介護を経験したことがない人や、介護を他人に任せたり、逃げていたりした人たちが実際に自分自身が老いたとき、体調の変化や病について経験がなく知識もないことが原因で老いに戸惑って、簡単に詐欺に遭ったり騙されたり、医療の玩具にされている光景は至るところにあるし、ゼニカネで解決できると安易に考えてる守銭奴らは、哀しい高齢者となって消費猿扱いされている。
自分自身の老い方が解らない、いろんな介護をしていない、だからメディアを覗き見して、受け売りや又聞きで老いや介護を知るなんざ猿のキレイゴト。
あんなに偉そうに介護を語っていたのに、高齢者への愛を囁いていたのに、大好きなマニュアル本を読み解いて、現代人お得意の自画自賛だけで中身はナ~ンにも無いじゃ~、自分自身の老いは哀れなもんさ。
多くの高齢者たちと何十年もの時間を日常に接して介護を続けていると、俺なんかはすでに自分の終わり方まで考え終わっている。
人はどうやって老いて行くのか? どういう面倒な過程を経て死んで行くのかを間近でたくさん見守って来ていると、錯乱することもなく身軽になって、悠々と老いて行けると笑っているさ。
反面教師だらけと言っても良いお笑い劇場がある。
山に登る時は、基本は直前まで行く先は仮の話にしておいて、天候やその他の条件を見ながら直前に変更するのが常になっている。
地球で遊ぶのに、人間ごときの欲望や都合で、身勝手なことはしない、これが基本になっているが、では遊ぶのは止めるのか? 延期するのかと言われればそうではなく、場所を変える、そういう話になる。
南に行こうとしていたのを、北に変えるだけで、諸条件は大きく変わる。
生きて居て、日常生活でも、あらかじめ予定を立てて行動するなんてことはなく、その日暮らしを続けて65年が経っている訳で、それで借金・負債なく、貸し借りもなく、悠々と生きて居れるのはなんでだろう??
旅行の予定を入れた、家を半年後に完成させる、車を1年後に納車する・・・俺には出来ない行動だな。
渋滞の中でイライラする、飲食店に並ぶ、行列でおとなしくしている・・・俺には出来ない行動だな。
明日ですら、生きてないかも知れないと考えてしまうと、無意味な予定になる。
地球が主になるのは当たり前だが、なんで人間界で他の人間の上になるつもりもないが、下になる必要があるのか? 順番を待つなんて、俺には出来ない。
昨日は朝の6時から動き始めて、独り暮らしの弱った高齢者の通院に付き合っていた。
送迎に時間がかかるのは仕方がないが、山に登る時の早起きとは違って、気合が入らない。
去年、癌ステージ4をいきなり宣告されて半年で根治まで頑張った古女房の母親だから、誰も動かないからと放置する訳にも行かず、でしゃばらないように淡々と、俺がここんとこ先導して動いている。
物事や人間のことをよく知っている年長者がそれはやるのが一番に良い。
俺が激しく動けば波風が立ち、津波にもなり、そうしてまわりの人間も動き出す、ことを願っている。
まわりの者らが動き出せば、みなで見守ってやり、分担する、そんなとこかな。
大きな形だけ出来れば、新しい日常が始まり、俺の役目は終わるようなもんだが、結局は最後まで俺が動いていることが多い。
自営は時間が自由になる、無責任が染み込んでいるサラリーマンや公務員らが互いに都合の良い言い訳を語り合い、酒を飲んで我欲に時間を浪費して逃げ回っているのが現実だ。
医療の嘘や間違いを、洗脳され果てている高齢者に理解させるのは至難の技で、だからニコニコ笑いながら否定はせずに、でもこういう方法も楽しいよと引っ張って行く。
そんなことだが、帰りに暇をこいている俺の89歳になる婆様も同行させて、愉快に明るく賑やかに、カレーをナンで食べて来た。
・・・こんな強い男をあたしが産んだと想うと、なかなか楽しいね~
抜かしている。
今日は早朝から自分の右目の難病検査、午後からは古女房の癌根治後の定期検査に付き合うことになっている。
いつ仕事をやってるのか?
俺にも解らない。