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粕谷欽三 鎮魂碑



昨夜、1945年(昭和20年)に19歳で亡くなった粕谷欽三という若者のことを想いました。明治維新のときの戊辰戦争で亡くなっていった会津白虎隊や二本松少年隊の姿に重なりました。

米軍の進化した爆撃戦闘機B29の巨体を追撃するには体当たりしかなかった。
東野利夫医師の書かれた『汚名“九大生体解剖事件の真相”』の「追記」のなかに、この唯一の生存者であるB29の機長・ワトキンズ氏と1980年(昭和55年)にアメリカで対面できたときの話が記されています。

そのときこの粕谷少年の写真を見せると、元機長は「カミカゼ!」とひとこと言ったきり目をそむけてしまったという。

私は今日、粕谷少年の鎮魂碑を訪ねようと思いました。今日行かなかったら、ずっとあとになるか、行かなくなると感じたんです。



行ってみると、車で約15分ほどでした。
鎮魂碑は中央です。





軍一等飛行兵曹粕谷欣三と彫られています。



久保帰還兵建之となっています。
“久保”というのは、この集落の地名です。
この地域の帰還兵が“之を建てる”と刻まれています。



碑文前半です。



碑文後半。



粕谷少年が墜落したのはおそらくこのあたりの谷でしょう。



この周辺です。



故郷遠く眠る紅顔19歳の烈士に花を賜りたいと書かれています。

『汚名“九大生体解剖事件の真相”』の追記には
ワトキンズ機長から竹田市民へのメッセージが書かれています。

竹田のみなさまへ

“殉空の碑”の慰霊祭は祖国の安寧のために尊い生命を捧げた御霊を想起し、あの忌まわしい戦争の悲劇を考えさせるよい機会だと思います。
私はこれたの御霊に深い感銘を悲しみを覚えるのであります。
今まで国家と国家n間には幾多の戦争があり、そのたびに沢山の尊い生命が失われていきました。
私、マービン・S・ワトキンズは1945年5月5日、九州に飛来したB29の機長として、竹田市のみなさまに私の部下と日本の少年航空兵を追悼する合同の慰霊碑を建立して下さったことに深く感動し、そのご努力に感謝いたします。
日米両国の今日の平和と友好の影には生命を捧げて礎(いしずえ)となった犠牲者があることをわたくしたちは決して忘れてはなりません。
過去36年にわたって共に享受してきたこの湯公を日米両国の者が、今後とも末永く維持するよう心からお祈りいたします。

  1981年5月5日   元B29機長 マービン・S・ワトキンズ