フランス映画なのに英語タイトルとは、こはいかに。実は日本の配給会社(いまはなき新外映)がつけた訳題で、原題は "Des gens sans imporatnce"(名もない人々)という。中年のトラック運転手と安宿の女中のしがない恋物語。
絵空事のハリウッドとは対照的な、リアリズムの「芸術映画」の牙城とフランス映画界が見なされていた時代の代表作……とまではいえないかな。でもまあ、ベスト50の1本ぐらいには数えられると思うよ。
これが先日NHK-BSで放送されて、いや~懐かしかったねえ。ジョゼフ・コスマの物悲しいメロディ、フランソワーズ・アルヌールのうらぶれた風情。高校時代に魅せられました。
学校が九段坂の上にあったものだから、1時限目の授業に出たあと抜け出て、まだお堀端を走っていた都電で日比谷の映画街へ。授業をサボっては120円の早朝割引でロードショーを観まくったもんです。
『ヘッドライト』は、これもいまはなき丸の内日活という映画館で上映されていた。丸の内警察の裏手にあり、ピンクとパールホワイトの2トーン・カラーで、正面に大きな襞装飾のあるキレイな小屋だった。
テレビが普及する前は「芸術映画」も結構商売になるぐらい客が入っていたから、フェリーニやクレマン、ヴィスコンティらの渋い作品が都心の大きな映画館に掛かっていたんだよね。
『ヘッドライト』はロードショーで3回ぐらい観た。70年代に映画のビデオが発売されるようになると、真っ先にこれを買った。なんせ、アルヌールに熱中してたもんで。
この人、後輩のブリジット・バルドーにお株を奪われて60年代には人気凋落してしまったが、演技力はバルドーより上だった。バルドーには絶対無理な、庶民の生活感を表現することができた。
でもこの映画、改めて見返すと、フランス映画としてはちょっと毛色が変わってるんだよね。感傷的な人情話が、まるで小津や成瀬の古い映画みたい。住民同士の相互不信が強く人間関係のギスギスしたフランスの話とは、とうてい思えない。
監督のアンリ・ヴェルヌイユはアルメニア系だから、情緒の在り方が根っからのフランス人とはちょっと違うのかも。
ルネ・クレマンやジュリアン・デュヴィヴィエに比べて評価は高くなかったが、登場人物の心情描写に細かな目配りを見せる監督だった(少なくとも、60年代になって大味なアクションを撮りだすまでは)。
アルヌール演じるヒロインは女中の仕事に疲れ果て、母親のいる故郷に戻る。しかし母親は年下の愛人と同棲しており、娘を受け入れるつもりはない。
母娘が話をする冬の野外音楽堂の、冷え冷えとした雨上がりの光景が美しい。モノクロ撮影独特の澄んだ美しさだ。ヒロインの胸の内を吹き抜ける寒風がありありと分かる。
運転手仲間のパーティの描写も、芸が細かい。ジャン・ギャバン演じる主人公は一家全員で参加しているが、貧乏生活にやつれ、愚痴ばかりこぼす妻との仲はとっくに冷えている。
その妻の求めで渋々ダンスを始めるが、音楽演奏が終わってしまう。しょうがないだろ、みたいなセリフとともに席に戻り掛けると、ふたたび演奏が始まる。妻は期待を込めて夫の顔を見上げるが、夫は知らん顔で席に戻っていく。
こういう細かな描写の積み重ねが、年の離れた男女が合い寄っていく過程を自然に納得させる。
この映画、80年代の半ばに(てことは、バブル真っ盛りのころですな)日本で仲代達也と藤谷美和子の主演でリメイクされた。ところが藤谷自身、もう話が古くて古くて、ヒロインにはあんたがバカなのよと言ってやりたいと、あちこちでしゃべり散らす始末。時代背景が劇変してる上に、派手なカラーと凡庸な演出だもの、彼女がそう言うのも無理はなかった。
日本もフランスも貧しく、一所懸命に働かないと食えない時代だったから、こんなつましい人々のつましい映画が成立できたんでしょうね。
オリジナルに話を戻すと、脇役のリラ・ケドロヴァが強烈な印象を残す。『その男ゾルバ』で、監督と衝突したジャンヌ・モローの代役でホテルの女将を演じてアカデミー賞を獲得した女優です。
『ヘッドライト』ではモンマルトルの連れ込み宿(ラブホではなく、街娼が客と利用するホテル)の女将を演じていて、花森安治そっくりの顔に厚化粧を塗りたくって、娼婦上がりであることが一目で分かる嫌味たっぷりの中年女なのだが、盗み聞きを見咎められて仏頂面で逃げ去るあたり、なんとなく滑稽で憎めない雰囲気も醸す。
こんな風に街の空気をぷんぷん漂わす役者、作品のリアリティをふくらませてくれる役者は近ごろ、とんと少なくなったよなあ。こういうキャラにリアリティのあった時代も、もはや過去のものだが。
絵空事のハリウッドとは対照的な、リアリズムの「芸術映画」の牙城とフランス映画界が見なされていた時代の代表作……とまではいえないかな。でもまあ、ベスト50の1本ぐらいには数えられると思うよ。
これが先日NHK-BSで放送されて、いや~懐かしかったねえ。ジョゼフ・コスマの物悲しいメロディ、フランソワーズ・アルヌールのうらぶれた風情。高校時代に魅せられました。
学校が九段坂の上にあったものだから、1時限目の授業に出たあと抜け出て、まだお堀端を走っていた都電で日比谷の映画街へ。授業をサボっては120円の早朝割引でロードショーを観まくったもんです。
『ヘッドライト』は、これもいまはなき丸の内日活という映画館で上映されていた。丸の内警察の裏手にあり、ピンクとパールホワイトの2トーン・カラーで、正面に大きな襞装飾のあるキレイな小屋だった。
テレビが普及する前は「芸術映画」も結構商売になるぐらい客が入っていたから、フェリーニやクレマン、ヴィスコンティらの渋い作品が都心の大きな映画館に掛かっていたんだよね。
『ヘッドライト』はロードショーで3回ぐらい観た。70年代に映画のビデオが発売されるようになると、真っ先にこれを買った。なんせ、アルヌールに熱中してたもんで。
この人、後輩のブリジット・バルドーにお株を奪われて60年代には人気凋落してしまったが、演技力はバルドーより上だった。バルドーには絶対無理な、庶民の生活感を表現することができた。
でもこの映画、改めて見返すと、フランス映画としてはちょっと毛色が変わってるんだよね。感傷的な人情話が、まるで小津や成瀬の古い映画みたい。住民同士の相互不信が強く人間関係のギスギスしたフランスの話とは、とうてい思えない。
監督のアンリ・ヴェルヌイユはアルメニア系だから、情緒の在り方が根っからのフランス人とはちょっと違うのかも。
ルネ・クレマンやジュリアン・デュヴィヴィエに比べて評価は高くなかったが、登場人物の心情描写に細かな目配りを見せる監督だった(少なくとも、60年代になって大味なアクションを撮りだすまでは)。
アルヌール演じるヒロインは女中の仕事に疲れ果て、母親のいる故郷に戻る。しかし母親は年下の愛人と同棲しており、娘を受け入れるつもりはない。
母娘が話をする冬の野外音楽堂の、冷え冷えとした雨上がりの光景が美しい。モノクロ撮影独特の澄んだ美しさだ。ヒロインの胸の内を吹き抜ける寒風がありありと分かる。
運転手仲間のパーティの描写も、芸が細かい。ジャン・ギャバン演じる主人公は一家全員で参加しているが、貧乏生活にやつれ、愚痴ばかりこぼす妻との仲はとっくに冷えている。
その妻の求めで渋々ダンスを始めるが、音楽演奏が終わってしまう。しょうがないだろ、みたいなセリフとともに席に戻り掛けると、ふたたび演奏が始まる。妻は期待を込めて夫の顔を見上げるが、夫は知らん顔で席に戻っていく。
こういう細かな描写の積み重ねが、年の離れた男女が合い寄っていく過程を自然に納得させる。
この映画、80年代の半ばに(てことは、バブル真っ盛りのころですな)日本で仲代達也と藤谷美和子の主演でリメイクされた。ところが藤谷自身、もう話が古くて古くて、ヒロインにはあんたがバカなのよと言ってやりたいと、あちこちでしゃべり散らす始末。時代背景が劇変してる上に、派手なカラーと凡庸な演出だもの、彼女がそう言うのも無理はなかった。
日本もフランスも貧しく、一所懸命に働かないと食えない時代だったから、こんなつましい人々のつましい映画が成立できたんでしょうね。
オリジナルに話を戻すと、脇役のリラ・ケドロヴァが強烈な印象を残す。『その男ゾルバ』で、監督と衝突したジャンヌ・モローの代役でホテルの女将を演じてアカデミー賞を獲得した女優です。
『ヘッドライト』ではモンマルトルの連れ込み宿(ラブホではなく、街娼が客と利用するホテル)の女将を演じていて、花森安治そっくりの顔に厚化粧を塗りたくって、娼婦上がりであることが一目で分かる嫌味たっぷりの中年女なのだが、盗み聞きを見咎められて仏頂面で逃げ去るあたり、なんとなく滑稽で憎めない雰囲気も醸す。
こんな風に街の空気をぷんぷん漂わす役者、作品のリアリティをふくらませてくれる役者は近ごろ、とんと少なくなったよなあ。こういうキャラにリアリティのあった時代も、もはや過去のものだが。