11/3神戸:辺野古新基地建設反対緊急行動に参加しました。
~デモは、花時計から元町センター街目抜き通りでー!!
デモ出発前の辺野古アピール!
みなさん、沖縄辺野古へ足を運んでいる!私も行かねば!!
11/3神戸:辺野古新基地建設反対緊急行動に参加しました。
~デモは、花時計から元町センター街目抜き通りでー!!
デモ出発前の辺野古アピール!
みなさん、沖縄辺野古へ足を運んでいる!私も行かねば!!
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=139745&f=apより転載
日野原重明さん
「新老人の会」会長で104歳の現役医師、日野原重明さん(聖路加国際大名誉理事長)の講演会が1日、那覇市内のホテルで開かれた。沖縄から世界へ平和を発信することを望み、「一人一人の命が大切に守られ、互いに許し合うこと。それによって平和がもたらされる」と説いた。
沖縄戦に触れ「20万人以上が亡くなった。沖縄こそ平和のパラダイスにしないと駄目だ」とし、「米軍基地が占領しているのは間違っている」と指摘した。
命の使い方として「自分の持つ時間を人のためにささげ、勇気を持って実行する」と力説。「動物は走り方を、鳥は飛び方を変えられないが、人は生き方を変えられる」と強調した。
1970年、赤軍派にハイジャックされた日航機「よど号」に搭乗していた体験も披露。解放されて韓国・金浦空港に降り立った時、「足の裏に霊感を感じた」といい、「与えられたこれからの人生を誰かのためにささげようと決心した」と明かした。
主催は「新老人の会」沖縄支部。会場には約700人が詰め掛け、耳を傾けた。
http://diamond.jp/articles/-/80914より転載
累計200万部を突破し、NHKでドラマ化もされた人気経済小説の『ハゲタカ』。いよいよ週刊ダイヤモンド11月7日号(一部地域をのぞき2日発売)より、待望のシリーズ5『シンドローム』の連載が始まる。新シリーズでテーマとなるのは、東日本大震災以降の電力だ。ここでは、ハゲタカの作者である、小説家の真山仁氏による福島第一原発の取材記を紹介したい。
リーマンショック後の米国で大暴れした日本最強の企業買収者・鷲津政彦が次の標的に据えたのは、電力業界だった。
そのためには、私があの場所に足を踏み入れるしかなかった。
6月24日、午前7時過ぎ、私は郡山のホテルを出発し、一路福島県楢葉町のJヴィレッジを目指していた。東日本大震災前のJヴィレッジは、日本サッカー初のナショナルトレーニングセンターを含めた総合複合施設であり、なでしこリーグの東京電力女子サッカー部マリーゼ(2011年休部)のホームスタジアムだった。
11年3月11日に発生した東日本大震災以降、原子力発電所事故対策の、その後は復興(原発廃炉)の拠点になっている。
Jヴィレッジ内で取材後の「内部被ばく」確認をするための線量チェックが行われる。その上で、専用のバスで福島第1原発(1F)に向かう。
事故から4年半以上が経過しても、1F周辺は、放射線量が多く立ち入りが制限されている。Jヴィレッジと1Fをつなぐ国道6号線は除染が済んでいるが、道路沿いの限られた場所以外は、許可を得た者が防護服などを身に着けてしか入れない「帰宅困難区域」だ。国道につながる道には鍵の掛かった鉄柵が設けられている。
1F到着時「原発というより、大規模な工場にやって来た」というのが第一印象だった。
過去に取材した原発には「要塞」というイメージがあった。人里離れた半島の先に身を隠すように建設された上、入り口の厳重チェックだけで見学者を十分緊張させる物々しさがあった。
1Fは、事故後に入構ゲートが変わったのもあるのだろう。比較的スムーズに構内に入り、駐車場から免震棟へと向かった。
人の行き来が活発だった。震災直後に水素爆発が発生し、二度と人が入ることなど不可能になった、という思い込みがあっただけに、その「活気」は、驚きだった。
事故後の前線基地である免震棟に入る。
白い壁には、作業を行う人たちへのエールが所狭しと張られ、千羽鶴が至る所につるされていた。
免震棟内は日常業務を行う穏やかさがあるのだが、不思議なもので、ここであの死闘が繰り広げられたのかと想像するだけで、何とも言えない緊張感を覚えた。
震災の被災地を取材していると、自分自身が当時にタイムスリップしているような錯覚に陥るときがある。そして、私自身は体験していないにもかかわらず、あのときの様子、声が至る所から迫ってくる──。免震棟に入ったときも同じような感覚に襲われた。
あのとき、ここに避難しながら、事故の収束を図ろうとした人たちの思い、恐怖が脳裏を駆け巡る。
自分は、この感覚を取り込み、かみしめるために「現場」に来るのかもしれない。防護服に着替えながら、そんな思いがよぎった。
取材日は気温30度を超える暑さで、事前に東電の広報から「構内取材の間は、水分補給ができない。そのため、熱中症の危険もある。兆候が表れたところで見学は中止する」と言われていた。
そんな暑さなのに、幾重にも服を重ねた上に、頭にフードとヘルメットをかぶり、さらにゴーグルと半マスクを装着すると、冷房の効いた免震棟内でも汗ばんだ。
唯一の救いは保冷剤が前後に入ったベストを着たことだ。
「これを装着することで、熱中症はかなり防げるようになった」という言葉を信じ、とにかく目を見開き耳を澄ませて、記憶に刻もうと免震棟を出た。
構内の移動は全てバスだった。視界に入る限りでは、事故当時嫌というほど見たがれきは影もなく、代わりに所狭しとタンクが並んでいた。毎日300トン生まれる汚染水をためるタンクだ。
事故当初に突貫で建設したタンクはその後漏水が見つかり、より強度の高い溶接型に代える作業が続いている。
一方、海沿いを見やると、6基の原発建屋が整然と並んでいる。無事に冷温停止した5、6号機以外は、それが原発だったことも分からない状態だが、痛々しい事故の傷痕は薄れ、それぞれの状況に応じた処置が終わっていた。
非日常という日常──。この日、構内で何度も私の脳裏にその言葉が浮かんでは消えた。
最初に案内されたのは、構内全体を見渡せる高台だった。
見渡す限りタンクの山。もしかしたら、日本中の化学工場や石油タンクを集めたよりも多いのではないか。
じりじりと照り付ける太陽の中で、「もはや、ここは発電所ではない」と思った。一方、海側を見やると、日光に映えた海は、あの日津波を引き起こしたとは想像もできないほど穏やかだった。
その後、バスは原発建屋に向かう。水素爆発で建屋が吹っ飛んだ3号機の前で「降りてください」と言われた。
事故の現場の真っただ中に、第一歩をしるした瞬間だった。
あれだけの甚大な事故が起きた発電所の目の前に私は、自分の足で立っている──。それを実感するのに時間を要した。足元からじわじわと不思議なエネルギーが込み上がってくる。
私の認識は事故直後の1Fの印象で止まっていたのに気付いた。
至る所に、事故の爪痕は残っている。しかし、まさかこんな間近であの原発を見上げる日が来るとは思っていなかった。
それどころか、一時は核燃料や使用済み核燃料を保管するプールの水が蒸発し、新たな被害が起きる可能性も懸念されていた4号機の構内に入ることもできた。
そして、震災翌日水素爆発した1号機の前──。最も被害が大きかった建屋には、巨大なスクリーンが掛かり、静かに廃炉の準備が始まっているという。
数メートルしか離れていない場所に立って見上げたとき、私は事故後一日も、いや一秒も休むことなく事故の収束と除染、さらには廃炉に向けて葛藤してきた多くの人々の存在に頭が下がった。
今なお、震災について語るとき「あの日から時計が止まった」という言い方をする。
だが、それは誤りだ。震災後も時はずっと刻まれ、多くの人の奮闘が、気の遠くなるような歩みを続けていたのだ──。
そんな思いをかき消すように、線量計から立て続けに2度警告音が鳴り、引き上げ時を告げた。
事故後、多くの日本人は原発は悪であり、原発のことなんて考えたくないと思ったに違いない。だが、事故現場は厳然とそこにあり、人の手がなければ、収束の道は開かれない。誰もが忘れたいと思う現実を、ここで作業を続ける人たちだけは、絶対に忘れるわけにはいかないと受け入れて闘ってきた。
この先、約40年──この非日常の日常は続く。
科学技術は人を幸せにするために研さんを積み発展してきた。だが、あの日以来、科学技術の進化に大きな疑問符が付けられた。
また、事故を起こした東電は、企業として瀕死の状態のまま現在に至っている。
その現実を見据え、そして、そこから浮かび上がる科学文明を築いた人間のありさまを考えるときが来ている。
それを、『ハゲタカ』シリーズという世界を使って描こう──。
そう決心し、1Fを訪ねた私は、きっとそれが、未来の日本の指針になるのではと固く信じて時を刻むことにした。
私たちに挫折や敗北を味わっている暇はない!!
http://www.labornetjp.org/news/2015/1103shukaiより転載
11月3日、東京・水道橋の韓国YMCAスペースYで「2015秋の憲法集会~止めよう!戦争法の発動」と呼びかける集会が開かれた。主催は「11・3集会実行委員会」。地下ホールを満員にする250人が参加した。午後2時、司会の菱山南帆子さんが、午後1時を期して一斉に行なわれた「安倍政治を許さないスタンディング行動」を紹介した。最寄りのJR水道橋駅にも有志が立ったという。
吉岡達也さん(ピースボート共同代表)が開会挨拶。「憲法問題は日本だけの問題ではない。アメリカの世界戦略と密接に係わっている。そして闘いもつながっている」。「世界の市民の声が、日本の運動を応援している。日中韓をどう結ぶか、アジアの平和をどう守るかだ。日本の民主化とアジアの人々とのつながり。この二つが大切だ」と語った。
■「駆けつけ警護」は非現実的
JVC事務局長の長谷部貴俊さんは、「南スーダンと駆けつけ警護―NGOの立場から」と題する講演をした。長谷部さんは「私たちは徹底して中立的な活動をしている」と切り出し、スライドを上映した。「自衛隊は文民とのつながりを強めようとしている。NATO軍と米軍との役割は一体化している。しかしNGOは現地に軍が来て欲しくない」。「今の戦争は、どこが前線か分かりにくくなっている。多くのNGOが安保法制に反対の声をあげていないことは残念だが、9月には『安保法制に対する国際共同声明」が発表された。国内外331団体、世界36カ国から賛同が集まった」。
長谷部さんは、スーダンに派遣された国連軍の事例を挙げ、「駆けつけ警護は現実的ではなく、むしろ一般市民を危険にさらす。中立的な人道支援や和解の仲介役としてのNGOの働きこそ重要であり、今後も現場の視点で声を出していきたい」とまとめた。
一ツ橋大学名誉教授の山内敏弘さんの演題は「強行採決された戦争法と憲法問題」。強行採決された安保法=戦争法。これに反対する世論が盛り上がったのは、憲法の平和主義、立憲主義、民主主義に反することが明らかだからだ。
大多数の憲法学者だけでなく、日弁連や内閣法制局長官、元最高裁長官までもが違憲と断じている。たとえば弁護士には自民党の国会議員もいるが、全国52の弁護士会すべてが声明を出している。これら法律家がこぞって声をあげるのは稀有なことだ。
■はびこる反知性主義
安倍政権は、これまでの政府解釈や砂川判決の悪用など、法の論理をかなぐり捨てた詭弁を弄してきた。中谷元防衛相が「憲法を戦争法に合わせる」などと発言したことは、立憲主義をないがしろにするものだ。今回の戦争法案の審議および強行採決は、人間の理性、知性、品性を疑うような「反知性主義」とでもいうべき現在の日本の風潮を象徴している。
山内さんは怒りと力のこもった、丁寧な解説を続けた。参院選に向けたシールズの落選運動を評価しつつ、国会議員のリコール=罷免権の立法化にも言及した。そして、「存立危機事態を政府が総合的に判断するという主張こそ、今回の戦争法の核心をなしている。私たちは、そうはさせない運動を盛り上げていく」と締めくくった。
休憩中に講演への質問用紙が回収され、第二部で質疑応答が行なわれた。アメリカのNGOの活動について。自民党改憲草案にある「緊急事態法」について。南スーダン派遣と、アメリカの天然資源確保の狙いについてなどが聴講者から出された。お笑いタレントのオオタスセリさん(写真)は、持ち歌「ストーカーと呼ばないで」や、区議立候補を演じた一人コントを披露し、会場を笑いで包んだ。
■「今日から出発だ」
集会の最後に、「行動提起」として高田健さん(市民連絡会)が発言した。60年安保闘争の後には大きな敗北感があった。しかし「2015安保」にはそれがない。なぜか。私たちには、挫折や敗北を味わっている暇がないのだ。私たちの前には安倍首相がいる。確信、怒り、決意。私たちにはエネルギーがある。「2000万人署名」(※)を開始する。参院選に間に合わせるために、半年間の急ぎの 運動だ。このままでは負ける。野党共闘もそれほど簡単ではない。考え方の違いから運動内でも批判が起きている。他者のやり方をけなし、文句を言うのは簡単だ。それでも非暴力で手をつなぐことだ。来年の参院選は絶対に負けられない。今日から出発だ。高田さんはこう訴えて集会を締めくくった。さわやかな秋空の下、会場周辺には物々しい警察車両が並んでいた。通じる道路には警察官が立ち、裏手の高台へ上がる女坂や、線路沿いのかえで坂にまで警備陣が張りついていた。集会の妨害に、会場周辺には17台の右翼の街宣車が集まったという。(Y)
※「戦争法の廃止を求める統一署名」(戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会)