・・・のついでに、週末は郊外での買い物へと出掛けておった。
街中は蒸し暑く、汗もかきかき歩いたが、高速道路はどこもスイスイ空いておったわな。
給料日前の自粛もあったんだろう。
生きて居るサイクルがいつも一月サイクルなサラリーマンや公務員らは、月末に入る収入から月末に支払う支出を差し引いて、と、ワンパターンな生涯を終えて行く。
団塊の世代やらがボケ老人化しつつある今の社会は、その上の世代も巻き込んで暴走し放題な様相になっておって、あちこちでトラブルやアクシデントを目にする訳だ。
なんとかハラスメントとは言うが、ナニも社会に貢献などしていない消費するだけの高齢者たちは、生きて居ること自体がハラスメントだろうと、大笑いしておった。
気を使うとしても我が子や孫の範疇で、それ以上には関わり合おうとも考えない。
それがいっぱいいっぱいだとも言える。
大量生産と大量消費の歯車として育ち生きて来た世代だから、物事を深く考える癖もつかず、メディアに染まり、生き方考え方まで染まり、仕事はマニュアル通り、余暇はメディアを見て選択肢から過ごし方を選び、老後や死に方までコンビニでマニュアルを買って自分ではナニも創造しようともしない。
一律百円均一な日本人だとも言える。
そこで哀しいだの寂しいだの大変だのと聞いても、ナンの同情も湧かんわな。
その与えられたサイクルを若い時分に飛び出して、親や家も一度捨ててしまって、自分自身で生き方のリズムや価値観はすべて作るのが本当で、それをしない大人社会の悲劇は、ただの喜劇でしかない。
自営の周旋屋は国家やメディアが操作する金融・経済の波には流されず、コロナ騒動の直中でも自前のバブルを作って笑っていたが、今は今でまたまた猫の手も借りたい忙しさに奔走しまくってる。
他人や社会の動きには関係なく、国家やメディアなど無視して何十年も生きていると、本業まで金(ゴールド)の動きと同じになって来る。
サラリーマンや公務員生活を退職まで続けていたおかげで、20~30万円の毎月の年金を確保して、悠々自適だとほざいて暮らしてる世代が、社会の癌になっている。
国家として自立しなければいけない世界の大転換期に、身動き出来ない拘束と自縛で国家や社会をドツボに陥れて行く役割を果たすようになっている。
国家の為に生き、国家の言うがまんまに従順に生きて、その国家が延々と米・英の植民地であることに協力して、優秀なメディア奴隷として君臨し、子や孫の世代にどんどん負担と借財を背負わせていってるだけの安い猿芝居だ。
こういう社会となるのは、俺なんかは40年も前から解っていた。
そうなった時に、俺はどう生きているか? を、すでに20年前には作り上げている。
悪化する閉塞感満載な島国の社会で生きて居ながらも、自由自在に笑って生きて行ける。
66年、ガキの時分から自分に問題意識を持ち、孤立しようが関係なしに好き放題に自分を押し通して生きて来たのは、こういう意味があった。
運の良いことに幼児教育や義務教育の時代は、幼稚園で3回、小学校で6回と転園・転校を経験したおかげで、国家の策略には染まらなかった。
親の代はキレイに染まり果てておったが、それも俺の代で粉々にして再生してやった。
笑って他人事のように眺めていた連中は、いまや死ぬまで借金・負債を抱えて生きて行くしかなくなっている。
群れの中で、大樹に見えたメディアに寄り添っていた筈なのに、個々の老後は貧しい孤独。
子供や若者たちはよ~く見ることだ。
俺が戦後のガキの時分に眺め渡していた大人社会が延々と続いているだけだ。
衰退と悪化はどんどん進んで行っている。
ロクに現金も持たない借金負債の自転車操業で生きている癖に、家や車や趣味嗜好に金をかけて見栄を張り、メディア煽動に振り回されて終わらない消費ゴッコに染まって反省や自省もない。
持つモノや身につけるモノや、消費するモノに個性だの多極化だのとほざいて、それだけで自己顕示欲を満たして日常を過ごしている猿の衆ばかりなのは、要は自分自身に自信を持てない馬鹿なメディア洗脳猿だと自分で誇示して生きてるようなもんだ。
他とはぜんぜんに違う価値観で日常を過ごし、洗脳も煽動も無視して胸を張って笑っていることが出来る者は、自営の個人だけだろう。
我が国の資産家や財産家という猿な衆も、消費するモノの価額が高いモノなだけで、阿呆な猿には変わりなく、成金・守銭奴として消費社会を推進する猿芝居の広告塔だ。
そこでの毎日は売り手も買い手もマニュアル通りのお利口さん、すぐに飽きて退屈な欲求不満に苛まれ、ますます自信を失って消費に夢中になってるだけの猿芝居。
新型コロナのメディア煽動とワクチン接種の大行列は、それを世界に明示した。
食べ尽されて行く衰退国家であっても、生産と消費は旺盛ならば、別にいいんじゃ~ないのと一億総出で笑って居る。
与党と野党だとか、常に相対する対立軸を最初から用意する国民管理の愚かな手法が続いているが、社会は与えられた選択肢という狭い対立軸だけで終始し、他の存在は最初から無いモノとされてきたのが過去の日本国家運営の伝統だ。
馬鹿げた猿芝居だ。
用意された対立軸のどちらが権力を掌握しても、それらをまとめて統治する側には痛くも痒くもない。
すべての殺し合いは統治する側の掌の中でしか行われず、刺激的なショーとして提供されてるだけだ。
刺激的? 俺には最初から退屈な猿芝居でしかない。
競わされて、戦わせられて、殺し合いまでやらされてる猿の衆の狂騒は、ただの淘汰というゲームチェンジャーで終わってる。
資本主義社会だとか、民主主義だとか、みな表題は立派なもんだが、中身はペラペラな風俗店のチラシと一緒。
対ドル円が159円などという事態は、30年以上も前に不動産バブルが崩壊した時以来の水準だが、ドルの価値がひたすら落ちて行ってることで上昇を続ける金価額を見ていると、日本人が金(ゴールド)の現物を持つ意味が解るだろう。
俺はそのド真ん中で謳歌した不動産バブル崩壊時には、それを感じていた。
ドルの価値が落ち続けて金価額は上がり続け、円はその落ちるドルよりももっと安い。
対ドル円安になれば日本人の持つ金価額は上がり、ドル自体が落ちると金価額は上がり、ダブルで価値が上がって行くモノは金(ゴールド)と銀(シルバー)だろう。
株や為替や債券のお遊びには目もくれず、金(ゴールド)の現物だけを人間社会の価値の源として、本業の周旋屋でコツコツと生きて来た俺には感慨深い。
だから短期は安いとこで仕込み終えたからしばしホールドで、本業にせっせと専念していればまたまた愉快な関り合いも増えている。