以下は、11月6日の毎日新聞の記事である。
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大分県弁護士会は6日、就農のため県北部の出身地の集落(14世帯)にUターンした男性の世帯に対し、集落全体で「村八分」をしているとして、村八分をやめるよう是正勧告したと発表した。
弁護士会によると、男性は母親の介護のため、2009年に関西からUターンしたが、11年ごろ、農地開拓の補助金の支払われ方に疑問を呈し住民とトラブルになった。母の死後の13年、集落は会議を開き男性を自治会の構成員に入れないと決定。その後、男性は豊作祈願などの行事の通達をしてもらえなかったり、市報が配布されなかったりしている
********************************************************************************* 村落の習慣、規則は、外部から見ると不合理なことも少なくない。まあまあと角が立たないように、なれ合いで物事が進み、問題意識を持たなければ結構うまく物事が進んでいくという側面もある。何しろ村民は、村の規則は世界標準だと思いがちなのである。
私自身、小学校の後半の3年間父親の転勤のゆえに、小さな山村に移り、田舎の子供たちの偏狭な言動に悩まされた重苦しい経験がある。山村のこととて、一人で遊びに行く街や交流する人たちがあるわけでなく、ひたすら山野を歩き回って時間を過ごした。おかげで、自然の美しさ、優しさ、そして時に厳しさを心ゆくまで楽しみ、時に恐れ、一人でいることがほとんど苦にならない心境に達した。あとあとの人生を考えると、大抵の苦境は乗り越える自信がついたし、一人でいることを楽しむ覚悟もできるようになったのは、この少年期の体験のたまものである。阻害、いじめは、あって欲しくない苦しいものであるが、その危機的状況から得るところも大きいのである。いじめに負けて命を絶つ子供たちにはそのことを伝えたい。
さて、今回の村八分問題である。なんと意地の悪い、視野の狭い人たちであろうと怒りを感じるが、やはりそうかという思いもある。Uターンや田舎への移住が一つのブームになっているが、いつもその情報に接する度に首をかしげていた。農村や漁村が、都市部の人間にとって住みやすいとは言えない。むしろ逆のことが多い。人と人との付き合いが濃密であるなどは、まれに見る幸運に恵まれた場合であろう。村落の生活は集団によって支えられている部分が多い.異論や反対意見を持つ者が参入することは、一般に迷惑がられる。集団に溶け込んで主張しない人たちだけが歓迎されることになる。今回の問題は、村の補助金の分配方法に疑問を呈したことによるという。公的な資金を分配するに当たって疑問のないようにするのは当然の義務であろう。集落の会議で村の構成員とは認めないという決定をするなど、横溝正史の作品世界のようではないか。自治会加入を認めない、市報も配布されないなどは、明らかに人権問題であるが、「人権って何だ?」という世界なのかもしれない。
かつて、私の住む県内でも、県北の村への移住者に関する報道の中で、村の責任者と思われる人物が、「村の祭りには、移住者を含めて全村民が参加している」と誇らしげに語っていた。こういう村には住みたくない。作家の曾野綾子は、都市に住むことの利点として他者からの干渉がないことを挙げていた。(最近はどう考えているのか知らないが。)その意見に賛成である。他者とは適切な距離を保ち、お互いを尊重する集団の一員として生活するのが望ましい。電車の座席にも他の乗客から適切な距離をとって座るのが心地よいのと同じである。
わが国の因習的な集団に新たに参入する(Uターンも含めて)には、自分の意見を表明し、一枚岩の集団を説得するほどの強い覚悟が必要である。挫折したら、早々に脱出するのがよい。
スペインのカタロニアの独立問題、アイルランド、スコットランド、ミャンマーのヒロンギャ問題、東欧圏諸国の問題の多くは、今回の日本の小さな集落の問題と共通性がある。人類は、洋の東西を問わず、また時代を超えて、DNAレベルで、排除と独占、阻害、いじめの遺伝子情報を継承しつづけているのだろうか。