分譲マンションでは、管理組合が緊急災害用の水や食料を常時保管していることが多くって、これが銀座の高級マンションともなるとなかなか良いモノを揃えてある。
飲めて喰えれば良いという簡素なモノでもなく、味も良いし、素材も良い、そんな災害用食料がある。
水だけでも喰えるようになる飯や、缶詰だって良いモノがあるが、賞味期限が近づくと、これを総入れ替えしなければいけなくなる。
区分所有者やらに無料で配布することが多い。
ところが銀座ともなるとそんなモノは要らないと言う人が多くって、勿体ないから貰ってやるよとあちこちで言ってる山馬鹿の俺んとこに、回ってくることがある。
この頃の山食になっている中本の辛旨飯にも飽きてると、こういうモノが意外に美味かったりする。
大汗かいて、全身運動をして、肺活も過激になった後は、ナニを喰っても美味いもんだ。
たまにケースで貰ったりするが、そんな時はホームレスやらに配ってやってる。
捨てるにはしのびない、そういうことは多い。
茹でる時間短縮のサラダスパゲッティを作ったり、そんなことすらもうメンドクサクなった。
山や海での遊びも、どんどんシンプルになって来てる。
政治も経済も、オリンピックもコロナ騒動も、相変わらずに退屈な雑音ばかり、アメリカに今度は幾ら貢ぐのか?
ワザと解り難くするために、いろんな話題をこんがらがらせて、中国にも良い顔を作り、惨めったらしいことよ。
その原資は、奴隷調教の済んでしまってる善良なる庶民の皆様方の懐、これから激しく毟り取られることになる。
極楽浄土は三途の川の向こう側、苦しみ抜いて死んだ後じゃ~なきゃ、極楽浄土にはいけないようになっている。
ところで、極楽といえば・・・薬師如来には12人の神将が守護としてついておって、その12神将がそれぞれ7000人の夜叉を従えているから、都合84000人の夜叉が薬師如来を守っているという、そういう掛け算を山歩きの時にしておって、そのひとりひとりの夜叉とは、これまた山の精霊、山の木や草花の化身、そんな生い立ちだから、山には相当な数の夜叉が行き交っている、そういうことになるなと感心しながら、むしった草を噛んで歩いていた。
だいたいが、山登りでどうにもならない苦しい時、そんなことを考えている。
足が動かない、膝が重い、息が苦しい、やる気が出ない、そういう時ばかりだ。
それが山頂に立つとガラッと変わり、自分がすべての天に居る、神々のひとりだ! となってしまう。
夜叉神峠と言う、鳳凰三山に登る登山口があるが、相当な夜叉がいたもんなんだろうと、笑って考えて居った。
仁王なんてのもその夜叉の一人ではあり、そうやって考えた行きつく先には、俺も夜叉ではある、そういうこと。
現に山の古い祠や寺や神社では、俺は片手をあげて・・・おう!来たで!!・・・とやっている。
決して恭しく、手を合わせ、頭を垂れることはしない。
自分もまたすでに生き神様になってると想ってる。
だからナニかを祈願するとか、頼むなんてこともない。
俺がやらなきゃ~、ナニも始まらない。
お賽銭は、置いてゆくがな。
その猿芝居の舞台の維持費や補修費には、金もかかるんだよ。
苦しい時に、そんな妄想とも言える神々や極楽の話を作り、遺す意味は、俺にはよ~く解る。
ただ心底は信じてはいないし、信じておれば山や海に独りでは入れない。
あくまでも、意を決するときの、引き金みたいなもんだろう。
山岳信仰の歴史は、人類のもっとも古い信仰だとも言える。
唯一の信仰は太陽に向かって、光を浴びること。
人間の弱さの言い訳、そのためにあの世や霊魂や妄想をたくさん作り上げて来ただけさ。
山を年中歩いておれば、色んな事が解る。
皆さんも、神になって生きれば、おのずと色んなことが見えて来るさ。