さして美人ではないと思うのだけれど
あの頃の貴女には不思議に際立つ背景があった
僕が鉄道ファンだから
そして僕がポートレートカメラマンだったから
必然的に
僕が私的に撮影するポートレートは
鉄道が背景のものが増えてしまうのだけれど
どんな美女を撮影しても
鉄道という
ある意味、無機質なものを背景にした場合
女性が浮いた写真になるか
女性が沈み込んだ写真になるか
あるいは
多少は作品としてまともなものになっても
イメージとしては演歌歌手の
CDジャケットの域を出ないものになってしまうのだが
貴女は違った
堂々とそこに存在する背景に対し
毅然と
背景をコントロールする力を持っているかのように
僕には思えてしまった
だから
僕の貴女へのリクエストは
より鉄道の奥深くへ
さらには鉄道そのものへと移っていくのだけれど
貴女は一度だって
僕の期待を裏切らなかった
元々恵まれたプロポーションの持ち主で
ふっと、僕自身もその時に初めて気づくような
世のオトコを呆けさせるような色気すら感じることがあり
そして冒頭に
さして美人ではない・・などと書いたのが
悔やまれるほどの美しさを垣間見せることもあった
貴女は僕が出会った女性としては
多分にピカ一の美しさを持つ人だったのだろう
それを貴女自身が意識などしていないとしても
鉄道の世界は
鮮やかな色彩が人目に付く部分よりも
錆色が目立つ線路や機器のある部分のほうが
はるかに多いのは
これは鉄道を被写体とする鉄道ファン
昨今では撮り鉄と呼ばれる人たちにとっては
当たり前のことかもしれない
錆色であるがゆえ
女性の好む鮮やかな花などの
あの美しさとは全く異質であり
そこに似合う女性というものは
実はそんなに存在しないのではないかと思う
でも、あなたは錆色の中で
しっかり
自分の美しさを開花させてくれた
いちど、もしかしたらと
貴女を神戸港の倉庫街に連れて行ったことがあった
もちろん、鉄道の世界よりはるかに大きな港湾の世界
錆色の中で貴女はしっかりと美しかった
残念ながら
僕はいまだに
貴女ほどの、錆色の似合う女性を見いだせていない
あの
貴女を撮影し続けた
わずか数年は
僕という男にとって
至福の季節だったのかもしれぬと
今更ながらに思い返しては悔いる
そしてそれは
至極の宝石が手が届くところにありながら
手を届かせることのなかった自分への悔いかもしれない
つまりは僕が老いというものに向き合わなければならなくなった
今だからこそということだろうか
男女の仲というのは、決して親友には出来ないという人があって、昔の僕はそれに反発もしたのだけれど、今となっては必ずしも全面的に賛同するわけではないが、ある意味では、なるほどと思える部分もある。
ふっと時折・・思い出すあなたのこと。
大変失礼ながら、僕はずっと心の中で追い求める女性があり、ではあなたを女性として愛していないのかと言えばそんなこともなく、これもある意味ではあなたは僕と最も心が通じた女性だったのかもしれない。
だが、あなたとの関係は、ずっと大事な友達という言葉が一番適しているかもしれないとも思うのだ・・そこに男女の関係はあったにしても・・
不思議とあなたとは趣味や嗜好が合った。
食べるもの、見るもの、行くところ、乗り物・・
待ち合わせは時に、三ノ宮の書店の中。
「何時頃に紀伊国屋」
メールはそれだけだ。
けれど、あなたは女性にありがちな約束の時間に遅れるなどということはほとんどなく、もしも電車の都合などでわずかに遅れても、まず最初にそのことを一生懸命に詫びる・・そんな女性だ。
この待ち合わせはとても楽で、書店で好きな書籍を眺めているといつのまにか、あなたが僕の横に立っている。
あるいは僕が、そろそろ時刻かと、書店内のあなたの好きな雑誌のコーナーに行くと、そこであなたは一生懸命に雑誌を見ていて、僕が横に立つと全く顔を向けずに「どこ行く?」と一言だけ切り出す。
それから買うものがあれば清算して、二人で街へ繰り出すのだけれど、あなたはいつも高性能のカメラを持っていて、思うところで立ち止まりシャッターを押す。
面白いのは神戸港を一緒に歩き回っても、港の風景や船を写すという、ごく普通のことはあまりせず、カモメや野良猫にカメラを向けたりする。
なにやら難しげな表情でカメラのファインダーを覗くが、だからと言って素晴らしい作品が出ているとも思えない。
基本、あなたの作風は「可愛くちょっと洒落た写真」だ。
そして撮影の時のあなたの仕草は、心底、可愛いと思う。
電車に乗って景色を見るのが好きで、鉄道ファンである僕とはそういう面でも気が合う部分もあった。
最もあなたは、僕が時として語る車両や施設のことには全く興味は示さず、ただ、ひたすらに車窓を見て、見えるもの指さしてあれこれ説明してくれる。
だからあなたは電車に乗るときはクロスシートが好きだった。
一度、京阪電車のできたばかりの中之島線で快速急行という新しい列車に乗ったことがある。
なぜ、そんな遠くまで行ったのか・・
あなたはブランドショップがお目当てだったのだろうが、やはり新線開業という言葉にも多少は興味を示してくれていたからかもしれない。
空いている地下駅から乗り込んだ、まだ新車の新3000系電車の一人がけシートを向かい合わせにして、あれこれ車窓を指さすあなたがことのほか可愛く、美しく思えた。
だが、僕とあなたは「友達」だったのだ。
「親友」と呼べるものかもしれない。
いや、少なくとも、あなたから見て僕はそうだったに違いない。
僕はこの点では男だと思う。
あなたに対していつも下心を持っていたし、何度も肌を合わせると、自分ではあなたが恋人のような錯覚に陥るのだ。
「私はあんたの彼女じゃないからね」
それはあなたから口癖のように聞いた言葉だ。
大阪には何度か一緒には行ったが、かといって僕の好きな新世界辺りへ誘ってみても「絶対にやだ」などという。
けれど、神戸の下町、宇治川商店街とか元町高架下とか、そういうところは好んで歩いていくのだから、未知の街への恐れのようなものもあるのかもしれない。
一緒に歩くと焼酎のカップを舐める。
時にはそれが日本酒のワンカップであったり、パックのワインであったりするのだけれど、それをハンカチに包み、酒であることが分からぬようにはしているのだけれど、並んで歩く僕が発泡酒のロング缶を持っていたり、焼酎のカップを持っていたりしてそれを隠していないのだから、すれ違う人には酒を呑みながら歩く変なカップル・・それもかなり歳の差がある・・・に見えたに違いない。
その頃、あなたは僕の年齢の6割ほどの若さだった。
歩くうちに酒がなくなると、また見つけたコンビニで酒を買う。
そうして、お互いに酔ってしまう。
そんな時はたいていが、近くのお気に入りのカラオケ屋に入って、なかなかの声を聴かせてくれる。
僕が今も自分の世代より二回りほど下の世代の歌に詳しいのは、間違いなくあなたとの出会いがあったからだ。
いや、それどころか、僕は今、あるアニメ作品のファンとして友人たちも認識してくれてはいるけれど、それこそ、あなたからの受け売りだ。
「レイちゃんは人造人間なんだよ」
その頃、あちらこちらで上映されていたこのアニメのポスターを見るたびにあなたはそう言う。
自分と同じ、世間一般とは異質なものを、薄幸の人造人間たるヒロインに見ていたのかもしれない。
時に、あなたが極端に甘えてくれるときがある。
そういう時は、どちらともなく足を山手の方に向ける。
優しく、感情が豊かで、そして美しく軟らかなあなたを、その時だけは僕は自分の手元に置くことができた。
それはまさに夢のような時間だ。
明かりを消した部屋の中で、僕の普段の疲労がゆっくり溶けていく。
あなたの優しい肌の中に自分をうずめることの幸せ・・
他愛もない二人の時間を、けれど自分たちで決めた制限があるゆえの短時間で過ごし、まだその余韻に浸りたい僕を、あなたはけしかけて帰り支度となる。
ただ、これは言うが、僕はあなたと会えるなら、それが例えばお茶を飲むだけとか、カラオケ屋に行くとか、本屋でなんとなくの時間を過ごすとか、一緒に電車に乗るとか、あなたの好きな「うどん」の店にいるとか、僕にはそのどれもが嬉しく、満ち足りた時間だった。
だから、無理に肌を合わせなくても十分楽しかったし、あなたと会うことで疲れがとれていく。
その頃、僕は仕事で大きな失敗をして、これまで歩いてきた道を捨てねばならぬ時期だった。
その時期にもし、あなたに出会えなければ、僕は今頃はこの世にいなかったかもしれない。
迫りくる絶望の荒波、逃げ出したいが、絶対にそこから逃げ出せない、まさに自分が波の中へ飛び込んで消えていこうとするとき、あなたの素っ気ない優しさがどれほど僕を助けてくれたことか。
いや、あなたもまた、そういう時期だったのだと、それはあなたの普段の話から察しがつく。
不幸というものは時として、際限なく押し寄せることがある。
そういう時に、お互いを癒し、心の苦悩をひと時でも逃がしてくれる人に出会ったのは、人生、長い目で見ればこれほどの幸運はないのかもしれない。
それにしても・・
この頃・・時に、あの、オレンジのわずかな照明に照らされた、汗の浮いた白い肌が思い返されることがある。
ゆっくりと動く白く柔らかい肌、切ない吐息をそっと漂わせてくれたあの空間。
男は所詮、アナログであり、事象の変換には時間が伴うグラデーションだ。
女は、ある時を境に一気に切り替えが利くデジタルだと、わかっていても自分の中の未練に笑うしかない。
「じゃ」
同じ方向に帰る電車で僕が先に下車する。
にこりともせず、けれどいつまでも電車の中から見ていてくれるあなたの姿は、たぶん僕の中で消えることはないのだろうな。
猛暑だった八月が終わり、神戸では今朝の気温が22度台となった。
殆ど二か月ぶりのことだ。
一昼夜勤務を終え、都会ゆえに晴れても見える星の数えるほどしかない明け方の道を歩きながら、僕は九月の予定を頭の中で確認していた。
まず、自分が主催する大きな呑み会がある。
台風が来ているが、その前々日に当地を通過する様子で、よほどの被害がない限り問題はないだろう。
知り合いのカメラマンの個展もある。
参加できるかどうかはともかくとして趣味としている鉄道会社やバス事業者のイベントもある。
そういえば居住している団地の建て替えに伴う説明会があったはずだ・・・
会社から自宅までは徒歩で三十分ちょうどだ。
途中、飲料の自販機が見え、ちょっとホッとしたくなって立ち止まった。
幸い、好きな飲み物がある。
缶を開けるとトマトの香りが漂う。
くいっと喉を鳴らして、ほど良い冷たさの少し抑え気味のトマトジュースを味わう。
そうだ・・
まだ開けない暗い空を見上げて、弱々しくやっと光りを放つ星を探しながら思いだした。
今月、あの人の赤ちゃんが生まれる・・・
いつもお世話になっている、さるチームリーダーである女性だ。
頑張り屋さんで、明るくて、だれからも好かれる素敵な人。
どんな困難もきちんと乗り越えていける人。
恋愛という感情ではないと思う。
信頼というのだろうか、共感というのだろうか、不思議な出会いがあってもう何年になるだろう。
その女性がわざわざ苦労する道を選んだ。
本当はもっと楽で、穏やかな生き方もあるはずなのに・・そのことが彼女らしいというか、でも非常に心配もしている自分がある。
美しい人で、何度も快く僕の被写体にもなってくれた人だ。
彼女のおかげで僕は今でもかつての職業だったポートレートカメラマンであることを思い出せるのかもしれない。
彼女は自分でほとんど決めてから「報告がある」と言われて二人で会った時、それが「報告」であり「相談」ではないこと、そして僕もまた、その「報告」を肯定した一人であることがつい数か月前のことなのに懐かしく思い返される。
本当はずいぶん苦しんだと思うその結論を出してから、彼女は一人になり(もうすぐ生まれてくる子があるから二人にはなるのだけれど)たぶん、周りにはずいぶん能天気に見せかけて必死に生きているんだろう。
一人で赤ちゃんを産んで、そしてそのあとも自分で自身や赤子を守るしかない選択・・それを誰かに頼るわけでもなく自分で切り開いていく。
女性は強いと思う。
本来、母は強いものだということを改めて思う。
先々月にお会いした時、彼女のお腹はもうずいぶん大きくなっていた。
「食べすぎやねん~~ほとんど自分のぶんかも」
そういって屈託なく笑う彼女の、まもなく誕生する命。
見たいなぁ、会いたいなぁと思う。
新しい命に。
それが彼女という女性の子であるそれだけで、たぶん僕には可愛くて仕方がないだろうと思う。
九月かぁ・・
歌の世界では寂しさの漂う月でもあるが、猛烈な夏に辟易している僕には、なにか優しい風が吹いてきそうな気がするのだ。
え・・?
「もしかしてお前はあの人に惚れているのか」
意地悪な星が問いかける。
「そうかもしれんが、そんなことは・・どうでもいいこと」
「惚れっぽいお前だからな、わからんぞ」
「ちょうどいい距離感があってこそ成り立つ想いもあるんだよ」
星にそう教えてやり、でも「会いたいなぁ」と呟く。
お腹の大きな貴女にも会いたいし、赤ちゃんを抱っこしている貴女にも・・
飲み干した缶を空き缶入れに入れ、僕は「あと15分」と、歩き始めた。
それにしても涼しい風だ。
どこからか元気の良い赤ちゃんの声が聞こえる気がする。
さっき、あの線路際で重い望遠レンズを手持ちで振り回し
高速で突っ走る列車を見事に射止めていたあなたは
いま、僕の前に裸身をさらす
「早く、早く」と身体をくねらせて僕をいざなう
僕はもう、昼間の撮影で力を使い果たしてしまっていて
一刻も早く眠ってしまいたいのだが
あなたは「このままでは眠れない」などという
眠れなければ起きてればいいさと
僕の心はそう思っているはずなのだが
目の前の白くやわらかな曲線を描く乳房を見ると
自分が本当はどう思っているか
それすらも怪しくなってくる
あなたの胸の先にかじりつき
その柔らかい感触を口の中一杯に頬張った僕は
あなたの喘ぎを聞きながら
汗と体臭と、不思議な甘い香りの中に沈められていく
耽美と怠惰が僕たちを包み、オレンジの照明がわずかに
あなたのよりいっそう美しくなった顔を浮き上がらせる
二人の脇のテーブルには、先ほどまで使っていたニコンが二台
思い通りの撮影ができた
難しい夕陽のシーンで好きな列車の撮影ができた
僕たちは撮影が終わったあと
小躍りしてお互いのカメラのモニターを見せあったのだ
僕のカメラは列車主体で
あなたのカメラはオレンジの夕景が主役で
そして、安酒場で呑んだ後はここに来たというわけだ
白い肌をオレンジに染め
あなたはそれでも僕を求めてくる
僕は何とかあなたに応えようとしながらも
自分の力のなさを思い知りながら
そしてそれが本能だろうかと
あなたに挑みかかる自分がある
汗が水蒸気となって
さして広くない部屋に充満する
甘い香りは僕たちの生きている証なのだろうか
あなたは身体をくねらせ、激しい息遣いで僕に迫る
チカラをすべて出し切ったはずの僕はまたあなたに挑んでゆく
朝までこの営みが続くのだろうか
そうだ、カメラデータの確認と
機材の手入れをしなければ
一瞬でその思いは消え去り、僕はあなたの泉から迸る
甘い液体のなかに沈み込んでいく
汗と汗、体液と体液、唾液と唾液、息と息
冷たいカメラボディにはうかがい知れぬことでもある
(銀河詩手帖289号掲載作品)
マルーン色の電車が山々や邸宅、公園などの緑の中を行く阪急御影駅
その風情は今も変わることはないが
駅北には立派なロータリーがあり
駅南には再開発ビルが並ぶ
この話は今からおよそ三十年も前のことになるだろうか
その頃のこの駅は郊外の住宅地への入り口
あるいは六甲連山への登山口といった風情で
駅前からのバス路線は駅にロータリーがないものだから
駅すぐ東のガードを潜り抜けた先
深田池のほとりに小さなバス停が拵えてあり
すぐ傍の山の中腹の
大声を出せば声がそこまで届きそうな距離にあるあの病院まで
殆どの人が十九系統の市バスに乗っていた
バスは小さなバス停を出ると
いきなり急カーブと急勾配という厳しい道を
まるで何処かの山の上の観光地へ向かうかのように
エンジンの音を低く篭もらせながら低速で登っていく
もし、この病院までの道のりを歩く場合は
深田池の反対側のほとりから
目の先の道が壁に見えるような石畳の激しい斜めの道を
高級住宅街の中から六甲や反対側の海が見える景色を愉しむ余裕もなく
殆ど登山者のように黙々と歩くしかなかった
僕はいつも坂を登るときはこの路線バスを使い
病院の前のバス停で首を長くして君を待ち続けて
やがて君が病院の職員出入り口から
息を切らせて走ってくるのを
見つけるその瞬間が好きだった
バス停は病院より少し高い場所にあり
そして今日も
君はバス停への階段を小走りに駆け上がってくる
「すまんねぇ・・待ったんじゃろ」
「いや、今、来たとこやねん」
「急に仕事が入ってしもうて」
「仕事は分かっとるし」
「わやじゃ・・・」
そういって君は笑う
何十分待とうが、最初の会話はいつも同じだったし
君が時間通りに現れたことはなかったのではないかと思う
慌てたり、気持ちが昂ったりすると広島弁丸出しで喋る君は
小柄で痩せぎすの体型とともに可愛く見えてしまう
もしかしたら僕は
この階段を上がってくる君を見て
だんだん君に惹かれていったのかもしれない
「バスに乗らんで歩こうよ」
汗を拭き
病院の建物脇から見える
神戸の街や海の方を眺めながら君がそう言う
君は歩きだし、僕はずっと背の低い君の後を追う
なんだか今日の君は苛ついて見える
女性ばかりの一族の中で育った僕には
女性の苛ついた表情が怖い
それは本能的なものだ
「あの・・なおちゃん・・何か怒ってる?」
ふっと、君は振り向いた
「ん?怒っちょらいませんけど」
不思議そうに僕を見る。
可愛いいつもの笑顔だ。
「うち、怒っちょるように見えた?」
「うん、なんでか・・」
君は歩くのを止めて、海の方を見たまま立ち止まった
「不思議じゃのぅ、そがぁなふうに見えるん」
「やっぱり、怒っとったんかいな・・」
「ぷちじゃけどね・・」
「職場で何かあったとか‥」
「済んだことじゃ、もうええがの・・すまんわね、気にさして悪かったね」
一瞬僕を見つめて、そういったかと思うと君は坂道を早歩きで下りだした
「はよ行こうよ、今日は三宮で行きたゅお店があるんよ」
高級住宅街の急な坂道。
君はさっさと肩で風を切って歩いていく
僕は必死で後を追う
邸宅や街路、小さな公園、あるいは里山のままの空き地
それらの初夏の緑の向こうに
マルーン色の阪急電車が見えてきた
君は薄いスカートをひらひらさせながら
まるでスキップを踏むかのように坂を下りていく
僕は自分よりずっと背の低い君の脚力に感心しながら
そういえばこの娘は
広島は広島でも
備北の農家の育ちだったなと改めて思う
ファーン・・電車の警笛が後ろの山にこだまする
青空の彼方では雲雀が囀る
こうして二人で並んで歩くのがとても幸せに感じ
君を抱きたいなどとは、とても思えなかったあの頃ではある