それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

村八分 DNAレベルの人間の業か?

2017-11-07 22:35:05 | 教育

 

 以下は、11月6日の毎日新聞の記事である。
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 大分県弁護士会は6日、就農のため県北部の出身地の集落(14世帯)にUターンした男性の世帯に対し、集落全体で「村八分」をしているとして、村八分をやめるよう是正勧告したと発表した。
 弁護士会によると、男性は母親の介護のため、2009年に関西からUターンしたが、11年ごろ、農地開拓の補助金の支払われ方に疑問を呈し住民とトラブルになった。母の死後の13年、集落は会議を開き男性を自治会の構成員に入れないと決定。その後、男性は豊作祈願などの行事の通達をしてもらえなかったり、市報が配布されなかったりしている
********************************************************************************* 村落の習慣、規則は、外部から見ると不合理なことも少なくない。まあまあと角が立たないように、なれ合いで物事が進み、問題意識を持たなければ結構うまく物事が進んでいくという側面もある。何しろ村民は、村の規則は世界標準だと思いがちなのである。
 私自身、小学校の後半の3年間父親の転勤のゆえに、小さな山村に移り、田舎の子供たちの偏狭な言動に悩まされた重苦しい経験がある。山村のこととて、一人で遊びに行く街や交流する人たちがあるわけでなく、ひたすら山野を歩き回って時間を過ごした。おかげで、自然の美しさ、優しさ、そして時に厳しさを心ゆくまで楽しみ、時に恐れ、一人でいることがほとんど苦にならない心境に達した。あとあとの人生を考えると、大抵の苦境は乗り越える自信がついたし、一人でいることを楽しむ覚悟もできるようになったのは、この少年期の体験のたまものである。阻害、いじめは、あって欲しくない苦しいものであるが、その危機的状況から得るところも大きいのである。いじめに負けて命を絶つ子供たちにはそのことを伝えたい。
  さて、今回の村八分問題である。なんと意地の悪い、視野の狭い人たちであろうと怒りを感じるが、やはりそうかという思いもある。Uターンや田舎への移住が一つのブームになっているが、いつもその情報に接する度に首をかしげていた。農村や漁村が、都市部の人間にとって住みやすいとは言えない。むしろ逆のことが多い。人と人との付き合いが濃密であるなどは、まれに見る幸運に恵まれた場合であろう。村落の生活は集団によって支えられている部分が多い.異論や反対意見を持つ者が参入することは、一般に迷惑がられる。集団に溶け込んで主張しない人たちだけが歓迎されることになる。今回の問題は、村の補助金の分配方法に疑問を呈したことによるという。公的な資金を分配するに当たって疑問のないようにするのは当然の義務であろう。集落の会議で村の構成員とは認めないという決定をするなど、横溝正史の作品世界のようではないか。自治会加入を認めない、市報も配布されないなどは、明らかに人権問題であるが、「人権って何だ?」という世界なのかもしれない。
 かつて、私の住む県内でも、県北の村への移住者に関する報道の中で、村の責任者と思われる人物が、「村の祭りには、移住者を含めて全村民が参加している」と誇らしげに語っていた。こういう村には住みたくない。作家の曾野綾子は、都市に住むことの利点として他者からの干渉がないことを挙げていた。(最近はどう考えているのか知らないが。)その意見に賛成である。他者とは適切な距離を保ち、お互いを尊重する集団の一員として生活するのが望ましい。電車の座席にも他の乗客から適切な距離をとって座るのが心地よいのと同じである。
 わが国の因習的な集団に新たに参入する(Uターンも含めて)には、自分の意見を表明し、一枚岩の集団を説得するほどの強い覚悟が必要である。挫折したら、早々に脱出するのがよい。
  スペインのカタロニアの独立問題、アイルランド、スコットランド、ミャンマーのヒロンギャ問題、東欧圏諸国の問題の多くは、今回の日本の小さな集落の問題と共通性がある。人類は、洋の東西を問わず、また時代を超えて、DNAレベルで、排除と独占、阻害、いじめの遺伝子情報を継承しつづけているのだろうか。


知らない人と……

2017-11-07 01:01:35 | 教育

 

 朝夕、登下校する児童を見かける。昨今は、集団での登下校で、児童の列にはボランティア、時に教諭のガードが同行する。 
 折しも、トランプ大統領が来日していて、彼の移動する際には30台に及ぶ車列ができる。危機管理が徹底している。
 児童に関しては、登校中に、見守りのボランティアによる殺人事件があり、世間を震撼させたことが、なお記憶に新しい。
 私たちが小学生の頃といえば60数年も前になるが、集団登下校などという発想はなかった。おそらく、今日のような残虐な事件も少なかったのであろう。防犯カメラ、防犯ベル、見守り隊、携帯電話など、情報を伝え、身を守る道具は多様化しているのに、なぜ危険な国になってしまったのであろうか。もっともSNSを悪用して9人を殺害した事件があったばかりであることを考えると、便利なものは、使いようによって凶器に近い存在にもなるのである。教師が生徒に携帯でメッセージを入れることを禁止していることが多いなどというのは、少々行き過ぎかと思ったが、不幸な事件の発生を予防する措置としては無理もないことでもあるようだ。
 もう10年も前になろうか。小学校の研究会の講師に招かれて、初めての学校に行く途中で、その学校の児童と思われる一団がやってきたので、学校への道筋とどのくらいの時間がかかるかを尋ねようと声をかけたところ、二人ずれのうちの一人が、返答仕様としている児童の腕を引っ張り、「急いでいますから……。」と言い、走り去ったことがあった。おそらく学校で、「知らない人に話しかけられても返事をしないように。」などの指導がなされていたのであろう。そう考えて自分を納得させたが、かなり不愉快でもあった。学校に着いて、校長さんにそのことを話したら、「ちゃんと応答するように指導しておきましょう。」という返事が返ってきたが、たぶん、「知らない人には……」という立場は変わらなかったであろう。
 学校によっては、「元気に、明るく挨拶をしよう」などとがんばっているところもあり、指導の原理、基準が分からないのだが、どう考えればよいのであろう.不審者と非・不審者を識別して対応するようにということになるのだろうが、このあ「不審者」というのがよく分からない。神経質な人から見れば、誰もが「不審者」扱いされかねない。現に、前期の事例では、私は、「不審者」と思われたのであろう。
  やっかいな人間が増え、やっかいで不可解な事件が増えているのだろうか.過去に比して、私たちはハリネズミのように神経をとがらせて行動し、児童にもそうするように指導、助言しなくてはならない時代を生きているのだろうか。
 登下校の児童、生徒から、「今日は!」「ただいま帰りました!」という声がかかるとほっとする。これが当たり前の国と時代であって欲しい。