームはもちろん柄谷行人の論文からの引用なのですが、確かに柄谷氏は、「内面の発見」と「風景の発見」とを同列に置いています。しかし、それを仲立ちするのは言行一致という「文体の発見」であったのであり、藤津氏の評論では、この「文体の発見」への配慮が決定的に欠如していたため、ぼくは彼の主張の正当性を信じることができませんでした。

いま、「モノローグのなくなった世界で」を読むぼくは、次のような記述に共感を覚えるとともに、しかしやはり何かが違う、と感じるのです。「モノローグによって召還される”回想形式”、その回想を通じて、再発見される背景(=風景)。それこそが新海監督の武器であり、文体であった」。

何が違うのか。それは、藤津氏の以下の記述を読むとき、明らかになります。「本作の背景は、内面へと向かう視線によって再発見されるのではない。その代わり、当たり前の世界の美しさを、当たり前に描くためにその力が発揮されているのだ」。『星を追う子ども』には、それまでの新海作品とは異なり、「なんでもない日常の中に潜んでいる魅力をくっきりと取り出して描く」美術や日常描写が見られるというのです。

藤津氏の論はなるほど明快で、筋は通っています。彼によれば、思い出を語るモノローグによって(つまり内面を見つめるモノローグによって)、過去の風景を再発見してきた従来の新海作品に対して、現在進行形の物語である『星を追う子ども』にはモノローグが存在せず、その代わり、当たり前の世界を当たり前に描いています。そして彼は、新海監督は今作で「日常の魅力を引き出す」画面作りにシフトした、と結論付けています。ここで疑問が生じるのです。いったい何からシフトしたのか、と。もちろん、「風景の発見」からのシフトなのでしょうが、「風景の発見」とは、つまりどういうことなのでしょうか。『ほしのこえ』において「とるに足らない風景が再発見されている」と藤津氏が語るとき、それは「日常の魅力を引き出す」美術とどのような差異があるのでしょうか。彼においては当然大きな違いがあるのでしょう。その違いについては、彼の二つの評論を丹念に読んでゆけば解決するのかもしれません。ですが、ぼくがここで言いたいことというのは、藤津氏が言うように、『星を追う子ども』において初めて新海監督は「日常の魅力を引き出す」画面作りを試みたのではない、ということです。それは既に『ほしのこえ』から連綿と試み続けられていた、新海監督の手法だったのではないでしょうか。そして更に言うならば、むしろ『星を追う子ども』において、美術は従来のような形での日常との関わりをやめてしまった、ということです。

個人的には、『秒速5センチメートル』を評する前島賢氏の言葉の方に、ぼくはより強い共感を覚えます。「どこにでもある平凡な風景を、けれども特別な場所として鮮やかに描き出す力において、新海誠の右に出るものはいないと思わされる」。藤津氏が『星を追う子ども』について語った言葉「日常の魅力を引き出す」と同じような言葉は、実は『秒速』にも、そして恐らくはそれ以前の新海作品にも適用できるものだったのです。だからこそぼくは、『星を追う子ども』で初めてそういう「日常の魅力を引き出す」作品にシフトしたという藤津氏の論旨に、賛同できないでいるのです。いったい何からシフトしたのか、と。

新海作品の美術については、ぼくはこれまでもブログで何度か言及したことがありますが、一言でいえば「イバラード目」を体現している美術です。「イバラード目」とはつまり、「平凡な風景を輝かせる目」のことですが、『秒速』以前の劇場作品は全て例外なく、そのような風景が世界を領していました。しかし同時に、世界に対する登場人物の心理的な孤絶感をも演出してしまう風景でもありました。世界は美しい。けれども、私はそんな世界の中に独りきり取り残されている――。言ってみれば、世界の美と登場人物の孤独ないし虚無感が鋭く対比されていたわけです。

ところが、『星を追う子ども』の美術は、過去作品とは趣きを異にしています。前島氏が言うように、「これまでの透明感溢れるデジタルな色彩から、手塗りのセル画の質感に近づけられている」。ぼくもこれとほぼ同じことを先日書いたばかりですが、要するに背景の描写が質的に変化しているのです。確かに世界は美しく描かれています。ところが以前のような冷たく屹立する背景であることをやめ、温もりのある、登場人物を包み込むような背景に変貌しているのです。これは個人的な印象の域を出ない感想で申し訳ないのですが、しかし過去作品に共通した登場人物の孤独を際立てた背景が、今作ではむしろ和らげる機能を果たしているように思え、またそれによってかよらずか、登場人物たちの孤独感が今回はありありとは伝わってきませんでした。美術と物語叙述の双方において、未知で神秘であった世界は(世界観の設定が詳細に叙述されることはなかった)、今作ではより身近なものとなっています。

とまあ、こういうふうに、新海作品の美術について、思ったことなどを書き連ねてみました。ところで『SFマガジン』の「新海誠作品リスト&特集解説」に、『雲のむこう、約束の場所 新海誠2002-2004』という、新海監督の超ロングインタビュー本が掲載されていないのはどうしてなんでしょうか。遺漏ってやつか。

なぜ物語を希求するのか

2011-05-08 23:16:56 | アニメーション
山本寛監督の『フラクタル』は失敗に終わった、というのはぼくの見立てですけれども、ネットでもそういう意見は目にしたことがあります(意識的に検索していないので詳しくは知りませんが)。どうして失敗だったかと言えば、これまた個人的な意見ですが、尺不足という問題が大きい。世界観が大きすぎる割に、放送回数が少ないものだから、とてもじゃないが収めきれないんですよね。あの物語をきちんと語るためには、やはり26話は最低限必要でしょう。しかしその半分しか尺がないのであれば、それ相応の演出をしなければならないのに、それが全くできていなかった。初回こそ、ラピュタやナディアやナウシカを感じさせたとはいえ、壮大な物語の幕開けを期待させもしたことを考えると、それ以降の失速は残念でなりません。いや失速というよりは暴走か。各キャラクターの個性や彼らの関係性、またエピソードや世界観がまるで描けていませんでした。一話過ぎるごとに、10話くらい経過したような印象を受けました。

別に『フラクタル』について書くつもりじゃなかったんです。『星を追う子ども』と関連させたかったんです。つまり、どうして両作品の監督は壮大な物語を希求しているのか、ということについて考えたかったのです。

山本寛にしろ新海誠にしろ、たぶん去年までは一部の人にしか認識されてこなかったアニメーション監督です。テレビアニメなど見ないし、劇場アニメはジブリやピクサー以外は見ない、というようなアニメファンではない一般の人たちは知らない名前でしょう。前者は『らきすた』で非常な注目を集め、後者は『ほしのこえ』で一躍アニメーション界の時の人となりました。『らきすた』は女子高生たちのゆるい日常を描く、いわゆる日常系のアニメーションであり、『ほしのこえ』は舞台を宇宙としながらも、実質は少年少女の二人しか登場しないような、極めて私的な世界を描いたものでした(セカイ系とも言える)。そこではバックとなるものが描きこまれておらず、世界は具体性を伴って構築されてはいませんでした。つまり、登場人物たちの家族は全く描かれていないか異常なまでに平準化ないし記号化されていたし、『らきすた』では「物語」は排除され、『ほしのこえ』ではそれは一見壮大な世界観を持ちながらも、実のところ深く描かれることはなく、ただのキャラクターを容れる器の役割を果たしているに過ぎなかったように思います。

ところが、ここに来て両監督とも方針転換します。それが『フラクタル』であり『星を追う子ども』でした。オタクと呼ばれる人たちにしか消費されない物語、世界観、キャラクターばかりを描いていては、日本のアニメーション界は衰弱する、と山本監督は考えていた節があります。だからこそ、もう一度、大人も子供も楽しめるアニメーションを作りたかったのでしょう。日常は半永久的に続くものだ、という無意識な前提が近年の大不況で吹き飛んでしまった、という趣旨のことを語ったのは新海監督です(朝日新聞夕刊のインタビュー)。大震災後の日本では、その言葉ははるかに切実なものになっていると思います。自分たちのエンドレスだった日常が不意に断たれてしまうかもしれない、という危機意識。日本のアニメは今、大きな転換期を迎えているのでしょうか。

山本監督と新海監督とでは、事情がまるで異なりますが、奇しくも同時期に「大きな物語」への志向を見せたことは、興味深いことです。しかし新海監督について言えば、この監督さんは、物語を構築するのがあまり得意ではないのではないか、と思っていました。そうではない部分、むしろそういう物語の余剰部分を見せることが彼の真骨頂ではないかと思います。物語に回収されてしまわないような、登場人物たちの心に迫って来る独白。息を飲むほどの風景美。音楽との調和。光の演出。物語は最低限の骨格さえ用意されていればよかったのです。だから、物語を創出したり、世界観を構築したりすることは、不向きではないかと感じていたのです。『星を追う子ども』で、脚本も書いた監督には一定の構成力があることが分かりましたが(それは意外だった)、でも、新海さんの真骨頂はそこにあるわけではないのに、とも思うわけです。彼はもっと巨大な痕跡を観客の心に残すことができる人です。それは才能なんです。今回の作品は、もちろん通過点でしょう。従来の彼の作品の特長は『星を追う子ども』では影をひそめていましたが、次回作は、それらが今作のよかった点と融合して、大傑作になるものと期待しています。

新海誠を考える(星追い編)

2011-05-08 01:29:46 | アニメーション
復活しました。書きます。

前回のエントリをご覧下さった方にはお分かりの通り、というかプロフィールにもしっかり書いてある通り、ぼくは新海作品が好きです。大好きと言っていい。超絶に好きと言っていい。だからぼくは新海監督の作品について、「上からの批評」をするつもりは毛頭ありません。できるだけ誠実に、監督にもぼくの思いが届くように書きたいと思います。

『星を追う子ども』は、これまでの新海作品とは趣きがだいぶ違います。それは予告編映像などからも分かりますが、巷では「ジブリっぽい」と評判で、それは監督本人もご存じの様子(「新海誠スペシャルナイト」でそのことに言及していた)。予告編で評判になったのは、たぶんキャラクター・デザインでしょう。監督曰く、あれはジブリというより、かつての名作劇場のキャラクターを意識したものだそうです。だから、その系譜を受け継いでいるというジブリと似ているのは結果的に当然のことだと言えます。これまでは極私的な世界を描いてきた新海誠ですが、今回はより普遍的なテーマに挑戦したため、キャラクターもより普遍的(一般に受け入れられている)と監督の感じるデザインになったようです。

ところが、実際に映画を見てみると、「ジブリ」を感じさせるものはキャラクター・デザインだけではありませんでした。個人的には、「ラピュタ」「もののけ」「ゲド」との類似を多く感じました。それはアイテムや装束、モンスター、出来事、そしてテーマに見つけることができます。

また、音楽も従来のピアノを基調とした繊細なものから、オーケストラを使用したダイナミックなものに変わっています。音楽とのシンクロ的な演出も減っているように見受けられますが、これは監督が意識したようです。

美術の表現も違います。恐ろしいほど透明感のある、凛然としていてどこか寂しげな風景は、今回少し温もりを感じさせる、手描き感たっぷりの風景に変わっています。

モノローグもなくなり、会話の応酬で物語が進行します。

最大の違いは世界観でしょうか。完全なファンタジー世界を描いている今作は、まさに「冒険活劇」の名前でくくられるに相応しい作品であり、従来のような、現代・未来の日本を舞台にした作品とは当然ながら趣きが異なります。今回は戦闘シーンもあればモンスターも出るのです。

したがって、これまでの新海作品を愛してきたファンたちの間では、意見が分かれるところでしょう。これは違う、と多くの人が思うことは想像に難くない。

しかし新海監督は、「喪失」というものを共通テーマに挙げています。ただし、これまでの作品は喪失に至る過程や喪失する瞬間を描く物語だったのに対し、今作は喪失から始まる物語となっています。「プレ・喪失」か「ポスト・喪失」か。正反対の内容になることは、テーマ設定から言っても必然だったのかもしれません。監督は自身のHPに書いています。

「過去作品(「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」)で描いた喪失の、さらにその先を生きて行くにはどうすれば良いのか──そういった問題意識で作っている作品でもあります。」

「喪失」という言葉をキーワードにすれば、監督の以前の作品と今回の作品とが確かに鮮やかな対照を作り出します。何かを喪失する物語を好んでいたファンは、喪失から立ち直ろうとする登場人物に愛着を覚えないかもしれません。

ですが、ぼくは新海作品の特徴の一つを、届かないメッセージないしディスコミュニケーションに見ています。想いを届けたいのだけれど、それが届かない。あるいは届いたかどうか分からない。あるいは拒絶される。でもとにかく、想いを届けたい。そういう登場人物たちの切実な感情が強烈に表現されていました。もう少し踏み込んで言うと、いやしかし漠然とした言い方をすると、新海誠は、「『それ』になる以前のもの」を描いてきたように思うのです。「それ」というのは、例えば言葉だったり、恋だったりします。『ほしのこえ』というのは、「好き」だという気持ちにお互いが気が付く物語であって、彼らは最初から恋人同士だったわけでは全くありません。長い年月をかけて、物理的な距離と反比例しながら心が近づいてゆくのです。『雲のむこう』もまた、サユリが「好き」という気持ちに気付くまでの物語だと言えます。しかしそれは結局忘れられてしまうのですが。つまり、「好き」という感情になる直前まで描き、そしてついになった瞬間に、再びそれはそれ以前の感情へ解体されてゆくのです。このクライマックスの描写はすさまじいほどすばらしい。『秒速』はやや異質で、「それ」=「恋人関係」が成立する物語ですが、しかしやはりやがてそれは「恋人関係」以前のものへと戻っていってしまうのでした。カナエの言葉にできなかった告白なども、やはり「それ」=「言葉」になる以前の物語と言えるでしょう。届かない、ということは、「それ」に遂にならない、ということです。「何物か」にならない非常に曖昧模糊とした現象を新海監督はこれまで正面から描き、ストレートに表現してきたのです。ぼくはそう思っています。

しかるに『星を追う子ども』には、それが感じられなかった。もちろん、探せば見つけられると思います。でも、これまでのような、ドカンと大砲で撃たれたような衝撃を感じることはできなかったのです。

ぼくは、『星追い』を否定しているわけではありません。これにはこれの魅力があります。新海作品らしいセリフも聞けますしね。それに、切ない物語であることは確かです。でも、その切なさの内情がまるで異なっているように思うわけです。ぼくは、『星追い』が今までの新海作品と違うからという理由で批判されるのを当然だとは思わない。やはり、新しい評価基準が必要なのです。とりあえずぼくは、新海さんの新しいステップを「祝福」したい。

作品自体の感想ではなくなってしまいましたが、まあ初日なので、ネタバレはまずいだろう、と。

ああそういえば、変わらないものがあった。新海さんの映画を見ると、なんでこんなに誰かと語り合いたくなるんだろう?

新海誠を考える

2011-05-07 23:49:39 | アニメーション
「新海誠を考える」というタイトルで、かつてブログで連載(?)していた記事をリンクしておきます。

新海誠を考える~届かなかったメッセージ(1)
http://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/739bc2711b62523b474e0c8200de93a8

新海誠を考える~届かなかったメッセージ(2)
http://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/75d87207d3412b4e109d7b03aa30f756

新海誠を考える~届かなかったメッセージ(3)
http://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/da5b2b9412f6a66ad4dffe3a704cfb91

新海誠を考える~届かなかったメッセージ(4)
http://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/3dd52124d7da79bcc1588c20aad6eea0


新海誠を考える~届かなかったメッセージ(番外編)~
http://blog.goo.ne.jp/khar_ms/e/f4da54665522c4535c59ab91682650da

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どうしてこんなことをするかと言えば、もちろん、本日5月7日が新作『星を追う子ども』の公開初日だからです(既に5月8日になっちゃってますが)。

で、感想を書きたいのですが、色々と渦巻いてます。だからちょっと待ってください。あと過去の記事を読んだりそのリンクを貼るのに疲れてしまって、いまはあまり気力が・・・。だから、感想は次回アップしたいと思います。それが明日になるのか、それとも数十分後になるのか、まだぼくも知りません・・・

何もなし

2011-05-06 02:10:54 | Weblog
最近、ブログに書くこと何かないかなあ、と思って、パソコンの前に30分以上ぼんやり座っていることが多いです。時間の無駄だ・・・。
今日は、自分の過去の記事をぼんやり読んでいました。お出かけの機会が少なくなっているような気がします。
あと、平野啓一郎の『決壊』のレビューはなかなかよく書けていると思いました、我ながら。
あれからまだ2カ月ほどしか経っていないのか。へえ。去年のことのように思えるんですがね。あれ、本当に去年だったっけ?いや違うよな。

うう、なんて中味のない記事だ。おもしろいことないかなあ。

同時並行

2011-05-05 01:23:32 | お仕事・勉強など
明日から、二冊の本を同時並行して読んでゆきたいと考えています。
ロシア語と日本語の本の二冊です。

ぼくは、これまで同時並行して本を読んだことがなく、いつも一冊が終わったら次の一冊へ、と線条的に読書していました。それは、一遍に一つのことができない、同時に多くのことに注意を集中することができない、というぼくの性質に因るものです。一つのことを終わらせないと我慢ならなくて、次のことに取り掛かることができないんですよね。

しかし、今回に限っては、そういう性質から脱却を図ってやろうと思っています。図書館への本の返却期限が迫っているから、というのもありますが、すぐにでも日本語の本を読んでしまいたいんですよね。

それにロシア語と日本語の本ですので、頭の切り替えもしやすいのではないかと思っています。1日にロシア語を5ページ、日本語を50ページほど読む習慣にすれば、10日ほどで読み終わります。これはたぶん無理なくやっていけるペースなので、10日くらいあれば必ずや2冊の本は読み終わるということです(ロシア語の本は当該個所を読み終わるということです)。

そしてこれを達成できたら、次の本へと移ってゆくのです。

スタートダッシュと称して、ロシア語10ページ、日本語100ページから始める手もありますが、これでは精神が疲弊するので(あと午後からだと間に合わないかも)、やはりゆっくりしたペースで継続していきたいと思います。継続は力なり。まあ10日間だけど。

そうそう、渋谷のレイトショーで上映されているポーランド・アニメーションですが、金曜日に行けたら行こうと思います。ちょっと開始時刻が遅すぎるのでどうしようかと迷っているのですが・・・誰か行かないか。

一発ネタ

2011-05-04 00:51:04 | アニメーション
AFRO [HD]


監督の上甲トモヨシ本人が言っているように、初期の頃に作った「出来が悪い一発ネタ」。
まあでも肩の力が抜けていいので、見てみてください。ちなみに上甲氏の名誉のために言うと、彼はもっといい作品をたくさん作っています。

何かを書きたい

2011-05-02 17:24:05 | Weblog
どうしようもない。でも何かを書きたいと思った。
何を書こうかと悩んだ。
しばらくぼんやりしていた。
ふと、思いついた。

どこかへ、行きたい。
自分は生きたいのか死にたいのかよく分からないような人間だが、とりあえず、どこかへ行きたいな、と感じた。パソコンも学校もない世界、ただ道だけがある世界で、歩いていたいと思った。大空を感じ、足の疲れを感じ、汗を感じ、景色を愛で、世界の物音を聞き、歩き続けたいと思った。なんでこんなところにお前はまだ留まっているんだ?そうだ、早く逃げ出せよ。

どこへ行こう?

昔歩いた百草園を、またふと思い出した。紅葉の散る頃。音もなく雪のように降り積もる紅葉と楓。あの当時は幸せだった。

――この足を重くするだけの感傷ならどぶ川に蹴り捨てた。

気持ちがよく分かる。過去が懐かしいからこそ、どぶ川に蹴り捨てなければならない。現在を生き抜くことが難しくなるから。それでも。それでも。過去は石ころではないから。過去は物ではないから。仕方なく肩をすくめて、暗闇の中へ消えてゆく。

闇の中で再び問う。どこへ行こう?