今年の新語、流行語などと浮かれている間に、母国語たる日本語はやせ細り、荒れ果ててしまった。
流行語、新語の多くは、その場しのぎの感覚的なものであり、日本語の遺産として、きちんと受け継がれるものは少ない。昨今の「インスタ映え」などは、日本語の片割れとも思えない。photogenicというちゃんとした英語はあるのだが、小器用に造語して見せたに過ぎない。
最近の日本人の表現力は、とみに衰えているように思うが、勘違いか。もとからやせ衰えていたのか。少なくとも、表現力の衰えは、理解力の衰えでもある。両者車の両輪のよいうに衰えているから、衰えに気づかないのである。
オリンピックのメダリストのインタビューを聴いていて、どうしてもっと自分の言葉で的確な言葉が出てこないのだろうと気の毒になることが多い。
一般に、人に物事の「説明」をすることに苦手な人が増えていないか。時々、バスの運転手や通行人にものを尋ねている人のそばにいて、説明の内容や仕方を耳にするが、当事者でない私がイライラするほどに不適切、不親切、不作法な回答や説明も少なくない。人手不足のせいか、サービス業の従業員の表現能力、理解能力の低下は、業務に支障を来すほどになっている。よほど気合いを入れてかからないと、不愉快になる。
言葉による表現が商売のアナウンサーは、原稿をよく読み間違える。最近特にひどい。下読みをしていないのか。それならまだ、解決の余地があるが、その程度の軽症とは限らない。一連の言葉のうち、脈略の観点から、アクセントをおくべき語句は決まってくる。それを外すから、妙なニュースになる。これは、文章の理解力の問題であり、思考力・認識力の欠陥だから重症である。十分に国語教育の問題である。
新聞記者の書く文章(ニュースや解説等)の中に、一読しただけでは理解不能、読み返してなおさら不能というようなものが増えた。記者もデスクも国語表現力が低下してきているのであろう。そのかわり、写真は増えた。言葉でなく、映像で示すという今様の手法であろうが、テレビならぬ新聞としては邪道である。
これらの問題の解決策はないのか。
答えは、イエスである。ただ一つ、「読書すること(活字の本を)」である。場合によっては、他者とのコミュニケーションの機会を増やすことも考えてよいが、読書レベルにおけるほど、きちんとした表現力に出会える確率は極めて低い。コミュニケーションは、きちんとした表現をしている筆者・作者との間で実行してほしい。ツィッターやライン、時にブログ(今、書き込んでいるのもそのブログであるのは恐縮だが)程度では逆効果になることが多い。
先日の新聞に、「最近の大学生の半数以上は、読書時間がゼロ」との記事があった。知っていたのでびっくりはしない。多くの大学生は、母国語をきちんと使えなくなっており、その原因がこれなのである。だが、幸いなことに、日本の小学生の読書量、読書意欲には目を瞠るものがある。小学校の先生たちはあまり読書をしなくても、その先生に「読書をせよ」と指導される児童は、豊かな読書活動を実行しているのである。このことは、日本の将来が、必ずしも暗くないことを意味するとともに、なぜ上級学校に行くにつれて、読書をしなくなるのか不思議でならない。親しい小学校の先生に、本を読まない理由を訊くと、「忙しいから」という返事が返ってきた。「本を読むのが忙しい」「本を読むので忙しい」のではない。日々の仕事が忙しくて本を読む暇がないのだそうだ。
だが、本は、暇があるから読むのではない
多忙な職業人が、現役の多忙な時期には読書ができなかったので、退職したら読書三昧の日々を送ると公言していたのに、いざ退職すると読書など全くしない日々を送っていることはよく知られている。そういえば、忙しい時の方が、よく読書していたという記憶もある。「読書を本能のようにしよう。」と高校生以上の人間には訴えたい。「小学生のように読書しよう。」と言ってもいい。