それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

蟻の一穴-「もったいない」-

2018-03-16 18:14:11 | 教育

 (瀬戸内海)

 先頃なくなった直木賞作家、葉室麟の作品は、その言語表現が洗練されているということで、なかなか評判がいい。上野英信との出会いを書いた河谷史夫の「形影譚-上野英信と葉室麟、そして……」(『新潮45』、2018,3)を読むと、その人柄のよさも偲ばれる。というわけで、かつて読んだ覚えのある、『蜩ノ記』を再読してみた。
 なかなかの力作で、いくつかの時代小説にある雑ぱくな表現は存在しないようであった。が、読み進めていくうちに、「アレッ?」と思う箇所にぶつかって、気になってしようがなくなった。その後を読み進める障害にもなった。
A: 藩の歴史をまとめ終える任務を与えられ、10年後には切腹することになっている戸田秋谷と、その行状を見定めるために藩によって差し向けられた檀野が、夜中、一室で、書見、清書の仕事をしている折り、「鎖分銅」が打ち込まれる。秋谷の妻と子息郁太郎は、「青ざめた顔で起き出してきた。」とある。郁太郎は、「障子が無残に壊された様子を見て、『父上、これは何事でしょうか』と訊いたことになっている。この場面に矛盾はない。
 しかし、後日、郁太郎は、村人の子供である友達、源吉に問いかけている。
B: 「『この村で鎖分銅を使う人はいるだろうか』……、/源吉は鎖分銅というものをよく知らなかった。/『それは、どげな形をしちょるんか』/郁太郎が地面に指で形を描くと、源吉はようやく納得した。/『ああ、これはじゃっころ、じゃね』」
  ここだけ切り離してみるとなんの問題もない。しかし、AとBを関連的に観ると不可解である。
 Aの襲撃の現場に、「鎖分銅」はなく、壊された障子があるだけである。郁太郎は、何ごとが起こったのか分からず、「何事でしょうか」と訊いている。鎖分銅は、攻撃者の手元に戻る仕組みになっているから、現場には残っていない。
  どうして、見てもいない「鎖分銅」の形を描けたのか、不明である。秋谷が描いて見せた様子もない。たいした問題ともいえないようだが、この「鎖分銅」の意味は軽くない。 時代小説は、史実そのものではない。作者の想像,創造の部分が大きいという意味で、「講釈師、見てきたような……」という要素も強い。歴史小説と言われるものとは、性格を異にする。嘘だろう,見たのか?という反応をしつつ楽しむ種類の作品群ではあるが、こういう論理的な矛盾は気になる。その後と先行する部分(すでに読んだ部分)も含めて、読む意欲が減衰したというのが偽らざるところである。せっかくの作品がもったいない。第146回直木賞受賞作というが、問題になるほどのものとは考えられなかったのだろう。
 僅かばかりの瑕疵が、全体に影響を及ぼす、もったいない事例として取り上げた。(読み間違いでなければ幸いである。)


学生の本分とアルバイト-新聞の投書への反論-

2018-03-15 22:30:30 | 教育

 (古墳群)

 3月13日のM新聞に、「学生は本分を忘れずに」という76歳の読者による投書が紹介されている。概略は、以下の通りである。
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 自分の学生時代に、父親が生活に必要な額の仕送りはするからアルバイトはせずに勉強に専念するように言われ、その通りに勉学と読書に勤しみつつ、学生時代を過ごした.自分の3人の娘にも同じように、アルバイトは許さず、読書を勧めながら、大学を卒業させた。孫たちも、親の影響を受けて、読書好きに育っている。
 大学生協の調査では、大学生の非読者が53パーセントである。その原因の一つがアルバイトのようだ。遊ぶための資金が目的のアルバイトは情けない。勉強と読書という学生の本分を忘れないように
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 一見、もっともな意見であるが、今時、生活費のすべてを仕送りでまかなえる学生がどれほどいるであろうか。6人ないし7人に一人が貧困家庭の児童であると言われる。また、低所得者層の数は多く、かつて、1億総中流と言われた格差なき社会は、夢のように崩壊している。投稿者は、私と同世代であるが、私の学生時代に、親からの仕送りだけで学生生活を送れるのは、ごく一部の例外的な存在であり、生活費の不足はアルバイトで補うのは、ごく当たり前であった。その結果、読書嫌いになるか、勉強をしなくなるかは、人それぞれで、潤沢な仕送りの結果、遊びほうける学生が出現する確率と大差ないのではなかろうか。
 私は、大学生活を、学部+大学院で、9年間送ったが、仕送りはゼロであった。育英会の特別奨学生となり、家庭教師、塾、学校(高校)の講師なども続けたが、それが、勉学の妨げになり、読書嫌いになったとは思っていない。むしろその逆で、限られた時間を有効に使い、仕事、勉強の方法を工夫し、読書の習慣が途絶えることもなかった。多量の書物を抱え込んで、その処理に困惑しているという現状からは、読書をしない人間が羨ましくさえ思える。
 さて、アルバイトは、遊ぶ金ほしさからという短絡的な判断は、どこから来たのであろうか。大学生協のアンケートからの情報であろうか。結論的に言えば、そのように考えられる学生もいるにはいよう。そういう学生は、仕送りが潤沢であっても遊びほうけるのである。
 長い大学生活で分かったことは、今も昔も、アルバイトをしなくともよいという境遇の学生は稀、例外的ということである。苦しい経済状況にある多くの家庭にあっては、子女を大学に行かせることは大きな負担である。仕送り可能な額は限られている。それでも将来のことを考えれば大学卒の学歴は欲しい。親と子供の双方にできることは、必要最低限の、不足気味の仕送りをするから、不足分は、アルバイトで補ってくれということであろう。これは、さして稀なことでも、無理なことでもない.私のゼミの学生のほとんどは、このような人達であり、遊ぶためにアルバイトをしている者は、ほとんどいなかった。
 投稿者は、そもそも学生の置かれた状況(現状)を十分に理解できているのだろうか。自分や自分の子供、孫のことを自慢したかったのだろうか。「アルバイト=悪」という先入観ないし誤解に基づく見解の表明に過ぎなかったのだろうか。
 まあ、しかし、世の中の人が、自分の置かれた状況に即して、様々に考え、主張することは自由である。その意味では、上記の投書も表現、思想の自由に基づく行為であろう。問題は、この投書を選んで掲載した新聞社の投書欄担当者である。多様な読者が読む投書の一つとして、これを掲載することにした根拠はいったい何であろう。その浅薄な認識のありように問題はなかったのか。
 このところ、本ブログでは、新聞に対する批判が多くなっている。今回の事例から、ますます新聞が信用ならなくなってきている。 


新聞の正体

2018-03-12 22:29:07 | 教育

  (三次市・風土記の丘の美術館に展示された雛人形)

 新聞販売店が経営的に追い詰められ、新聞社からの過酷な要求に絶えきれずに自死をする者も出てきているという。(『月刊文藝春秋』、95年3月号)
 また、新聞奨学生が、募集広告の内容と全く異なる不利な条件での労働を強いられ、勉学を諦めるという矛盾した事態を招いているともいう。
 新聞は、ブラック職場を糾弾する役割を果たしている。我々は、ネットやテレビだけでなく、新聞で、非人間的なブラック職場の実情を知ることができている。ひどい職場があるものと仰天していたのだが、その新聞の配達に関わる人達の職場がブラックそのものであるという事実を知って、あのきれい事を言った新聞に関係する職場が、非人間的なブラック職場そのものであることをどう理解してよいのか分からなくなっている。少なくとも、「おまえがきれい事を言うな」とは言うべきであろう。
 NIEは、教育(学校)に新聞を導入する教育活動であるが、その目的、内容の文書を通覧してみて、新聞の自画自賛の印象が強く、メディア・リテラシーに最も必要とされるクリティカル(批判的)な読書能力育成の内容は乏しいというよりも欠落している。新聞の売り上げ部数が減少している理由の一つは、読者が新聞の胡散臭さを見抜いていることと関係があるはずである。広告まみれの紙面もごめん被りたい。                       


「あったか(暖かい・温かい)灯油」?

2018-03-09 23:43:24 | 教育

 

 日頃、何気なく使用している母国語であるが、ふと立ち止まって考えると、何やらおかしい使い方をしていることがある。外国人に日本語を教えているときにも、同じような戸惑いを覚えることがある。
 今年は、いつまでも寒い。3月も中旬に差し掛かろうかというこの時期(3月9日)、真冬のような北風が吹き荒れている。あまりの寒さに、セーターを買い足そうと用品店に行くと、「もう冬物は全く置いていない」ということだった。暦と相談して、ある時期に一斉に季節が変わるという仕組みもおかしいと思うのだが、春先にセーターを求めるのもさらにおかしいのかもしれない。春や夏に、「季節外れ格安コーナー」でも作れば、意外に好評を博すかもしれないと思うのだが……。
 さて、「あったか灯油」についてである。
 文法構造としては、「修飾語+被修飾語」の関係であって問題はなさそうだ。しかし、「丸い+四角」、「赤い+黄色」も問題はないか。これらは、形式/構造ではなく、「意味」の観点からおかしいのである。外国人に、「あたたかい灯油」の意味を教える状況を考えてみよう。外国人は、意外に、こういうことに拘るものである。そこで、説明の案を想定しておこう。
 ① 「燃料である灯油自体が温かいのではないが、それを使って暖房すると温かくなる  灯油」
 ② 「暖房器具の燃料として使用する(と温かくなる)灯油」
といったところか。なかなか難しい。
 では、業者が、スピーカーで呼びかける「あったか灯油を持ってきました。」というアナウンス並びに「♪あったか灯油でぽっかぽか♪」という歌詞は間違いで、「灯油はいがですか」「♪灯油(を焚いて)ぽっかぽか」でよいのか。ちょっと味気ないが、こちらの方が正しいということになる。そもそも燃料そのものが熱を持つと危険である。


「部活動指導員」の位置づけ

2018-03-09 03:24:03 | 教育

 文科省は、教員の負担軽減のために、「部活動指導員」を配置することにして、現在、中学校では、全国で3万人近い指導者が活動しているという。
 ある小学校で高齢の外部指導員が、児童に暴行を働いて問題になったとの報道があって、いろいろと考えさせられた。
 そもそも、部活動とは何か。よく知られているのは高校野球であろう。国民が熱狂する甲子園野球は、学校教育の一部としてとらえるべき活動なのかどうか。昔、ある私立高校で非常勤講師をしたときに、高校野球の特殊性を痛感した。県外からの有能な生徒を含めて、野球部員だけで構成されるクラスが複数存在し、早朝から暗くなるまで、毎日練習がある。文武両道というけれども、文はとても、気の毒で期待できない。試合に負けると監督は長時間、校長から叱責を受けるというので、部員と監督の野球にかける思いは、プロ野球並みであり、学校教育の範疇を超えていた。
 部活の成果は、学校の誇りともなるが、時に、学校教育の範疇を超えて、一人歩きしがちでもある。「教員の負担」軽減というけれども、その「負担」は、もともと教育活動として教員が負担すべきものであり、教員が負担することで効果が挙がるものだったのかどうか。体育系の部活では、学校の体育の授業の範囲でできないことは、学校が抱え込まずに社会体育として、本来、学校とは別の場所で(学校が体育館等を会場として貸し出すにしても)、学外の専門家を指導者として行うのが当然であろう。レベルの高い指導は、無理矢理に担当させられる素人監督、素人指導者の手に余ることは容易に想像できる。教員も生徒も迷惑である。これは、体育系のみならず、吹奏楽などの指導でも同じである。授業よりも部活が命という教員が居ても、それは例外的な存在であって、本来の姿ではない。 さらに問題とされるのは、学校で行われる部活は、恐らく教育活動と想定されているはずである。かつて、甲子園で、ミスをした生徒を監督が殴打する場面が放映され、問題になったことがある。当事者の監督は理解不能だったのではなかろうか。なぜなら、日頃の練習の場では、普通に行っていることだったからである。暴言を吐く、暴行を加えるということは、部活指導では珍しいことではない。時に傷を負わせ、鼓膜が破れ、ひどいときには死亡するなどの事故が発生して表面化するに過ぎない。「教育」という場では許されないことが横行する可能性があるのが、多くの部活である。外部指導者は、教育委員会や学校によって依頼、委託されるのなら、教育者としての意識・認識と専門性が求められる。技術優先、根性優先の指導は、学校とは無関係の場で、指導者、弟子、保護者の相互了解のもとで実施すべきであろう。大相撲でさえ、暴行は大事件になったのである。その直後に、プロ野球の星野監督が亡くなり、新聞は、同じ紙面で、今度は彼の常識を越える鉄拳制裁を美化するという矛盾した反応をしていたが、どうも、高校野球などは、星野野球に通じるところがあるように思う。繰り返し言うが、学校が主体で行う諸活動は、「教育」であるべきで、外部指導員であっても、「教育者」としての意識と技能が前提になるべきである。その資格認定と場合によっては講習は、どこで誰がするのであろうか。
 ついでながら、最近、運転免許更新のために自動車学校に出かけ、数時間の講習を受けた。講習を担当する指導員は、講習をおもしろ、おかしくしようと奮闘していたが、そのお手本は、芸人のスキルであった。多くを望むべくもないが、「正確に分かりやすく」ということを心がけるのが、自動車「学校」という限りは、本来の責務なのにと、複雑な思いがした。(いや、自動車に関しては、学校ではなく、教習所だったか。)