蒲田耕二の発言

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東海道四谷怪談

2016-05-16 | ステージ
前進座の恒例5月公演は古典と新作を1年おきに上演していて、今年は古典で鶴屋南北の『東海道四谷怪談』。この超有名な怪談ドラマは昔、歌右衛門の主演で観たことがある。しかしあれは、確か見どころのみ(お岩の髪梳きの場とか戸板返しの場とか)の抜粋上演だった。今度のは全幕通し上演。

通しであるから当然、長い。役者も大変だろうが、観る方も4時間半、休憩込みとはいえ国立劇場の硬い椅子に座りどおしで体力勝負だったです。2日経ったいまも腰が痛い。それでも最後まで席を立つ気にならなかったのは、河原崎国太郎がヒロインを演じていたからだ。

どちらかというとオバサンくさかった歌右衛門に対して、国太郎のお岩は水もしたたる美女である。お岩は亭主にないがしろにされ、生活苦にやつれた女なのだから、それだとちょっとヘンなわけだが、超論理・脱論理こそが古典歌舞伎の真髄だ。理屈をこねてはいけない。

超美女が毒を盛られて相貌一変、蒼白の顔面に毒々しい血糊の夜叉と化して呪いを吐き散らす。そこが面白い。観客はオノレの中に潜むサドマゾ願望をいやというほど刺激される。爛熟の後期江戸文化のデカダンな魅力、横溢。

脱論理といえば、3幕の幕切れも可笑しい。お岩と小仏小平の死骸を裏表に打ちつけた戸板返しのすぐあとで、凄惨な悶絶死を演じたばかりの国太郎が「おもん」なる美女に扮して登場する。伊右衛門その他と4人連れで陽気なダンスを踊ったあげく、観客に笑顔を振りまきながら花道を引き揚げる。

この「おもん」、ドラマの展開には関係ない通りすがりの女である。このあとにはまったく出てこない。暗い場面が続く舞台の毒消しを図り、ついでに人気女形の愛嬌も見せるという、観客サービスのためだけに登場する役だ。

悲劇の中に喜劇的要素をブチ込んでドラマを多彩化重層化するのはシェイクスピアがよく使う手だが、シェイクスピアは曲がりなりにも最小限の論理が通るように工夫している。南北に掛かっては、それすらナシ。観客の喜ぶことして何が悪いと、ほとんどアッケラカンの開き直りだ。

カタキ役の伊右衛門は本来、悪の冷ややかな魅力が光る二枚目の役である。しかし、演じる嵐芳三郎はちょっと線が細く、ワルが板につかない。この役じゃ、古い映画で演じた天知茂が圧巻だったです。

各紙に出そろった蜷川追悼の弁。大竹しのぶのそれに、ワタシはいちばん打たれました。「蜷川さんがいなくなったと聞いたとき、世界中に魂をばらまいたんだと思いました」。体を張って生きている人の発言には、絶対の直観があるよな。
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