それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

誤解から生じるもの

2018-09-05 23:10:16 | 教育

 このたび女子体操の選手の記者会見を契機にして、協会を牛耳る幹部夫妻の横暴が浮き彫りにされて,毎日のワイドショーは軒並み特集を組んでいる。どこかで,最近目にしたイメージと重なって新鮮みはないが,「重なる」ということは、共通項があるということである。
  協会幹部は、かつてのオリンピック選手で、夫君の方は,特に輝かしい経歴の持ち主であるという。
  一般に,スポーツをしている人間は、スポーツマン・シップを叩き込まれて、清廉潔白、公正無私等の徳目を身につけた人物であろうと想定しがちであるが、このところの一連のスポーツ界の問題を見ると,決してそのような世界ではないことが分かる。
 輝かしい経歴の持ち主は、高潔な人物であろうと思いがちであるが、多くの選手は,狭い競技の世界の勝者であるに過ぎず、競技を一歩離れると、人間として、どれほどの資質、見識の持ち主であるのかは判断がつかない。無論、技も人間性も人並み外れて優れた競技者もいるであろうが、それは、社会一般のいろいろな集団、組織の中にも優れた人物がいるのと同じで、スポーツ選手だから優れているのではない。逆に、四六時中,狭い専門的な世界にあって汗水たらしていれば、その枠の外のことには不案内の人間ができあがっても不思議はない。最近では,指導者の一方的な指示に従うのでなく、自分たちで考え,行動することを重視する方針を取ることが志向されるようになっているというが,当然のことである。
 研究の世界でも同様で、かつて,理科教育の振興のために,ノーベル賞受賞者がうちそろって記者会見をし、教育改善の提言をしたことがあるが、かれらにしても,狭い専門の枠の中でものを考え、提言しているに過ぎない。わが国の受賞者の多くは「科学」分野の人たちであり、理科に関することに傾斜ないし偏向することは当然である。昨今の,大学における人文・社会科学分野の軽視につながり、意図せずとも責任がある。
 繰り返しになるが、ついつい、特定の分野の勝者が,人間としての質の高さと混同される。しかし、今回の一連の騒動によって、すぐれた競技者が,優れた指導者や管理者とはいえないことを証明する事実は数多く明らかにされている。
  優れた競技者が、組織の長や指導者として機能するためには、専門分野における技能や知識の他に、もののみ方・考え方、感じ方の切磋琢磨が必要である。これはいわば「人間力」と言うべきものであって、これがないために、他者の痛みを理解できない暴君になり下がるのである。ガバナンスもコンプライアンスにも不案内の人物が,組織のトップに居座ることは、組織全体の不幸である。