それ、問題です!

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「事実」の研究:日馬富士問題に学ぶ

2017-11-22 21:50:31 | 教育

 国語教育の教材に、「説明的文章」なるものがある.「文学」の対極にあって、論理的思考力の育成に資すると考えられている。この文章は、事実に基づくものであり、客観的文章であるとも、長い間考えられてきた。客観的文章だから、誰が書いても同じになるという風にも、安易に考えられてきた。従って、教科書の単元構成で、説明的文章教材を読んで、その後に、児童自身に似たような題材に関する説明文を書いてみようなどというびっくりするような活動が平然と位置づけられており、見るに堪えない児童作の説明文群が出現し、児童共々がっかりするという結果を招く。もっともがっかりするという反応は望ましいのであり、満足していては学習とも指導とも言いがたくなる。
 言うまでもなく、読み物教材としての説明的文章は、児童が作成できるレベルのものではない.多くの文章は専門家の手によるもので、工夫を重ねているが、それでもいくつかの欠陥を抱えているのが普通である。とても児童にも書けるというレベルのものではない。 さて本筋の問題に返ろう。
 説明的文章は、「事実」に基づくものであると言った.「事実」に基づくのであれば、誰が書いても同じものになるという錯覚に陥りがちである.それほど「事実」の概念は強固なのである。
 ところが、「事実」とは、誰が見ても同じになるほどに客観的なものだろうか。
 教科書教材には同じ題材で書かれた出版社の異なるものが存在するが、筆者が異なれば、全く別物である。これは、題材・素材・事象が同じでも、見る人によってえとらえ方もその結果できあがる文章も異なるということである。つまり「個性的」なものなのである。
 元・朝日新聞記者の本田勝一は、次のように言っている。
 「いわゆる事実というものは存在しないということです。真の事実とは主観のことなのです。」 
 時に、偏向報道と批判される朝日新聞の元記者の言葉であってみれば、妙に説得力がある。そして、この言葉は正しい。
 酒の場に同席した多くの関取たちが、その場で生じた「暴行」の事実について、実に様々なことを口にする。同じ事実でも、見る角度、酔いの程度、人間関係、問題の判断能力のあり方等々の違いによって異なるのである。大勢の言うことを集めて見ても事実なるものが明確にならないことも多い。いや、かえってとらえどころがなくなることもあるのであり、今回の報道は、そのことを証明することになった。
 テレビのニュース・ショーは、例によって、素人コメンテーターを揃えて、不確かな情報を披瀝した。多くは、新聞各紙の記事の紹介であるが、新聞の記事が客観的でないことは既に書いた説明的文章の性格から見て明らかであろう。時に、放送局ががんばって独自取材をすることがある。今回は、多くの「また聞き」情報を掘り起こした。モンゴルに電話して、親や元同僚から情報を聞き出した局もあった。これにコメンテーターが素人の意見を披露するから、だんだん事件・事故の内容が分からなくなる。ぶら下がり取材で詳しい事情や客観的な情報が得られるはずもない。 
 今回は、(いや、今回も)雑多な情報、無責任な情報が飛び交うという実態を再確認した。警察による事実解明、相撲協会のしかるべき委員会による公正な調査を待って話題ににすることはできなかったのだろうか。