爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

「お金=幸せ」の錯覚

2022-01-19 20:00:03 | 日記
利益追求だけに、人生の生き甲斐を掛ける。

利益を上げる為には、人の健康や心の平和などには、まったく無関心。

過大な宣伝によって、客の信用を得、不当な評価を作り、利益を上げ、より大きな規模に発展していく。

今や利益の成果の競争だけで、全世界が泥沼の競争をして、沈んでいく。

個人も世界も、収入の増加が人間の最終の幸福であると、錯覚してしまった。

お金は無くてはならぬ。

お金は尊いものだ。

いささかでも無駄にしては、相成らぬ。

だが、自分の野望だけで増収を図る。

弱者を切り捨て、叩きまくる。

強い者だけが収入を蓄積して、みんなから拍手されるという現実が、許せるだろうか。

収入の蓄積が、人生の唯一の達成であっては困る。

その蓄積された収入を、この同じ地球に生まれながら、今日一日の食もなく、水さえ飲めない難民のために、どうして使ってやれないのか。

世界に「仁」の心が失せた。

私たちは、いつの間にか他人をチェックし、他人ばかりを罰する生活を、するようになった。

あらゆる判断が、自己中心的になると、自我意識だけがこんがらがって、世間の人間関係はますます上手く行かなくなるであろう。

「過ちを観て斯に仁を知る」

みんなの考えがまとまらず、どんどん分裂していく、自分本位の世界の虚しさをよく観察して、平和の為にお互いを思いやる「仁の心」がいかに大切かを、真剣に自覚しなくてはならない。




時と場所をわきまえる

2022-01-17 21:14:06 | 日記
宇宙のモノサシ「天尺」の善悪の見分け方は、まことにサッパリしている。

人間みんなの生命が、宇宙の生命である事を自覚し、深く宇宙に感謝する。

宇宙の生命を生きている多くの人を、真心込めて思いやり、みなと手を取り合って楽しく明るく生きている人…これが徳人であり、善人である。

みんなの生命の元が大自然であり、大宇宙である事にまったく無関心で、いま自分の頭に浮かんだ事が、絶対であると考える。

常に自我の考えを人に押し付け、相手がそれを認めないと、すぐに攻撃的になって他人を大切に思わず、痛め付けている人…これが不徳の人であり、悪人である。

人がどんな良い考えをもった処で、いずれはその良い考えに裏切られて、破滅する場合が多い。

その良い考えをよく検討すれば、良い考えとは単に自分にとって「良い」だけだったのである。 

大徳はエゴイストには、手を貸したがらない。

宇宙は人を思いやり、他人に喜んで尽くす徳のある人を、裏切る事はない。

「不仁を悪む者は、其れ仁を為さん」と孔子は言う。

思いやりのない人を、天は悪む。

では、天が悪む思いやりのない人とは、どんな人なのか。

何よりも、まず自己中心的で人に負ける事、人に遅れる事が絶対に嫌だと想っている。

自分の発言した事が、人にどう影響するかに、まったく気が回らずに、大声で怒鳴り散らす。

言いたい事があると、時や場所をわきまえて我慢する事が出来ず、憎まれ口をきく。

人とよく衝突する。

常に過剰な競争心を持つ。

欲張りな上に見栄っ張り…。

こういう人には、天は「仁」の心を持って欲しいと、願っているだろう。



良し悪しに捕らわれない

2022-01-15 22:05:27 | 日記
自分の考えや思想を大切に守っていく事は、大事な事には違いない。

ただし、それを大切に守っているだけなら良いが、他人に対してそれを主張し始めると、当然相手にも考えや思想がある筈なので、だんだん食い違いが出てきて、お互いが孤立し一人ぼっちの寂しさを味わう事になる。

自分の考えや思想を持っていても、それを振り回したり、相手に押し付けたりしなければ良いのであるが、真面目な人ほど勉強を積むごとに、考えや思想が固着してしまい、相手の考えや思想を受け入れる寛大さを失って、孤独感に拍車を掛けられる事になる。

他人と強調する事が出来なくなる。

そこで、もしみんなと和やかに仲良く生きて行きたいなら、たまには自分の考えや思想を、ポイッと紙屑みたいに捨ててしまう事だ。

「徳の脩めざる、是れ吾が憂いなり」と孔子は言う。

自分の命は、宇宙の生成力によって、育てられていると言う事実に目を転じれば、もやもやした頭の中に考えがすっと消えて、明るくなれる。

そして、あらゆる人と共鳴して生きて行ける。

禅語に「放下着(ほうげじゃく・従容録)」がある。

「捨ててしまえ!」「投げ捨てろッ」という意味である。

人は良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、損だとか得だとか…と、いつも二つの考えを対立させ、そのどちらかをピンセットで摘まもうとして悩んでいる。

そういう損得の対立関係を捨て去ってしまえッ…と。

その代わり自分の居場所は、しっかりと守っていなくてはならない。

とんな事があっても、善悪を超越した大宇宙にどっかり座っている。



信頼関係を築く

2022-01-14 17:50:04 | 日記
人は100%の善を持っていない。

また、100%の悪も持っていない。

人はみな、善と悪の二つの種を持って生きている。

ただ「人が利己的な欲望に向かって、突っ走れば必ず破滅する」…これは二宮尊徳の言葉である。

彼は若い頃から「論語」「大学」「中庸」や仏教・禅・神道など、広く東洋や日本の伝統を学んで、自分自身の人間学を確立しているが、決して現実を忘れず、貧しい生活に悩む町人や農民の為に、優しい言葉で分かりやすく、常に真心を込めて、人生の生き方を説いた。

彼は人を思いやる愛と誠の心があれば、社会は明るく幸福になると、主張し続けた。

そして、貧しい農村を救う為に、全身の汗を絞りきって働いた。

高い理想など、一つも掲げなかった。

いつも身近に起こってくる現実の問題を、どうやって解決するかに奔走し、貧困と飢饉にあえぐ多くの藩や村を救済した。

尊徳の名の通り、天徳を尊び人をこよなく愛し救った彼こそ、仁の人であった。

ここで考えなくては、ならない事がある。

二宮尊徳がいかに「仁」の人であっても、彼の努力が若い頃から、実った訳ではない。

彼が成功を収めた唯一の理由は、村の人が徳化した二宮尊敬を信じたからである。

彼の思いやりの心も民への愛も、市民の信が有って初めて、実現したのである。

「民信無くんば立たず」

政治家がいくら良い政策を打ち出したとて、国民が政府を信じなかったら、絶対に実らない。

尊徳も市民の信頼を得るまでは、すさまじい苦労をしている。



自分を知る

2022-01-12 22:08:32 | 日記
九州、四国を討ち、西日本を平定した秀吉は、次に関東の重鎮北条氏を傘下に加えるべく、使いを送り上京を促した。

しかし、北条氏政、氏直父子は天下の形勢を察せず、自分の力を頼み、秀吉を軽視し、言を左右してそれに応じなかった。

あまつさえ、秀吉に開戦の口実を与える様な事まで、したのである。

そしてひとたび戦端が開かれると、小田原城の要害を頼って、籠城の策を採った。

小田原城は天険の地で、かつての勇将上杉謙信が大軍を以て囲んでも、ビクともしなかった実績がある。

その夢を追った訳だが、天下の半ばの兵を集めた秀吉の力は、かつての謙信の比ではない。

それに対して、北条氏自身は早雲以来五代を数え名門化して、かつての質実剛健さがやや薄れつつあった。

したがって、戦いの帰趨はおのずと明らかで、北条勢も各所に善戦はしたものの、圧倒的な勢力差はいかんともしがたく、あたら関東に雄飛した北条氏も五代で滅亡してしまったのである。

孫子の有名な言葉に「彼を知り己を知らば、百戦して危うからず」とあるが、この北条氏政、氏直の場合は、その反対に相手を知らず、自分をも知らなかったと言えるだろう。

ちょうど大東亜戦争に於いて、日本がアメリカの勢力を低く見、みずからを過信した様なもので、これでは到底勝つ事は出来ない。

やはり、相手の力と言うものを的確に計った上で、戦うべきか、和すべきかを判断しなくてはならない。

しかし、実際には中々これが難しい。

ともすれば、希望的にものを見て、相手を軽視し、自惚れを持つ。

特に、相手を知る事も出来にくいが、それ以上に自分の力を正しく知る事は難しい。

自分の事は一番分かりそうなものだが、事実は反対で、いわゆるひいき目と言う事になってしまう。

だから指導者は、そういう事を十分考えた上で、自分の力、自分の会社、団体、国体と言ったものを客観的に眺めて、正しく把握する事に務めなくてはならない。

その様に自分を的確に知る事が出来る人は、相手についても誤りない判断が出来るであろう。

そうなれば、何事をやっても、殆ど失敗せずに、行けるのではないかと思ってしまうのだが。