「博学・博識」を売りにしたジャーナリスト(元)のI氏に関わる問題が浮上しているという。テレビ番組中では、世の中のあらゆる問題を快刀乱麻よろしく腑分けして見せ,世の情報弱者を驚嘆させている存在であり,今やわが国随一の物知り・博学と信じられている。ところが、番組制作チームのスタッフが、専門家の元に走り,多くの取材をした挙げ句、取材内容としての知識や見解を,取材先の専門家のものとしてでなく、I氏の独自のものであるとして放送してもよいかと持ちかけ、取材を受けた者に不快な思いをさせているというのである。
当の番組を一度だけ,途中まで視聴したが、何にでも答えますという怪しげな雰囲気に嫌気が差して見るのを止めてしまったことがある。そう言えば,○○さんは、このように言っていますという文脈で語られることはなかったかもしれないと、今にして思うが、発言の後の、自信なさげ,ばつの悪そうな表情は、印象に残っている。
一人の人間が,世の中のあらゆる問題を知悉し、他人に解説する能力を持っている必要はないし、そのような人間が存在する可能性もないであろう。であるのに、なぜ,このようないかがわしいことが発生するのか。番組は,普通にはあり得ないことを起こすという不思議の実現が売りなのである。一般人が,専門家の間を走り回り、知識や意見を聞き回って、それを番組で紹介するという陳腐な発想では,視聴率を稼ぐことなどできないのである。いわば、普通にはあり得ない異能の人物を設定することで,人々の目と耳を奪おうと企んだのである。異能の人物とは,カリスマである。まあ、カリスマ主婦という存在まであるようだから、カリスマもずいぶん低次元になってきてはいるが……。怪しさという点では,新興宗教に近い。
正直かつまじめな人間であれば、なぜ、知見の出所を明らかにしないのか。I氏のばつの悪そうな表情は,スタッフからの要請で、不本意な役回りを演じさせられていることへの反応であったのかもしれない。どう見ても悪人には見えないからである。
ところで、自分の見解ではないものを借りた場合は,出所を明らかにしよう。他人の意見を借用して,自分のもののように振る舞うのは、研究の世界では、「盗用・盗作」といい、発覚すれば研究者生命を失う。
著作権に関しては、苦い思い出がある。かつて、専門書を書き上げ、巻末に教科書教材数編を参考資料として収録しようとしたことがある。当然,教科書会社の了解が必要である。この了解を取る作業を出版社の責任者が怠っていた。(私が了解を取るというのを、いや出版社がやりますと確約した末の出来事であった。)本が完成した後でそのことが分かり,改めて了解を得ようとしたところ、教科書会社は、著作権に関わる問題の処理を、専門の団体に委託しているとのことで、そこを通しての問題の解決をしなくてはならず、私の著書が日の目を見るのに予定の数ヶ月の遅れを余儀なくされたのである。原稿の段階で教科書会社に打診して、時間がかかりそうなら資料としての教材文を削除しようという話になっていたはずであったのに、無駄な時間の遅れであった。出版社による「発行遅延」のアナウンスには、「著作権の問題のため遅れます」とはなはだ不見識、無責任が表現があり、不愉快な思いをした。
著作権に関わる問題は、教科書教材文にとどまらず、書物中のあらゆる引用(児童のノート等を含む)に及び,全く無駄な時間を生み出した。堅苦しい著作権管理とは,このような事態を生むのである。これでは本など書けないと憤ろしい思いをすると同時に,他人の意見を勝手に我が物にするという取材の手法にも別の意味での憤りを感じた次第である。ここまで書いて、ふと、気づいた。私に、「あなたの著書や論文から、ここを引用しました」という連絡や許可願いが届いたことは一度もない。ただ、ほとんどの場合,出典は正確に書かれている。営利目的でない研究書は、その程度でよいと考えている。
テレビ番組には、時々、いやしばしば異能の人物が登場する。異能であることは出演者の必要不可欠の条件なのであろう。博識を売りにする者は他にもいるが、I氏の場合とおなじような疑惑を招く場合は深く反省する必要があろう。世の中には,本当に他者の及ばない能力をもったり,希有な行為をしていたりして敬服することも少なくないのである。番組も、そのような人たちを誠実に発見する努力をすべきであろう。