蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

『ヘッドライト』

2017-11-17 | 映画
フランス映画なのに英語タイトルとは、こはいかに。実は日本の配給会社(いまはなき新外映)がつけた訳題で、原題は "Des gens sans imporatnce"(名もない人々)という。中年のトラック運転手と安宿の女中のしがない恋物語。

絵空事のハリウッドとは対照的な、リアリズムの「芸術映画」の牙城とフランス映画界が見なされていた時代の代表作……とまではいえないかな。でもまあ、ベスト50の1本ぐらいには数えられると思うよ。

これが先日NHK-BSで放送されて、いや~懐かしかったねえ。ジョゼフ・コスマの物悲しいメロディ、フランソワーズ・アルヌールのうらぶれた風情。高校時代に魅せられました。

学校が九段坂の上にあったものだから、1時限目の授業に出たあと抜け出て、まだお堀端を走っていた都電で日比谷の映画街へ。授業をサボっては120円の早朝割引でロードショーを観まくったもんです。

『ヘッドライト』は、これもいまはなき丸の内日活という映画館で上映されていた。丸の内警察の裏手にあり、ピンクとパールホワイトの2トーン・カラーで、正面に大きな襞装飾のあるキレイな小屋だった。

テレビが普及する前は「芸術映画」も結構商売になるぐらい客が入っていたから、フェリーニやクレマン、ヴィスコンティらの渋い作品が都心の大きな映画館に掛かっていたんだよね。

『ヘッドライト』はロードショーで3回ぐらい観た。70年代に映画のビデオが発売されるようになると、真っ先にこれを買った。なんせ、アルヌールに熱中してたもんで。

この人、後輩のブリジット・バルドーにお株を奪われて60年代には人気凋落してしまったが、演技力はバルドーより上だった。バルドーには絶対無理な、庶民の生活感を表現することができた。

でもこの映画、改めて見返すと、フランス映画としてはちょっと毛色が変わってるんだよね。感傷的な人情話が、まるで小津や成瀬の古い映画みたい。住民同士の相互不信が強く人間関係のギスギスしたフランスの話とは、とうてい思えない。

監督のアンリ・ヴェルヌイユはアルメニア系だから、情緒の在り方が根っからのフランス人とはちょっと違うのかも。

ルネ・クレマンやジュリアン・デュヴィヴィエに比べて評価は高くなかったが、登場人物の心情描写に細かな目配りを見せる監督だった(少なくとも、60年代になって大味なアクションを撮りだすまでは)。

アルヌール演じるヒロインは女中の仕事に疲れ果て、母親のいる故郷に戻る。しかし母親は年下の愛人と同棲しており、娘を受け入れるつもりはない。

母娘が話をする冬の野外音楽堂の、冷え冷えとした雨上がりの光景が美しい。モノクロ撮影独特の澄んだ美しさだ。ヒロインの胸の内を吹き抜ける寒風がありありと分かる。

運転手仲間のパーティの描写も、芸が細かい。ジャン・ギャバン演じる主人公は一家全員で参加しているが、貧乏生活にやつれ、愚痴ばかりこぼす妻との仲はとっくに冷えている。

その妻の求めで渋々ダンスを始めるが、音楽演奏が終わってしまう。しょうがないだろ、みたいなセリフとともに席に戻り掛けると、ふたたび演奏が始まる。妻は期待を込めて夫の顔を見上げるが、夫は知らん顔で席に戻っていく。

こういう細かな描写の積み重ねが、年の離れた男女が合い寄っていく過程を自然に納得させる。

この映画、80年代の半ばに(てことは、バブル真っ盛りのころですな)日本で仲代達也と藤谷美和子の主演でリメイクされた。ところが藤谷自身、もう話が古くて古くて、ヒロインにはあんたがバカなのよと言ってやりたいと、あちこちでしゃべり散らす始末。時代背景が劇変してる上に、派手なカラーと凡庸な演出だもの、彼女がそう言うのも無理はなかった。

日本もフランスも貧しく、一所懸命に働かないと食えない時代だったから、こんなつましい人々のつましい映画が成立できたんでしょうね。

オリジナルに話を戻すと、脇役のリラ・ケドロヴァが強烈な印象を残す。『その男ゾルバ』で、監督と衝突したジャンヌ・モローの代役でホテルの女将を演じてアカデミー賞を獲得した女優です。

『ヘッドライト』ではモンマルトルの連れ込み宿(ラブホではなく、街娼が客と利用するホテル)の女将を演じていて、花森安治そっくりの顔に厚化粧を塗りたくって、娼婦上がりであることが一目で分かる嫌味たっぷりの中年女なのだが、盗み聞きを見咎められて仏頂面で逃げ去るあたり、なんとなく滑稽で憎めない雰囲気も醸す。

こんな風に街の空気をぷんぷん漂わす役者、作品のリアリティをふくらませてくれる役者は近ごろ、とんと少なくなったよなあ。こういうキャラにリアリティのあった時代も、もはや過去のものだが。
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『ラ・ジョコンダ』

2017-11-12 | 音楽

イタリア・オペラの大衆性を象徴するような1編である。実験精神は皆無だが、サービス精神は満点。ダイナミックなアンサンブルにメロディアスなアリアにドラマティックなフィナーレに華麗なバレー・ナンバーに、オペラのありとあらゆる魅力をこれでもかとブチ込んである。

ソーダにアイスを浮かべて生クリームを掛け、フルーツとチョコレートをビッシリ詰め込んだサンデーみたい。

何度も聴くと胃がもたれるが、ぼんやり聞き流している分には悪くない。

写真は、録音直後の1966年にキングが英デッカ・カッティングの輸入メタル原盤でプレスしたレコード。したがって、音の良さは折り紙付きであります。ヤフオクで1000円にも満たない値段で売っていた。

実は昔、イギリス・プレスの初期盤で持っていたレコードでもある。随分前に売り払ってしまったが、久しぶりに聴いてみて、なつかし〜〜〜い.......ことはなくて、なんでロクに聴かずに売り払ったか、ワケを思い出しましたよ。ぜーんぜん面白くない。

これ、60年代初めにスランプに陥ったテバルディが数年間休養し、ヴォイス・トレーニングをやり直して復帰してから初めて録音した全曲盤だった(その前にリサイタル盤を録音している)。

往年の声を取り戻したディーヴァが、初めて果敢な声の芝居をしたということでも話題になった。このソプラノはカラスと対照的に、もっぱら声の美しさで勝負して演技はしないことで有名な歌手だった。

しかし、芝居をすることと、その芝居がうまいか否かは、いうまでもないが別問題である。確かにテバルディは懸命に演技してるが、その表情がなんとも大まかで粗っぽくて、田舎芝居というしかない。

第2幕フィナーレでヒロインは恋敵を窮地に陥れるが、彼女の取り出したロザリオを見て、恋敵が実は母親の命の恩人だったことを知る。その時のフレーズ "Che! Quel rosario!" をテバルディは「ケーッ! クエル・ロザーリオ」と絶叫する。いくらなんでも大げさだ。

この人はまた、五線の下の低音を出すと中音以上の「天使の声」と打って変わって、男みたいに野太い無表情な響きになる。共演のメゾ、マリリン・ホーンがまた輪を掛けて野卑な低音を出す歌手なので、二人の重唱はあたかも男性的女性もしくは女性的男性がいがみ合ってるがごときだ。

そんなレコードを、なんでワザワザ採り上げるんだ? なんでだろうね。

ただまあ、人気アリア「空と海」をベルゴンツィが他のどんなテノールよりも見事に歌ってるというメリットはある。

それと、60年代の日本製LPの、まあ贅沢なこと。ボックスにもブックレットにも、海外盤や70年代以降のレコードではありえないほどカネを掛けている。当時の物価水準では、相当に高価な商品ではあったんだろうけど。
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「語る 人生の贈りもの」

2017-11-10 | 文化
というコラムが朝日にある。それぞれ一家をなした人々の懐旧譚である。オレはこれが読みたくて朝日デジタルの有料会員になった。あまりにベタなタイトルは、ちょっとなんとかしてほしいけどね。

もっとも、いつもいつも読ませる話ばかりではない。タレントのそれは八方美人発言が多くて面白くない。学者や大学教授の回想なんてのも、大体言葉が形骸化していて詰まらない。

しかし、いま掲載されている柳家小三治師匠の思い出話は、最高だ。噺家だもの、話がうまいのは当たり前? 違うね。人格の問題だと思うよ。

どう最高かというと、話し方の品がいい。押しつけがましさがなくて、余韻がある。

この人、若いころはいなせなイケメンだったから、テレビにも盛んに出ていた。当時、沼津に行ったら、テレビで浮かれてないで、しっかり落語をやってくれと地元の若い芸者に釘を刺されたそうだ。

小三治師匠、その言葉が骨身に応え、以後、修行に精を出して真打ちへの階段を駆け上がっていった。

10何年か後、沼津を再訪して件の芸者をお座敷に呼ぼうとしたら、彼女はすでに亡くなっていた。宿を彼女の母親の経営する旅館に取ったのだが、翌朝、勘定を済ませようとすると女将に、そんなものいただいたらあの子に叱られますよ、と言われた。

で、師匠いわく、「つらいねえ」。

万感のこもる一言とは、このことだよな。

この人はまた、オーディオ・マニアとしても知られていた。音楽誌に寄稿したり、座談会に出たりしていた。オレなんか、落語より先にオーディオを通じて小三治の名を知ったぐらいだ。

そのころ読んだエピソードの一つ。

あるとき師匠が自宅でレコードを聴いていて、途中でトイレに立った。戻ってきて、ふたたびレコードに針を下ろしたが、あれ、音が出てこない。

よくよく見ると、カートリッジの針先がぐにゃりと曲がっている。

なんでだ、と訝りつつ、ふと気づくと、そばで遊んでいた幼い息子が半ベソかいてお父さんの顔を見上げている。師匠、それで一切を悟ったが、息子さんを叱りつけはしなかったようだ。

カートリッジやレコードプレイヤーはマニアにとって、命の次に大切なものだけどね。

子供は好奇心の塊だ。黒いお皿がくるくる回り出し、そこへ細い棒のようなものを持ってきて下ろすと、部屋中に音があふれ出る。お父さんが日々やってる不思議な魔法を、自分も試してみたくてたまらなかったのだろう。

そういう情景を、しゃべりすぎることなく綴った文章が、サラリと温かく闊達だった。80近くなった今の話しぶりと同じ。あのころの師匠は、まだ30代初めだったはずだけどね
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