Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

勉強開始

2012-11-07 03:41:12 | Weblog
なんでこんなに勉強してないんだろうと不思議なほどでしたが、今週から(もう明日は水曜だが)勉強開始することにしました。思い返せば、ロシアに来る直前の時期は論文を読みまくっていて、こんな調子がロシアでは続くはずがないと見込んでいましたが、その通りになってしまいましたね。まあ、それでも9月のうちはせっせと論文を読んでいたのですが・・・。いつの間にやら。でも、別に怠けていたわけではないのです。やろうやろうと思っていながら、体がだるくてできなかっただけなのです。そういう時期がぼくには頻繁に訪れるので、そういうときはいくら勉強しようと思ってもできないのですよ。でも、そろそろ大丈夫かな。たぶんだけど。というわけで、日曜までに論文を一本読み終えてみせます。きっと。

と、それはいいのですが、自分がいま何をやっているのか、何をやるべきなのかがよく分からなくなってきました。研究テーマは明確ですが、いま読んでいる論文って、それに関係していないような気がするんですよね。研究対象の時代を扱った論文を漠然と読んでいるだけで、ぼくの研究テーマとはあんまり関わりがない。でも、かといってそのテーマに論及している論文っていうのはあんまりなくて、だから外堀を埋めている内に、自分がどこにいるのかを見失ってしまったという。このテーマの周辺部に関して分かってないこと・知られてないことが多すぎるので、いきなりそのテーマに切り込めないっていうのもあります。例えば、作家がその師匠からどうして離れて行ったのか、とか。詩学の違いとか、喧嘩別れとか、幾つか説はあるのですが、詩学の違いであるならば、どう違うのかをきちんと説明できなければいけないし(いまなされているような説明ではぼくは納得できない)、喧嘩別れならば、どうして喧嘩したのかがはっきりしないといけない。で、ぼくはそういうことが気になってしまって、研究テーマに入り込めないわけですよ。ただ、外堀を埋める作業を経て、なんとなく理由が分かってきました。まだ判然としたわけではないのですが、うすらうすらと。もっとも、それが分かったからといっていいことがあるかどうかってのは、知らないですけどね。

そんなわけなので、ぼく自身が論文を書ける見込みは今のところ立っていません・・・。ごちゃごちゃと細かいことは調べていますが、これっていう核がないんですよね。う~む。

文学少女

2012-11-06 05:13:54 | アニメーション
いきなり余談。
学費を払い込んだ領収書って、たしかオリジナルを既に大学に提出してしまっているので、ぼくの手元にはないのですが、それって実はけっこうやばい事態らしい・・・。たしか大学に提出したと思うのですが、もう一月以上前の話だしな。どうしよう。でも最悪の場合、銀行に問い合わせればぼくがちゃんとお金を払い込んだという証明はできるよな・・・。いやできないのか?まいったな。どうなってるんだ、いったい?領収書はいまどこにあるんだ?事務が持っているのか?たしか某書類を受け取るためにぼくは提出したような気がするんだけど・・・

さて本題。今日、モスクワの劇場でアニメーション映画『文学少女』を観てきました。モスクワの映画館に入ったのはこれが初めてですが、劇場自体は日本と大して変わらないですね。でも、やはり観客が違う。映画を観ながらどっと笑ったり、拍手したりって、日本の映画館ではほとんど見られない光景だと思うのです。それがとても新鮮で、一方でちょっと気を殺がれてしまったり。

『文学少女』は、2年前に公開された映画で、当時観に行きたいと思っていたのですが、いつの間にか公開が終了してしまっていて、結局そのままになっていました。だから今回モスクワで観られることになるとは、思いもよらなかったです。本当はこれの後に上映される日本の短編アニメーションの方を観たい気持ちもあったのですが、食事を優先してしまいました。

で、映画の感想ですけれども、そんなによくはなかった。主人公・心葉(このは)とその幼馴染・美羽との間のもつれた糸を、文芸部部長・遠子が解きほぐす、という基本的なストーリーラインに、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモチーフを絡めてゆく、という基本構造があるわけですが、どうも作品のテイストが一貫していないように感じられてしまった。ユーモラスな場面ととシリアスなそれとが共存していてももちろん構わないはずですが、ただこの作品の場合、シリアスなはずの場面も滑稽に見えてしまったりしました。たぶん、シリアスな事件の描写が浅すぎるためではないでしょうか。表面的に過ぎるのです。いや、これを言葉で説明するのは難しいな。・・・美羽という少女は作家志望であったにもかかわらず、文芸賞に応募して落選、しかしその友人の心葉は14歳にして見事大賞。受賞作は出版されますが、しかし美羽は屋上から飛び降りて自殺。未遂に終わったものの、自身と心葉双方の心に深い傷を残すことになります。心葉はそれから小説を書くことをやめていましたが、偶然遠子に出会ったことで文芸部に入部、彼女のために小説を書き始めます。一方で美羽は心葉に対する愛憎を募らせ、再び彼に接近。美羽にとって、心葉は唯一の友人であるとともに、しかし文芸賞で自らを裏切った憎い相手でもあります。二人は心中しようとしますが、遠子がそれを阻止。彼女はプラネタリウムを舞台に優しく二人の関係性を浄化してゆくことになります。美羽は、自分の醜い心と向き合い、また自分のそうありたいと欲する美しい心を認め、涙を流します。・・・

う~ん、物足りない。なんなんだろう、この物足りなさは。かなり深刻な事柄を扱っているにもかかわらず、プラネタリウムでの過剰なキラキラ演出や、安易なフラッシュバックの多用などが、この作品の深刻さを浅いものにしているような気がしてしまうのです。それに、遠子に諭されただけで涙を流して悔悟する美羽は、やはり素直に過ぎる。あれほどの憎しみ、あれほどの嫉妬を心に燃やし続けながら、そんな簡単に収まってしまっていいのか。この題材を選んだからには、そのような負の感情の浄化の仕方について、もっと真剣に向き合わねばいけなかったのではないか。結局、心葉と美羽、心葉と遠子という二人の関係を軸にしようとしたために、薄っぺらな描写に終始してしまったような印象を受けるのです。二つの関係を軸にすること自体はいいのですが、その一方の関係性が、余りにも重すぎる。重すぎるのに、解決や描写が軽すぎる。このちぐはぐさ。そういう居心地の悪さをぼくはこの映画から感じてしまった。

映画の基本モチーフが『銀河鉄道の夜』であることは書きましたが、心葉と美羽、心葉と遠子は、それぞれジョバンニとカムパネルラになぞらえられています。そうであるならば、この関係性がやがて切断されてしまうことは必然です。遠子が卒業後に北へ去るのは、そういう映画の構造上の必然であるとともに、また美羽と遠子との性格の区別ということもその理由でしょう。つまり、遠子は心葉(とその小説)を愛するがゆえに、美羽とは異なり、彼を独占しようとしないのです。

この映画は、したがって非常に切ない物語になるはずでした。しかし、シリアスな展開と、その安易な描写及び解決によって、切なさは減殺。いまいちテイストの定まらない出来になってしまったような気がします。

あと、いちゃもんを付けるようでナンですが、心葉ってモテ過ぎじゃないですかね?ちょっとおかしくないか。

う~ん、自分の気に入らなかった原因を整理しようと思って書いてみたんだけど、要するにぼくは、切ない物語を期待し過ぎていたのかな・・・?

凡女ルノ

2012-11-04 01:04:31 | 音楽
【全部凡】「だんご大家族」アカペラアレンジで歌ってみた


ぼくも既にHP0です。
こんな歌い手さんがいたのか・・・。これは「だんご大家族」ですが、基本的にはボカロの曲を歌っているみたいです。すげえ。で、選曲が『CLANNAD』といい、やみくろさんの「完全性コンプレックス」といい、完全にぼく好み。いやあ、ネットには いるんだなあ。

予定

2012-11-02 22:49:19 | Weblog
予定は決定ではない、予定は未定なのだ(と、中学のときの体育の先生が言っていた)。
今日、予定していたことはほとんどできなかった・・・。

とにかく意味が分からない。もう学割切符を買うのは諦めた。通常の切符だと非常に高額になるけれども、お金で解決できる問題は、お金で解決してしまった方がいいと思う。これ以上不愉快な思いはしたくない。とりあえず言っておきたいのは、切符売り場の係員は、もっと大きな声で喋れ。そして無視するな。

もう一つ予定していたことも、結局できなかった。このままでは年末に帰国できるかどうか危うい気がする。年末に帰国できないで済めばまだいい方なのだけど。やれやれ。

18歳で大学に入ったとき、ぼくは将来に何も希望を見出せていなくて(今もだけど)、その大学にはまだ友達もいなかったから、これからは一人で生きなければならないと心に決め(まるでノボルのように)、そうして長い間一人で生きてきた。・・・そういうつもりだったのだけど、大学にいる間に大切な友達ができて、彼らに何度も助けてもらいながら、ぼくは大学を卒業できた。色々な場面でイニシアチブを取ったのはぼくかもしれないけれど、でもぼくは決して一人で生きていたわけではなかったのだと思う。

一人で生きていられたと思えた学部時代でさえ、ぼくは多くの人に支えられて生きてきた。そういうことを認識したのは、2年前だったろうか。あるいはもっと前かもしれない。少なくとも2年前に、ぼくははっきりとそう認識した。

ぼくは一人では生きられない。あの頃でさえそうだったのだから、異国にいる今は尚更だ。でもそれがすごく悔しい。さっき用事から戻り、この悔しさに文字通り身悶えしていた。あまりに悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて堪らなくて、泣きそうになって、でも涙は出なくて、全てに失望して、パソコンのスイッチを入れた。自分一人では何もできないという無力感、言葉が操れないとこの国ではただ無視され、追い返されるだけだという挫折感。この屈辱感を癒してくれる言葉を探したかったのかもしれない。でもぼくが見つけたのは、人に頼って生きている人間は寄生虫だという文言だけだった。寄生虫は他者を省みず、自分の利益だけを求めて次々と宿主を変えてゆく。

恐らく文学というものは、寄生虫の悲しみを描くものだ。村上春樹の壁と卵の例えではないけれど、潰される卵の側の視点を持つことが肝要なのだと思う。しかしこんなことを言っても詮ないことだ。誰もが文学を必要とするわけではないのだから。

ぼくは恥辱に沈む。どのような恥辱か?・・・

侘しい

2012-11-02 05:53:38 | Weblog
メールに「是非モスクワに来て下さい」と書いたとき、それは最初はほとんど冗談のつもりだったが、しかし次第にこの言葉が切実さを増していくのを感じた。

メールを宛てたその人に本当に来てもらいたい、というよりは、親しい誰かに来てもらいたいのだと思う。例えば、夕方くらいからずっと頭が痛いのだが、「なんか頭が痛い。寒さのせいかな。それとも気圧の変化のせい?それとも疲れているのかな」というような、日本にいれば何気なく家族に呟いていたような話題でさえ、この国では持ち出す相手がいない。恐らくは、この国の唯の一人もぼくに生じたそのような事態に関心を持たないだろうし、ぼくとてそのようなことをあえて告げようとは思わない。他愛のない談笑はこの国では不可能だ。日本に帰れば、家族や友人たちとつまらない話題から話を広げられる。

ぼくは、『耳をすませば』であったり、『CLANNAD』であったり、サークルのことであったり、ゲームのことであったり、思い出を共有している人たちとそれらについて話をしたいのだが、この国にはそういう相手がいないのだ。一人も。そしてこういう愚痴をこぼせる相手も、当然いない。

「是非モスクワに来て下さい」とメールに書いてから、しばらくぼくはそんなことを黙考していた。いま別の相手にメールを書いてみようか、と思ったけれども、時差があるから返事は来ないだろう。

仮に幸福感というものが、喜ばしい回想によって惹起されるものならば、侘しさというものもまた、喜ばしい回想によって惹起されるのではないか。前者が回想のもたらす第一の波だとしたら、後者はその後に押し寄せる第二の波だ。あるいは第一の波が去った後の空虚。これが侘しさではないか。幸福は去来し、侘しさはその跡に佇む。

ミシュス、君は日本にいるのか。ぼくはここにいる。

先のことを考えて暗澹たる気持ちになる。
なぜぼくは今こんなところにいるのだろう。何のために?将来なんて糞喰らえだ。早く・・・早く・・・早く・・・でも何をすればいい?けれども、自分のことや生活のことをじっくりと考えてみなければいけない。ぼくの友達はそうしている(そうしてきた)。偉いな。ああ、この気持ちも幸福感か。友人に対する尊敬と羨望。すげえな。どうか、彼らには侘しさのない幸福を。

丘に行きたくなった。あの街を散策したくなった。そういえば、色んな人とこの街を歩いてきたな。さあ、侘しさのない幸福をぼくにも。

帽子を求めて

2012-11-01 03:48:50 | お出かけ
朝起きたときはそれほどでもなかったのですが、いざ登校する段になると、絶望的な気だるさが愈々昂進し、そうしてぼくは学校へ行くのをやめた・・・。

授業後に、隣室のトーリャと待ち合わせて帽子を買いに行く約束をしていたのですが、そもそも学校へ行かなかったので、どうしようかと悩んでいたところ(午後からフォネチカの授業があるのでそれには出ようかしら)、既に学校にいるはずのトーリャの部屋からトンカチする音が。あれ、と思ってドアをノックしたら、彼がいる。聞くと、今日は先生が病気で授業が休講になったらしい。それでは今から買い物に行こうという話になって、午後のフォネチカの授業は出る方向で検討していたのですが、しかし勢い余ってそのままショッピングへ。

朝から降り続いていた雨は、外へ出た頃にはみぞれに変わっていました。
普段乗らない路線のトロリーバスに揺られること20分強、到着した目的地は、巨大ショッピングモールでした。そこのスポーツ用品店に帽子が売っているというのです。既にみぞれは雪に変わっています。

さて、そのスポーツ用品店は、そんなに帽子の品揃えはよくないようでしたが、でも二つ気に入ったのがあったので、どうしようかと迷います。一つは日本でも使えそうな、キャップ型帽子に耳あての付いたもの、もう一つはロシアでのみ使えそうな、ふかふかのもの。で、両方買うことにしたのです。ところがトーリャが言うには、このふかふかの帽子は、確かに暖かいけれども、しかし高い(1500ルーブルでした)。赤の広場へ行けば、ロシアのソルジャーが被っているロシア帽子が350ルーブルで売られている。それを見てみようじゃないか。もしそれが気に入らなければ、またここへ戻ってきてこの帽子を買えばいい。そう言うのです。「あのロシア帽子」を買う気にはなれなかったのですが、しかしこのお店でふかふかの帽子を選んでしまっていた時点で、ぼくは既に帽子をある意味ネタとして購入する気持ちでいたのかもしれません。ぼくはトーリャの助言に従いました。

それから雪の降りしきる中を歩いて、マルシュルートカに乗り、地下鉄を乗り継いで、赤の広場へ。一体トーリャはモスクワ中を知り尽くしているのか?裏技的な近道でモスクワ中心部へやって来ました。そこの屋台で目にしたのは、「あのロシア帽子」。最初、おばさんは3000ルーブルの最高に暖かそうな帽子を勧めてきましたが、いくらなんでも高過ぎるから断って、結局350ルーブルの「あのロシア帽子」を購入してしまいました。ちなみに同じやつをトーリャも購入(お揃いになってしまった)。

1000円程度の毛皮帽子なので、どうせ品質は最低ランクだと思いますが、まあひと冬だけだしな・・・。しかしこれ、恥ずかしいな!帰り道、これを被りながらぼくは「恥ずかしい」を連発してしまいましたが、トーリャは「なんで恥ずかしいんだ?大丈夫さ」と気にせぬ様子。そしてどう見ても、丸顔の彼の方がこの帽子がよく似合うのですよ。ぼくは比較的細長なので、こういうのはあまり似合わない・・・。う~ん、やっぱり失敗したかなあ。でもどうせネタのつもりだし・・・。寒さが厳しくなるまでは、もう一つの今風の帽子でやり過ごすつもりですが、厳しくなったらこれを被って学校まで行くのか・・・?恥ずかしい・・・。