国語教育に携わるものとしては、言葉の持つ力を100パーセント信頼したいと思い、またせざるを得ないのであるが、このところ問題になっている力士による暴力事件を巡る情報、国会での質疑、産業界の不正などを見ると、どうも言葉の力が信じがたいもののように思えてならない。
言葉は人間のみが有するものかどうかについては、いろいろな見方があろうが、鯨やイルカ、類人、小鳥に至るまで、ある種のコミュニケーションを成立させる音声による手段があるようで、これも広い意味で「言葉」と言えなくもないであろう。ただ、人間の有する言葉のように緻密、精密でないだけであろう。ところが、緻密、精密であるはずの言葉は、その特性故に、恣意的になったり、虚偽的仕様を可能にしたり、すり替えによる責任転嫁を可能にしたりすることが可能になる。
例えば、今日の国会での質疑を見ると、「金額についてはやりとりがあったが、価格については言及していない」という担当責任者の言葉があったり、過去の答弁との明らかな矛盾を追及されると「あのときは、あのように答えるのが適当だった」などの、小、中学生でも「?」と反応するような悪質な言葉遣いがなされている。また、首相の「真摯に対応する」や「丁寧」の言葉の意味は、全く実行を伴わない.小、中学生に見せてはならない事例である。力士の暴力事件については、多種多様な情報が乱れ飛び、情報なるものの信頼性が揺らいでいる。その情報は、ほとんどすべてが言語情報であってみれば、言葉の教育に関与する者としては、残念ながら、単純に言語を信頼していてはならないと自戒する。こういう事態に対応するためには、今は勢力を失った「一般意味論」の復権を考えなくてはならないかもしれない。
動物の言葉は、人間のそれに比して、不完全ではあっても、不誠実ではないであろうし、虚偽を伝え合うものでもなかろう。人間の言葉は、果たして人間に何をもたらしたのか。