出無精の私は、一日のうち半分は読書をしている。現役の頃には仕事に追われて、途切れ途切れの時間が読書の時間であったから、引退後は、心ゆくまで本を読もうと楽しみにし、今、それを実行している。
家内は出不精ではないので、家にジッとしていられない。毎日、長時間、長距離の散歩に出かけ、またしばしば遠方へのバス旅行にも出かける。週の半分は、俳句やパソコンやビーズなどの趣味の会に出かけており、私の理解を超える行動をしている。家内からみれば、私の行動は、やはり理解を超えていることであろう。
読書は、想像力をかき立てる行為であり、文字を手がかりに様々なイメージを描き、推理力、論理力を活性化する格好の行為である。歴史文学を読みながら、戦国時代に生き、未来小説を読んで先の世界を体験する。外国文学は、見も知らぬ土地に誘い込み、そこでの生活を体験させてくれる。自分の実体験を超える世界はテレビも提供してくれるが、書物は、さらに生き生きとした世界に生きることを可能にしてくれる。さながらタイムマシンに乗ったように、時間軸を遡り、先に進み、瞬間移動のように、空間を跳び越えることができる。つまり、仮想的な「旅」をしているのであり、私に「バス旅行」は必要ないのである。
読書による想像の世界は、現実ではない。従って、現実逃避や現実感の喪失の畏れがあるように見えるが、私の想像は、私の全経験、体験を基盤にして活性化されるものであると言う意味で、私の現実を反映している。ロシアの心理学者ヴィゴツキーは、どんな突飛な想像であっても、すべてその人の経験に根ざしているという趣旨のことを述べているが、読書という行為の場合も同じであろう。なぜ、こんな想像をするのだろうと振り返れば、自分の現実(現実の自分)に出会うことができよう。
作品中の様々な人物は、世間の人物の典型であり、彼らとの出会いが、人間観を多様に、豊かにしてくれる。また、実際に世間で遭遇することのない人物には、特別なジャンルの作品を除けば、あまり存在しない。つまり、多くの作中人物によって、私たちの実際に触れる人間というものの特性、本質を再認識する手がかりを与えてくれるのである。リアリティがある(嘘くさくない)作品とは、実世界をうまく取り込み、反映している作品であろう。
最近の若者は、本を読まないと思われている。読書調査からは必ずしもそう言い切れない面もあるが、スマホでゲームに夢中になっている青少年を見ると、彼らに活字は似合わないのも事実である。(日本の小学生の読書量は大したものであることも付記しておく。)
多読児という子供たちがいるという。本を読みすぎて現実感を喪失してしまっている子供たちのことのようだ。しかし、上記のような想像と現実の関係からは、多少現実から逸脱することはあっても、現実という引力から完全に切り離される危険は少ないであろう。逆に、読書療法なるものもあることを考えると、読むこと自体を危険視することはあるまい。