オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

雨降らし神社はたたらの神だった

2024-09-11 11:57:38 | 銀座の周旋屋

 

 

 修験者や山伏は、火や炎を巧みに操っていた。

 たたら製鉄という原始の人力による製鉄では、たたらを踏んで炉の火加減を数日に渡って寝ずに調整する熟練職人がいたが、修験者や山伏はそこから発祥していると言っても良い。

 山に籠ってナニやらをやっている強面の変わった人たち、情報網の無かった時代では、里ではいろんな尾ひれのついた怖ろしい噂話が拡がっていただろう。

 高温度で燃え盛る炉の中を覗いて火加減を調整する役は過酷で、その多くが炉を覗く片目を潰してしまっていた。

 一つ目小僧や一つ目の妖怪伝説は、実際に山から降りて来た片目となった連中を、目の当たりにした里の人たちが語り継いで来た作り話だろう。

 棚田は鉄砂流しの痕だし、里の農耕民が耕す田畑には鉄砂流しによって大量の土砂が襲い掛かることもあったから、後に田畑としてプレゼントしていた訳だ。

 雨降らし神社という古い神社も今でも日本中にあるが、これは豊作を祈り雨を降らして欲しい農耕の民が祀り上げたのではなくって、山の上でたたら製鉄に精を出す連中が水を必要として祀り上げたのが起源だったろう。

 その後に製鉄の技術は各段に進歩して、原始のたたら製鉄は影を潜めていった。

 出雲大社などはたたら製鉄の神だが、いまでも古い社として、邪馬台国の話となって観光地になって遺ってる。

 歴史の流れの中では、こうやって真実が歪められて、その時の支配者に都合の良い創作伝説が作られて来ることは、当たり前の話でもある。

 それを元にして時代小説を書いたりする現代の流行作家の罪は、荒唐無稽なすべて作り話の作家よりも重いものだと言って置こうか。

 司馬遼太郎を筆頭にして、NHKの大河ドラマもろもろ、ワザワザ歴史を書き換える所作は悪意すら感じるがな。

 学者や専門家にしても、歪められた事実の上で安穏と研究に没頭しているエリートばかりだが、無駄に恥の上塗りだ。

 最初からパトロンの依頼通りのモノを書いている。

 迎合する無知な大衆は、それを事実にしてしまう片棒を担がされている。

 あ~あ、だな。

 

 虚空蔵菩薩はたたら製鉄が起こした菩薩と言っても良いが、その他の偶像にしてもおなじように原始の製鉄が絡み合っている。

 鉄や火や、そんな鉱物資源に由来するものこそ神や仏を化身として偶像化された。

 日蓮の産まれた外房の漁港には、誕生寺という寺が建っている。

 もともとは真言仏教が盛んだった時代に、独自の価値観を立ち上げた訳だが、のちのちの隆盛はあとに続く弟子たちの激しい争いが成し遂げたと言っても良い。

 多くの人間を動かす、多くの信者を動かす、戦国時代の武将でもおなじことだった。

 本来は独り、独りで納得出来ればそれが本望、他に強制すべきものでもない。

 俺はそう想って66年を生きて居る。

 誕生寺の山の方に足を向ければ、最澄寺がある。

 ここにも虚空蔵菩薩が祀られている。

 日蓮が修行を始めた時分には、天台宗・真言宗に関わる寺としてすでに存在していた。

 この界隈でも砂金が採れていて、たたら製鉄は盛んに行われていた。

 当然に人力がメインの製鉄だから、効率は悪く、大変な労力の割に製品化は希少な価値を持ち、生活・農工具として、兵器として、欲深い人間らが群がっていた訳だ。

 俺はワザと難解にした偉そうな教義や丸暗記の能書きには興味がない。

 その日常をどう生きたのか? を掘り下げれば足元は丸見えになる。

 これは今を生きている人間を見据えるのでも同じだ。

 

 赤のつく山や地名や川、血がつく山や地名や川、これらは辰砂と呼ばれる赤い水銀が採れていた場所に多いが、我が国は島国で海に囲まれているが、古くからそんな鉱山鉱石を探索・採取して、多くの犠牲のうえに鉄や金・銀・銅などの生活用具の元となる原材料を製錬してきた訳だ。

 もっと古くは黒曜石、こういう歴史はオモシロクって、毎週のように山に登っている俺なんかは、いつも現場に立ち寄っては再確認をしていたりする。

 腑に落ちることばかりになったのは、何十年もの膨大な経験の積み重ねからだ。

 今は今でまた、もっと別の話に夢中になっているがな。

 

 おなじ文言を使っておなじ方程式で思惟しておれば、おなじ色の結末に終始するのが当たり前。

 違う文言を使って違う方程式で思惟してなお、おなじ色になれば真実に近いということになる。

 この現代社会で、相変わらずの宗教儀式や体裁作りに日常の行儀を持ち出して、支配管理しようとすることは、すでに嘘八百でしかない。

 宗教の宗派分派争いは、それ自体がすでに枝葉末節な痴話でしかない。

 我が国の宗教なんて、命を賭けて生涯をそれに尽くしたとしても、罰当たりの罰にしかなってはいないことを自覚すべき。

 日本中の大寺院や大宗教派閥の長は、政治家の派閥の長となんら変わらず、もっと言えばヤクザの組長とも中身は変わらない。

 俺は仕事柄でそんな色んな長と若い時分から関り合いを持って来たが、常に対等な心持ちで丁寧に接して来たおかげで、その人物の日常をよく味わって来ているが、たいしたのはおらんよ。

 まだ街で自営の周旋屋を長く続けている爺ィの方が、よほどに感心するヘソ曲がりの変人頑固者は多い。

 昨日もそんな爺さんと下町で笑い合って来たが、後味は良く、気持ちもスッキリするのは、はっきり裸一貫で生きているからだろう。

 なんかよく解らない魑魅魍魎なんて、ハッタリのインチキ野郎ばかりだ。

 

 まずその日の食い物にも困るような日常に庶民を追い込む。

 なんでも言うことを聞く代わりに、食い物を貰い、栄誉を貰い、ゼニカネも貰い、常に与えてくれる者が正義となる社会に貢献する。

 これが現代社会の有り様だ。

 下らないし、退屈な社会に成り下がっているのは、生活の楽を求めすぎた報いだ。

 苦しければ酒を呑み、痛ければ麻薬をうち、辛ければ誰かに拠りかかろうとする。

 俺はガキの頃にそんな大人社会こそが地獄にしか見えてはいなかったから、こんな変な66年を送る羽目になった。

 ここは、大笑いするとこだ。

 

 ところで、半世紀前にラグビーをやっていた爺ィは、日本のラグビーには興味がなくって、昔のオールブラックスではない今のニュージーランドだとペネナラやマッケンジーにサヴェアくらい、スプリングボクスの方が個々で魅力を感じる選手は多い。

 マルコムだとかクワッガスミスなんかは俺の好きなタイプの選手だ。

 今年はアルゼンチンが面白いと想って見ていたが、強く洗練されて来た。

 すでにワラビーズなんざ太刀打ちできないレベルにまで隙の無いチーム作りが出来ている。

 もともと粗削りでクレービーに代表されるようにフィジカルは強かったが、これが丁寧に洗練されて来て、見ていて面白いラグビーをしている。

 いまやってるザ・チャンピオンシップは、相変わらず青春ドラマを続けてる広島カープの試合なんかよりも遥かに面白い。

 新井はアマチュア野球の監督ならば素晴らしいんだろうがな。

 世界のラグビーは仕事やナニやらが多忙でも録画してわざわざ見ているが、フィジーも面白くなってるさ。

 ガキの頃にやってたスポーツは、老いても面白いね~。

 当時は観客もガラの悪いオヤジばかり、いちいち一喜一憂などせずに、トライしても淡々としていて、それが俺は好きだった。

 女子供と言えば差別になるらしいが、女子供が観客に増えると、派手なだけのお子ちゃま色物スポーツになってしまうような、嫌な感じしか俺には無い。

 なんでもかんでもゼニカネか? 哀れ提灯だな。

 



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