story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

好きなんだと言いたい人が

2018年02月16日 21時02分02秒 | 詩・散文
あまりお洒落でもないファミレスで間に合わせて、貴女とお茶する。
屈託のない、ばかげた話ばかり出るのかと思いきや
今日ばかりは少し違うようで、
深刻な話を笑顔でする貴女に
僕ではなく、隣の席の若い女性が凍り付く
 
人生はいろいろだ。
そして人生はエロエロだ。
男女のことなど、大昔から繰り返されてきたことに
別に新しいものなどないし
殆どのことは想定内なのだけれど
それでも、あっけらかんと話そうとする貴女に
僕も思わずきつい目線を投げかけてしまう
だが、それでも僕の本心を言えば、僕のほうに向いてほしかった。
貴女が誰に貴女の身体を預けようが、それは僕の知るべきところではないし
貴女の自由を僕は抑える気などないし、
またそのようなことなど出来っこないことも分かっている
 
だが、それでもなお、言わせてもらうなら
僕が貴女の相手であってほしかった
もっと言えば、僕が貴女を抱きたかった
 
そんな資格はないし、僕はあなたに男性として見られているわけではない
でも、僕にもオトコとしての下心はあって
極上の女である貴女を抱きたいと思うのは
これは普通のことだろう
 
そして僕はあなたに惚れていて
と言っても恋多き男の一瞬の気まぐれに過ぎないかもしれないが
貴女の身体を自分のものにしたい欲情もないとはいいきれない
 
それは何をどう繕っても繕いきれない僕そのものであり
もはや開き直って自分を慰めるしかないわけだ
 
惚れたというのがすなわち相手の身体を求めること
それは若い男性なら、そういう短絡があってもいいとは思う
だが、人生も残すところ三分の一という
まもなく老いらくが始まる世代の僕では
自分の限界も知り
そして何より想いの大きさが大事になってくるといえば
それは美しすぎる表現だろうか。
 
もはやセックスは想いを果たした目的ではなく
生きるうえで何より大事なのはその想いを持ち続けること
歳を重ねるというのは、そういうことを事実として
自分の中に組み立てるということ
それがよく言えば経験を積む
悪く言えば老いるということなのだろう
 
屈託なく話しているようで
ふっと、涙を見せ
あるいは感情の高まりを見せる貴女の
 
その悩むことの要因を作った男に僕は嫉妬する
決して男前ではなく
決して頭がよさそうでもなく
無邪気で
無遠慮で
いつも笑顔を振りまいているあいつに
勝てっこなどないけど
 
僕はそれでも貴女を愛している
 
 
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母と船と新幹線

2018年01月27日 22時08分01秒 | 詩・散文
春の夕暮れ、山陽電車の別府駅で降りた我が一家は、高架の上でさらに構内踏切のある不思議な駅から沿岸工業地帯に林立する無数の煙突からの激しいばい煙を眺めながら、なんとも遠くへ来てしまったものだと、それぞれが感じていた。
 
いや、その中にいた母こそ、十二歳の私を筆頭にした六人の子供に、いつ倒れるかわからない、酒で身体を壊した父という組み合わせで、本来は自分が生活の拠点にしていた神戸や大阪から遠く離れてしまったこともあわせ、最も大きな不安を持っていたはずだ。
 
その時、宙を切り裂く轟音が聞こえ、強烈なヘッドライトが迫ってきた。
 
山陽新幹線の、白い車体は十六両もの車両を連結しながら、八つのパンタグラフから派手にスパークを飛ばして目の前を通過していった。
それは、これまで身近だった南海電車や大阪市営地下鉄、阪神電車・・それに今しがた長時間ゆられてきた山陽電車などの縁の深かった鉄道と明らかに違う異世界の生き物のように見えたかもしれない。
 
乗ってきた電車が行ってしまった別府駅のプラットフォームに佇み、呆然と新幹線を見送る母。
春の夕暮れの切ない思い出でもある。
たぶん、それまで母は新幹線には乗ったことがなかったはずだ。
 
ただ、父がそれからわずか半年後に亡くなり、母は自分で子供六人を育てる決心をするのだが、それは貧しくても気負う必要のない世界とて、以後はしばらく母にとって平穏な日々が続くことになる。
 
乗り物が好きな人で、観光バスに乗ることも喜んだが、一番、心底から好きだったのは船だった。
母の実父が船乗りで、その頃、母は満州の長春に住んでいたらしく、数か月に一度、きれいな白い制服を着て帰ってくる父親が自慢で、その父親、私にとっての実の祖父は大変な美男子で乗っていた船は大きな白い船だったそうだ。
 
これまでは常に、少し歩くだけで船が見えるところで生活していた母にとって、加古川は一般人が立ち入れる浜や岸壁が遠く、その港に出ても工業地帯のための貨物船ばかりで華やかな客船は見られない。
 
父が亡くなったのが新幹線や山陽本線に面した病院だった。
そこから、母は泣くような思いでスパークを上げて突っ走る新幹線の列車を眺めたことだろう。
 
住んでいたのが社宅であり、一家全員で暮らすために、加古川市内でもずっと北のほうの住宅を借りた。
海から離れ、内陸部で生活する羽目になり、自宅そばの棚田から遠くを見れば、海はいつもきらきら光って見えるが船は芥子粒ほどにしか見えず、母から船が遠ざかる。
かわりに新幹線の白い車体が時折用事の合間に見られるようになる。
 
山陽本線の快速電車で神戸へ向かう際、魚住辺りで山陽新幹線が走っているのを見ると、「あれに乗ってどこかに行きたいな」と独り言を言う。
実際に何度か新幹線には乗車しているはずだ・・それが楽しい思い出かどうかは別にして。
 
二十八年前、脳内出血の大病を患い、あと何時間生きられるかと医師に言われたが、奇跡的に三か月で退院し勤めも再開した。
この頃、まだ健在だった父方の祖母から会津の親戚宅を訪問する旅行を提案され、しかし、時期は五月の連休・・私がそのためにやっととったチケットは「急行きたぐに」の寝台車で新津へ出て、磐越西線「急行あがの」で会津へ向かうというものだった。
 
「あんた、自分が好きな列車を選んだやろ」
と見透かされはしたが、それはそれなりに旅を楽しんだ様子だった。
今思えば嘗ての「つばめ」「はと」にも何度も乗車したという祖母と、あまり旅慣れしない母があの五八三系電車の三段寝台でどのように過ごしたか・・考えるだけでも少しおかしい。
もちろん、帰路には東京から新幹線に乗っているはずだし、もしかしたら私がまだ一度も乗車したことのない東北新幹線にも乗ったのかもしれない。
 
その旅行はことのほか楽しかったらしく、つい最近までもその話をしていたほどだった。
祖母と母は妙に気が合うようで、自分の実母より義母のほうを本当の母親と思うとよく言っていた。
 
祖母が亡くなったのは神戸の震災の年だった。
三月、未だJR線も灘と住吉の間で途切れていて、母と妻を連れての大阪行きは、私には厳しい案内となった。
まだ肌寒い早春の、電車・バス・電車と降りては並ぶ乗り継ぎで、やっと着いた大阪ミナミの葬祭場の一室で寝ている祖母の小さな体に母はしがみついて泣いた。
 
葬祭場は狭隘で宿泊できず、大阪市内では震災特需のおかげで宿をとることができず、やむなく南海電車の堺駅前のビジネスホテルを使ったが、その南海電車は母にとって苦しい思い出でしかなかった泉大津へ向かう電車だ。
夜の新今宮駅、緑ではなくなった南海電車を不思議そうに見ながら、それでも和歌山市行の急行に乗るとさほど変化のない車内に「懐かしいね」と言っていた。
 
祖母の葬式の帰路、母を連れての過酷な阪神間の基本ルートは難しいと判断した私は、大阪天保山から神戸中突堤への臨時航路を使った。
天保山は私たち一家が六年ほど住んだ思い出の町で、その頃は我が家が経済的にも豊かで、父が元気だった。
 
最初は船のターミナル脇の小さな二階建てのアパート、そして文化住宅、さらに当時は珍しかったエアコン完備のマンションへと移っていった。
その天保山を懐かしく見ながら、そこから船に乗った。
いつもは神戸港の遊覧に使っていそうな船だったが、快適に、あっという間に神戸港へ着いた。
 
母が、いつも船を見ていた天保山から、その船に乗れたのは後にも先にもこの時だけではなかっただろうか。
 
脳の病気をすると腎機能なども衰えることが多いといわれる。
その通りに母は腎不全を患い、やがて透析患者となった。
すでに加古川の家を出て神戸に住んで長く、しかも一昼夜勤務の私には、時折ある病院からの呼び出しに付き合うのは苦痛でしかなく、医師の勧めもあり、私の現住地の近くで母に生活してもらうことになった。
 
その場所は緑に囲まれたニュータウンで、部屋の真横に大きな桜の木があり、「なんてきれいなところ」と喜んでくれたが、海は母の足には遠い。
透析の病院も転院となり、最初はそこへ送迎車で通っていたが、やがて病状の悪化とともに、入退院を繰り返すことになる。
その病院というのが私の仕事場のすぐ近く、丘に広がるニュータウンの中にあり、デイルームからは明石海峡がよく見えた。
母が入院するたびに、私は病院の夕食時刻には食事介護に行き、母をデイルームに連れて行って食事をしてもらうようになった。
 
ちょうどその時刻は天津への国際航路や、新居浜や高松へのフェリーが通過する頃で、母と気がすむまで船を眺めたものだ。
思えば、母が好きな船をゆっくりと眺めることができたのはこの時だけだったのかもしれない。
 
別の拠点病院へ検査のために行くとき、介護タクシーが明石川を渡るときだ。
ちょうどすぐ南の新幹線橋梁をN七〇〇の真っ白な車体が流れていく。
速度があまり高くなく、たぶん西明石に停車する「ひかり」だろうか。
白く長い車体を見て母が感嘆の声を上げた。
「きれいな電車!あれに乗りたい!」
 
だがすでにその時は歩くのはおろか、身体を支えるのも困難になっていた。
出来れば、母と一緒に新幹線か船の旅がしたかった。
 
そういえば、父も大変、乗り物が好きで、母いわく「三ノ宮から大阪まで、汽車の時間調べてそれに乗りよんねん。乗ったら駅弁、恥ずかしかったわ」といったことがあった。
その頃は長距離の客車列車が走っていて、父はその時刻を知っていたということなのだろう。
それに、我が家が神戸駅の近くだった時、「今夜は駅弁にしよう」と父が言って、駅へ行って駅弁を買ってきたことが何度もあった。
父と天王寺近くを歩いていた時、関西本線の蒸気機関車牽引列車が発車するところに出くわし、しばらく親子で見つめていたことだ。
私の鉄道好きは突然変異でもなんでもなく、両親から引き継いだものかもしれない。
つい数日前、母が最後は一年三ケ月の入院の末に亡くなった。
最後の三か月ほどは病室から出ることもできず、好きな船を見ることもかなわなかった。
子供六人を生み、父亡き後、女手一つで必死に私たちを育ててくれた母。
だが、乗り物を見てそれに喜ぶ少女の気持ちのままの、純粋な女性だったのだと、いま改めて感じているところだ。
 
母と父はあちらの世界で今頃、船か汽車、あるいは新幹線の旅をしているところだろうか。
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可部線太田川橋梁

2017年06月11日 14時18分28秒 | 詩・散文

空は青く、五月の風が囁く

鶯が鳴き、雲雀が囀る

川の流れる音、遠くで気動車の走る音

ややあって、すぐ近くの鉄橋を走る電車の音がする

 

電車が遠くへ去り

また川音と鳥の囀りだけの静寂

小さな風の音のようなものが聞こえる

すうぅ、すうぅ、すうぅ

 

河原で僕の隣で横になっているあなたの寝息だ

 

すうぅ、すうぅ、すうぅ

疲れているのだろうな

 

「どっか、静かなところで横になりたいんよ」

あなたのリクエストに応じて

僕が広島駅からわざわざあなたを連れてきたのが

この場所だ

 

可部線の電車が鉄橋で川を渡るこの場所

鉄道ファンである僕が何度も通って

古めかしい電車をカメラで追ったこの場所だ

 

電車は新しくなり、鉄道ファンの姿が消えたこの河原で

僕は今、あなたと体を横たえて午後のひと時を過ごしている

 

深夜勤だったと言った

それが明け方のお産で病院を出るのが遅くなり

寝る暇なく待ち合わせの広島駅に現れたあなたの目は

赤く充血していた

 

「映画でも行こうか」

「だめ、寝てまうわ」

「散歩・・」

「歩けんほどえらいんじゃ」

「じゃ、どうする・・」

「静かな気持ちのええとこで寝る・・」

「寝る・・」

「どっか、静かなところで横になりたいんよ」

それならばと可部線の電車に乗り、ここにやってきたというわけだ

 

どれほど経ったろうか

可部線電車が鉄橋を渡る音で気がついた

僕も寝入ってしまっていたようだ

 

あなたを見るとまだ夢の中にいるようで

無防備な寝顔が可愛い

 

あなたの顔に僕は自分の顔を近づける

白い肌、整った目鼻、細い髪

薄い唇は清楚で

上唇には細い傷跡のようなものがある

 

もっとあなたの顔に近づこう・・

「キスしたらあかんよ」

いきなり出た言葉に僕は驚くが

あなたは目を開けているとは思えず

だが、口元が笑っている

 

またそのまま静寂の時間

遠くの芸備線気動車列車の音が

二つの大河が合わさる山の中にこだまする

 

それでも、目が覚めてしまった僕は

あなたの方に体をむけ

寝ているであろうあなたを見ている

小さな胸の丘が白いブラウスに包まれ

ひとつ余分にはずしたボタンが白い肌を見せ付ける

短いスカートから無防備に伸びた白い足が寛ぐ

 

「きれいだ」

思わずつぶやく

またいきなりあなたの唇が動く

「襲わんといてね」

フフっと笑ったあなたは、ゆっくりと体を起こす

「ほんまにのう、男っちゅうもんは・・」

あなたは笑いながら僕のほうを見る

「いや、そんなつもりやない・・」

「うそ、今でもウチがじっとしとったら、いきなり乗っかってきたでしょ」

「いやいや・・」

「ま・・ええわ・・」

そういってあなたは立ち上がり、スカートの尻を払う

鉄橋を四角い電車が1両で渡っていく

「ええとこ、知っとるんやね・・おかげでよう寝れたわ」

あなたの目の充血は取れ、いつもの茶色い瞳が戻ってきた

 

雲雀が囀る

鶯が鳴く

遠くで芸備線気動車列車のエンジンとレールジョイントの音

川の流れの水音

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板宿、心の疼き

2016年11月13日 10時07分10秒 | 詩・散文

昭和51年の6月頃か・・

僕は、鉄道の実習を午前で終えた土曜日、定時制高校は土曜は休みなので加古川市内の自宅で週末を過ごすために戻るのだが、その日、国鉄ではなく山陽電車を使った。

当時は電鉄高砂駅から北条街道を走る路線バスがあって、それに乗れば自宅近くのバス停に到着したからだ。

(このバス路線は現在は本数を激減して、高砂からはわずかに一日一本だけの運行となっている)

ただ、当時は板宿駅には山陽電車の特急は停車せず、各駅停車に乗って須磨で特急に乗り換える必要があった。

 

未だ週休二日制など知らぬ時代、土曜日の昼下がりは開放感あふれる学生やサラ―リーマンで賑わうのだが、板宿は駅近くに高等学校が多く、通学の学生たちであふれていて。商店街入り口の幅の広い踏切は、ここから北へ数十メートルだけ自動車道路も兼ねていて、いつも人や車で賑わう・・というより混雑していた。

ホーム端で駅員がメガホンを持ち、遮断機が下りても渡ろうとする人や車をどやしつけているのも日常の光景だ。

それでも、降りかけた幅広の遮断機をくぐって特に高校生たちは我勝ちに踏切を渡っていく。

この路線には山陽電車だけではなく、阪急や阪神の電車も頻繁に乗り入れるのだが、運転士はそれぞれの所属会社のまま乗り入れてきて、板宿の喧騒に派手にタイフォン(電車の警笛)を鳴らす。

踏切を渡りかけている人があっても、電車は急制動などかけず、普通の減速の仕方でホームに入るが、山陽特急だけはこの駅が通過とあって、ゆっくりながらも止まることなく駅に入り込んでくる。

電車の本数は日中の片道方向で毎時14本という多さで、これが上下それぞれに来るのだから単純に1時間当たりの本数は28本、2分に一回は電車が来る計算になる。

つまり、閉塞区間に電車が入ることを考えると、日中ですらここの踏切は、上がっているより下がって閉じられている時間のほうが長くなる・・そんなところだった。

 

板宿駅は北側(上り線)には立派な母屋があり、定期券の発売所や電鉄系列の「山陽そば」の店などもあったが、南側(下り線)は掘っ建て小屋一つ、自動改札機が3台だけの質素な駅舎だった。

僕はその駅舎を目指して南から歩いている。

ちょうどその時、上りの、ブルーとクリームに塗られたツートンカラーの特急電車が通過し終え踏切が開いた。

 

どっとこちらへ向かってくる買い物客や学生、路線バスや一般のクルマ・・

そしてその中に、紛れもない、貴女を見たのだ。

グレーのスカート、白いブラウス、当時流行の狼カットにした髪、色白で可愛い貴女を見つけたのだ。

加古川の中学校であなたに惹かれてから、ずっと会うことを念願していた。

その貴女が突然、目の前に現れた。

 

数人の友達と一緒に、楽しそうに話をしながら貴女が歩いてくる。

貴女の方でも僕に気が付いたようで、一瞬、僕と貴女は立ち止まって、お互いを見つめあった。

僕の顔に血が上る。

自分の頬が紅潮していくのがわかる。

貴女も頬を赤らめ、そして、次の瞬間、友達と駅の改札へ吸い込まれていく。

 

会いたい人に会えた。

今の僕なら、追いかけていろいろ話をして、一気に和気藹々と持って行けただろう・・

だが、当時の僕にはそれができなかった。

やってきた山陽電車2010号のステンレスカーの、貴女は2両目に、僕は3両目に乗車してしまう。

貴女は当時は四駅先の須磨まで山陽電車に乗り、須磨から国鉄の快速に乗り換えて自宅近くの宝殿まで帰っていたはずだ。

早く隣の車両に行けば、貴女と話ができる・・・

そう思ったのはもちろんだが、当時の電車の多くがそうだった・・幅広の、ドアのない貫通路が恨めしく思うほどに僕は動けなかった。

東須磨、月見山、須磨寺と過ぎ、特急に乗り換えるために降りた須磨の駅のホームでもう一度、貴女とすれ違う、。

けれど、お互い俯いたままだ。

声をかけるなど、とても出来っこない。

僕らは成す術もなくすれ違って、そして貴女は盛り土の上にある電鉄須磨駅の、下へ降りる階段を下りて行った。

 

貴女と初めて出会ったのは、僕ら家族が父親を失い、当時の加古川市役所の方々の好意で加古川市の山の手の方向にある市営住宅に入居した時だ。

二軒隣の住人が貴女方家族だった。

何度か貴女が歩く姿、自転車で走る姿を見て、なんと可愛い子がいるものだと・・惹かれたのだ。

いちど、僕はその市営住宅の裏手の擁壁の上から自転車ごと転落、2メートルほど下の道路でしたたかに額を打って、かなりの出血があった。

ちょうど、庭で花壇の手入れをしていた貴女のお父様が、それを見て、すぐさま自家用車を出してくれ、知り合いのいるという病院へ連れて行ってくれたことがあった。

おかげで事なきを得、貴女のご両親とは打ち解けて話ができるようになったのだけれど、貴女とはまともに話などできなかった。

(余談だがこの時の傷跡は今も僕の額にわずかに残っている)

やがて貴女方ご家族は転居され、自転車で行かねばならない4キロほど先の、僕も通う生徒数1500人というマンモス中学校近くの戸建てに移った。

もう、貴女に会えなくなったと思った時、中学三年最初のクラス替えで貴女が同じクラスになった。

しかも、最初の教室での席はあなたが僕の隣に並んでくれた。

嬉しかったが、それを顔に出すこともできず、貴女に話しかけることもできず、貴重な一年は過ぎていく

 

不思議に、当時の僕には何人かのガールフレンドがあり、彼女たちとはずいぶん馬鹿げた遊びもできたのだけれど、貴女は僕の中では別格の存在だった。

趣味になりかけていたカメラで、貴女の姿を撮影したこともあったけれど、それはいつもあなたの横にいる、僕にとって気安い友達に声をかけて撮影出来たものばかりで、なぜかあなたには声をかけられない。

それでも、中学時代の僕のアルバムには何枚かのあなたの写真がある。

その写真の貴女は周囲の友達の様に笑ってはおらず、何かきつい目をして僕を睨んでいるようだ。

 

その頃の僕にはガールフレンドもいた・・当時の僕は「ウブ」というよりは、どちらかといえば女の子の友達が多く、しかも、転校前の学校でクラスメイトだった二人の女の子と文通もしていて、そのうちの一人とは結構、頻繁に会ってもいた。

だのに、貴女にはこの体たらくなのだ。

 

中学を卒業し、男ばかりの国鉄の寄宿舎に入り、なんとも味気ないことになったのだけれど、文通は続いていて、その相手と山陽電車で一緒に帰ったこともあった。

でも、貴女にだけ声がかけられない状況が、やがて、文通相手どころか、自分の従妹などにも声がかけられない、深刻な女性恐怖症の状態になってしまう。

周囲はこれまで経験したことのない男ばかりの世界になってしまっていて、好きな鉄道車両は常に身近にあっても、女っ気のない味気無さは変わらない。

いや、味気ないどころか、女性に声をかけられない深刻な状況はこの後、文通相手の女の子に振られ余計に度を増す。

(この女性恐怖症が完治?したのは二十三歳のころ、国鉄部内の配置転換で鷹取に転勤し、悪友たちと三宮で遊ぶようになってからだ)

 

国鉄の寄宿舎にいる間、土曜日の帰宅はほとんど山陽電車を使ったのは、やはり貴女に会いたい一心からだったと今ではいえるだろう。

だが、お互いが高校生の年頃の間は、時に貴女に出会えることはあっても、やがて、その時を過ぎ、以来全く貴女の姿を見ることはなくなった。

よく遊んだ共通の友達からは貴女の噂は聞いたけれど、それも、僕が国鉄にいる間までのことだ。

国鉄を辞め、やがて神戸での写真の仕事に入った僕は、また板宿に住み着いたけれど、もちろんそこに貴女の姿はなく、それでも、あのけたたましい踏切の風情を見るたびに、グレーのスカートの貴女が友達と談笑しながら歩いてくる姿を思い浮かべたものだ。

 

板宿もまた阪神淡路大震災で被災し、山陽電鉄では地上部の駅を建設中の地下駅に切り替え、地上線は放棄することになった。

電車が地下に潜った板宿の風景は変貌し、もはやここを貴女が歩いてくる姿を思い浮かべるのは難しくなった。

そして僕はその街で最初の独立に失敗したのだがそれはまた後の話だ。

 

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モノクロ暗室

2016年11月05日 22時47分36秒 | 詩・散文

セーフティライトの僅かなオレンジ色の明かり
現像液や酢酸、定着液の匂いが漂う暗室
棚の上に置いたラジオから好きな歌が流れる

カチッ、スイッチの音が暗闇に沁みる
エンラージャ―の手元にそこだけ光が差し
かすかに浮かび上がる君のシルエット
「イチ、ニ、サン、シ、ゴ・・・・ジュウ、ジュウイチ」
君が呟くように秒数を数え、カチッ、スイッチが切れる
イーゼルを外す音がして
広がっていたペーパーをセーフティライトすぐ下の現像液に漬す
竹ピンセットで紙の淵の持つ部分を変えながら、液体の中の印画紙を揺らす
やがてぼんやりと、そして次第にはっきりと黒と白から成す画像が浮かび上がる
「もう少し、もう少し黒が締まって現像の進行が止まるまで」
今にもペーパーを引き上げようとする君に慌てないようにと僕が呟く
一心にバットの中の印画紙を振る君の
その胸のあたりの柔らかそうなシルエット
「はい、もうすこしですね・・あ・・なるほど、黒が締まってきました」
「暗室の中で見る黒は実際よりは薄く感じるから、ちょっと慣れが必要なんや」
「はい、もう少しですね」
液体の中で紙を揺らせ続ける君の竹ピンセット
「もう、ここまで来たら揺らさなくても大丈夫・・さぁ、そろそろいいよ」
「はい」
「一気に停止液にね、ムラができないように」
「はい」
一瞬、揺らされた酢酸の表面から甘酸っぱい香りが漂う
「よし、定着!そろっと、でも一気に・・」
「はい」
定着液の普段の生活ではありえないあの香りが鼻を衝く
「しっかり浸したかい?」
「はい」
「印画紙はすべて箱の中にしまったね?」
「はい」
「じゃ、明かりをつけるよ」
いきなりついた白熱灯の明かり、そして定着液に浸された四つ切のモノクロ写真
「どうですか?」
心配そうに君が訊ねてくる
ストレートの黒髪、うすく広がる汗
フジフィルムのエプロンを付けたその下にはTシャツに包まれた柔らかそうな胸
「うん、いい写真やね、ただもう少し黒が締まってほしいなぁ‥」
「どうすればいいんでしょう?」
「露光時間ではなく、絞りを半分あけよう」
「はい」
またセーフティライトの明かりだけになった暗室で、作業が再開される
現像液、停止液、定着液の香りが広がる
君が一心にバットに向かって竹ピンセットを動かすシルエット・・
こうして僕は君が二十枚ほどの写真を焼くのを横で指導していた。
そして君の一生懸命な柔らかさを目で楽しんでいた
「ありがとうございました」
白熱灯を付けた暗室で君は汗をにじませて笑顔を見せる
「こちらこそ」
そういいながら僕は明かりを消して
またセーフティライトのかすかなオレンジのなか
肩を引き寄せ、口づけを交わす
暗室の壁に君を押し付け、僕は君の身体から
君の甘い養分を吸い取ることに余念がなく

写真薬品の匂いに汗や体液の匂いが混ざる
かすかな君の喘ぎ声と無口な自分自身
暗闇に支配された僅かなオレンジ色は
君の身体の柔らかい部分を浮かび上がらせながら
そして君の長い黒髪が暗室の壁に張り付いていく
僕にはこのひと時が永遠であればと、そう願っているのだが

先ほどデジタルカメラで撮影した画像を
パソコンの中のPhotoshopで修正していく
横に置いたスピーカーからはあの時と同じ好きな歌が流れる
それはパソコンの別窓で出しているデジタル音源
ふっと思い出す、青春のあやふやな気持ち
ふっと蘇る青春の、つかみ損ねた大切なもの・・・
キーボード横のグラスには濃い水割り

 

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