関ヶ原の合戦に敗れた石田三成が捕えられて、家康の所へ送られてきた。
その時に家康の家臣本多正純が三成に、「戦に負けたのに、自害もせずに、おめおめと捕えられ来るなどとは、武将の心構えに欠けるではないか」と言った。
すると三成は、「人手に掛からない様に切腹するというのは、雑兵のする事だ。本当の大将は軽々に命を捨てずに、最後まで諦めず再起を図るものだ」と答えたという。
あるいは、斬首の直前に柿を勧められ、体に毒だから断った所、皆が笑ったので、「大義を思う者は、首を切られる直前までも命を大事にして、本望を達する事を心がけるものだ」といったとも言われている。
三成が家康を相手に戦を起こした事、またその戦いの進め方などについては、昔から是非いろいろに論ぜられている様である。
しかしこの様に最後の最後まで諦めたり志を捨てる事のない態度には、非常に学ぶべき物が有る様に思う。
三成自身も正純に言っているのだが、その昔伊豆に平家打倒の兵を起こした源頼朝は、緒戦に惨敗し一命も危うい所を、朽木の洞穴に身をひそめて、辛うじて難を逃れ、のち再び兵を挙げて、今度は首尾よく天下を獲ったのである。
もし最初の敗戦に「もはやこれまでだ。名もなき者の手に捕らわれるより…」などと考えて切腹していたら、後の彼はあり得なかった訳である。
だから何事によらず、志を立てて事を始めたら、少々上手く行かないとか、失敗したと言う様な事で、簡単に諦めてしまってはいけないと思う。
一度や二度の失敗でくじけたり諦めると言う様な心弱い事では、本当に物事を成し遂げて行く事は出来ない。
世の中は常に変化し、流動している物である。
ひとたびは失敗し、志を得なくても、それにめげず辛抱強く地道な努力を重ねて行く内に、周囲の情勢が有利に転換して、新たな道が拓けてくると言う事もあろう。
世にいう失敗の多くは、成功するまでに諦めてしまう所に、原因がある様に思われる。
もちろん、ただいたずらに一つの事に頑迷に固執すると言う事ではいけない。
あくまで変化に応じ得る柔軟性と言うものも、一面極めて大切なのは言うまでもない。
しかし、ひとたび大義名分を立て、志を持って事に当たる以上、指導者は一パーセントでも可能性がの残っているかぎり、最後の最後まで諦めてはいけないと思うのだが。