それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「想定外」という問題

2018-09-12 21:43:46 | 教育

 

 今年の夏は、豪雨、台風、地震という大規模な自然災害に見舞われて,多くの人命や家屋、家財がうばわれることになってしまった。気象庁も、「過去に例のない」とか「想定外」、あるいは「50年に一度」などの修飾語で警告を発していたが、結果として、少なからぬ被害をだすことになった。
 人間は、「歴史に学ばないということを歴史に学んだ」という皮肉な見方もあるが、国や市町村の安全に責任を持つ部署や人々がそうであってよいということにはならない。およそ「想定外」とは,責任放棄の良いわけではない。貧弱な想像力を駆使して、想定できる限りのこと、その範疇を超えるものを把握しなくてはならない。それが仕事の人たちが存在するのである。射程距離の長い想像力は、深い専門的な知見から生まれるものであろう。それに責任感が伴えば,安易に,「想定外」で済ませるわけはないであろう。人類は、おそらく、過去に例のないことに,たびたび遭遇しながら、それを乗り越え、過去の苦難を有益な知見として身につけながら,新しい未知の(つまり「想定外の」)事態に立ち向かい,多くの困難を乗り越えて、今日にいたっているはずである。
 今回の豪雨災害の被災地には、遙か昔の災害の様子を伝える石碑が少なからず存在したことが,被災した後になって判明している。人間は,生きるために苦しいことは忘却するという知恵を持っているが、それが更に苦しい状況を生むことがある。歴史に学ばない結果の悲劇とも言える。
 昨今の地球規模の自然災害は,人類の,地球に対する無謀な行為の結果でもある。後先考えずに,今を乗り切るという刹那主義的な生き方への地球の反撃ないしはお仕置きでもあろう。特に気象、気候の異変は、このような人類の行為と因果関係があるように思う。
 気候変動を防ぐための京都会議の議定書に,大国アメリカは批准をしていない。そのアメリカに,今、過去に例を見ない大規模なハリケーンが襲いかかろうとしている。地球の怒りに触れたものとも言えるが、被害は,批准を拒否した政治家たちにではなく、何の罪もない多くの国民・市民に襲いかかるのである。この構図は,わが国の原発事故にもよく似ている。最悪の事態を想像、想定する能力の欠如の結果である。
 
 想像力の欠如は、自然災害に関するものだけではない。このところ話題に上っているスポーツ界のパワハラ問題も、学校のいじめ対応も、いやいや政治も経済も、想像力欠如に起因するものが多く、想定外という逃げ口上が横行していないか。多くの情報を与えられるばかりで、情報の意味や問題を自ら検討することもない世界に生きていると、情報機器の操作技術は身についても認識能力を育てる機会を失うばかりであるような気がする。責任ある立場にいる者たちの想像力欠如を批判するとともに、私たち自身の想像力のありようも見つめ直してみたい。


員数合わせ(障害者雇用率制度)

2018-09-07 22:15:22 | 教育

 中央省庁における障害者雇用のまやかしが明らかになった。
  「障害者雇用率制度」は、企業や国・自治体などに、一定割合以上の障害者を雇用するように義務づける制度である。達成した企業には補助金を出すとともに,未達成の企業からは納付金(罰金)を徴収するものである。
 国の行政機関33を調査した結果、多くの部署で不正が見つかり,法定雇用率を大きく下回ることが明らかになった。これらの行政機関には、罰則は適用されないようだ。皮肉なのは、最も厳正であるべき厚労省でも35名分の不正があったということである。日本の陸軍ご自慢の「員数合わせ」の手法そのものではないか。
 道徳教育を重視しようとしている文部科学省は、既に、多くの役人が破廉恥な行為をして信用をなくしているのだが、今回も無傷ではなかった。「世の中とはこういうもの」というショック療法的道徳教育にはなるだろうか。
 このところの中央省庁の役人が関与する不正には慣れっこになっているが、こういう役所や役人が、地方や管轄している下位の部署に大きな顔をしているようでは,国の威信は保てまい。出世して上に行くほど、つまり、多くの権限を持てば持つほど信頼できない組織になっているのである。水戸黄門に必要不可欠な、あの悪代官及びその取り巻きの図式そのものではないか。
 そう言えば、例のスポーツ界のごたごたも似たような構図である。  日本の、いろいろな社会で、同じようなことが横行し、子どもたちが,それになれてしまうのではないかと心配である。


誤解から生じるもの

2018-09-05 23:10:16 | 教育

 このたび女子体操の選手の記者会見を契機にして、協会を牛耳る幹部夫妻の横暴が浮き彫りにされて,毎日のワイドショーは軒並み特集を組んでいる。どこかで,最近目にしたイメージと重なって新鮮みはないが,「重なる」ということは、共通項があるということである。
  協会幹部は、かつてのオリンピック選手で、夫君の方は,特に輝かしい経歴の持ち主であるという。
  一般に,スポーツをしている人間は、スポーツマン・シップを叩き込まれて、清廉潔白、公正無私等の徳目を身につけた人物であろうと想定しがちであるが、このところの一連のスポーツ界の問題を見ると,決してそのような世界ではないことが分かる。
 輝かしい経歴の持ち主は、高潔な人物であろうと思いがちであるが、多くの選手は,狭い競技の世界の勝者であるに過ぎず、競技を一歩離れると、人間として、どれほどの資質、見識の持ち主であるのかは判断がつかない。無論、技も人間性も人並み外れて優れた競技者もいるであろうが、それは、社会一般のいろいろな集団、組織の中にも優れた人物がいるのと同じで、スポーツ選手だから優れているのではない。逆に、四六時中,狭い専門的な世界にあって汗水たらしていれば、その枠の外のことには不案内の人間ができあがっても不思議はない。最近では,指導者の一方的な指示に従うのでなく、自分たちで考え,行動することを重視する方針を取ることが志向されるようになっているというが,当然のことである。
 研究の世界でも同様で、かつて,理科教育の振興のために,ノーベル賞受賞者がうちそろって記者会見をし、教育改善の提言をしたことがあるが、かれらにしても,狭い専門の枠の中でものを考え、提言しているに過ぎない。わが国の受賞者の多くは「科学」分野の人たちであり、理科に関することに傾斜ないし偏向することは当然である。昨今の,大学における人文・社会科学分野の軽視につながり、意図せずとも責任がある。
 繰り返しになるが、ついつい、特定の分野の勝者が,人間としての質の高さと混同される。しかし、今回の一連の騒動によって、すぐれた競技者が,優れた指導者や管理者とはいえないことを証明する事実は数多く明らかにされている。
  優れた競技者が、組織の長や指導者として機能するためには、専門分野における技能や知識の他に、もののみ方・考え方、感じ方の切磋琢磨が必要である。これはいわば「人間力」と言うべきものであって、これがないために、他者の痛みを理解できない暴君になり下がるのである。ガバナンスもコンプライアンスにも不案内の人物が,組織のトップに居座ることは、組織全体の不幸である。