島田和夫は仕事を終えた身体を引きずって日の暮れた三宮の町を歩いていた。
梅雨が明けたばかりのこの時期、昼間の灼熱の余韻がまだ都会のコンクリートには残り、けだるい不快感を醸し出していたし、商店などの明かりが消え、シャッターの下りた店先では、少年達が所構わずスケートボードを滑らせていて、黄色い歓声がアーケードにこだましていた。
疲れた身体を引きずって、郊外にある彼のマンションに帰れば、妻と高校生になったばかりの一人娘があった。
彼は大手写真問屋の営業所長だった。
この数年のデジタル化の嵐は彼の仕事に激変をもたらせた。
デジタルカメラの台頭は読めていた。
けれども、恐ろしいのがあの、カメラつき携帯電話だった。
カメラを使い、写真を写し、それを現像、プリントし、アルバムに貼ってもらえば、写真業界は安泰だったはずだ。
デジタルカメラになっても、フィルムの代わりに記録メディアは販売できるし、フィルムが不要になるということはカメラを使う人がより気軽にシャッターを押すということにつながり、それはプリント枚数の増加という形で業界に寄与するはずだった。
しかも、フィルムカメラからデジタルカメラへの買換え需要は大きな市場を形成し、彼の仕事の上でもプラスになるはずだった。
けれども、まさかのカメラつき携帯電話・・
これはデジタルカメラの普及を遅らせるばかりか、写真業界の重要顧客だった女子高生や女子大生からレンズつきフィルムの必要性をなくさせ、更にプリントなどしなくても、個別にメールで送るだけで充分楽しむことが出来る・・
恐ろしい商品は写真業界の全く知らないところで開発され、あっという間に消費者の手元に広がっていった。
大きな嵐を業界外部から受けた写真業界は喘いでいた。
和夫の取引先でも中堅どころの地元チェーン、甲南フォートが倒産し、彼の営業所は大きな影響を受けてしまった。
甲南フォートは神戸市内東部に10ほどの店舗を有していた。
最盛期にはどの店も客で溢れ、忙しさで手が足らない従業員達の鼻息は荒く、それでも、先代社長のしっかりとした方針の下、頻繁にセールを開催しては、さらに顧客を呼び込んでいた。
先代社長の突然の死は、求心力を失うかに見えた従業員達の一糸乱れぬ団結を呼び、代表を引き継いだ先代の息子によって一時は先代存命の時よりも店舗を増やし、売上を大幅にアップさせていた。
和夫はその様子を、危なげに見ていたことは確かだ。
先代社長は、息を抜くところを知っていた。
セールにも遊びの気持ちが必ず入っていた。
お客と女性アルバイトにじゃんけんをさせて、お客が勝てば半額などという冗談半分のセールなどは地域の話題をさらった。
写真の現像を出してくれたお客に、無償でインスタントラーメンを配ったり、年配のお客のところへは配達ルートを作ったりもしていた。
先代社長は戦力という言葉を使うことはなかった。
「お客さんが写真で使おうとしているお金を全部うちが貰う。それには、お客さんの心の中に飛び込むような仕事をしよう」
これが先代社長の口癖だった。
けれども、引き継いだ一人息子は徹頭徹尾、責めの経営を行なった。
営業戦略会議と称し、各店舗の責任者を集め、常に上昇思考で責任者達が自分を管理するように仕向けた。
精神的に社員を追い詰めることで営業成績を上げ、更には極端な能力給の実施で彼等同士がお互いをライバルとして認識し、他の者よりも一歩抜きん出るため、様々な店舗内での独自性を認めていった。
最初はそれでよかったのだ。
けれども、元々、地元住民との良い関係が、やんわりと売上に供するような業態である。
先鋭化した店舗責任者達は顧客に少しでも多くのものを売りつけようと、策に走ったのだ。
策に走るほどに、顧客と店スタッフとの冗談のような会話は影をひそめ、売らんかなのムードが各店舗に蔓延すると、顧客は少しずつ離れていった。
ちょうどその頃、大手全国チェーンの店が甲南フォートの地盤に進出してきた。
価格競争になれていない甲南フォートは、低価格競争への戦略を誤り、シェアだけを追っていた。
この頃から、従業員の給料もままならなくなっていた。
そして訪れたカメラつき携帯電話の時代・・女子大生が多い地域の店の営業成績が一気に低下したことから、会社全体に沈滞ムードが漂い始め、それから1年で倒産してしまった。
2代目社長は、会社の整理を決めたあと、心労から血を吐いて亡くなってしまった。
和夫は本社への報告書に今月もマイナスで書き込むしかない不甲斐なさを感じていた。
甲南フォートが廃業してからというもの、小さな店の廃業が続き、到底決められた予算など達成できるはずのない状況だったからだ・・
最も、和夫の営業所だけではなかった。
今や会社は青息吐息で、まだ、和夫の営業所よりも酷い所も幾つもあったのだ。
三宮の大型量販店の前を通り、彼は地下鉄の駅へ向かう。
今なら、まだ地下鉄から最終バスに接続できる時間帯だ・・
昨今の会社の不振ぶりに、タクシーを会社の経費で使うことも憚られ、彼の自前でタクシー代を出すにしても、彼の給料も大きく目減りをしている状態では、それもままならなかった。
量販店の建物は、すでに営業を終えた時間でひっそりとしていたけれども、派手な看板やネオンサイン、大きな垂れ幕・・その中にある「デジカメ買うならオーヤマ電子!」とのキャッチコピーがそこら中に溢れ出していた。
「こいつらのおかげで・・」
和夫は思わず恨み節を声に出したが、必ずしも、それだけではないのだと、自分に言い聞かせ、ビルの脇から地下鉄への階段を降りていった。
「島田さん!島田所長さん!」
女性の声が聞こえた。
振り向くとまだ少女といっても良いくらいの可愛い女性が立っていた。
「島田所長さん!お久しぶりです!」
「君は・・たしか・・」
「甲南フォート、東灘店の山名・・山名由紀子です!覚えておられませんか?」
思い出した。
甲南フォートでも1,2を争う店舗で何年かアルバイトを続けていた女性だった。
背が低く、童顔で、若く見られるけれど、実際はかなりの年だという噂を聞いたことがある。
由紀子は人懐こい性格で顧客から愛されていた。
和夫が時折、店を覗いた時でも、あどけない、裏表のない印象的な笑顔を見せる女性だった。
「思い出したよ。ユキちゃんって皆が言ってたよね・・で・・今、どうしているの?」
「覚えていてくださったのですか!嬉しいなあ!あたし、今、三宮のカメラ店にいるんです!」
由紀子は飛び上がりそうになりながら、嬉しくて仕方がないという表情をして見せた。
「三宮の・・何処のカメラ屋さん?」
「オダカメラです!」
地元の大手といわれるカメラ店だった。
和夫の取引先ではなかった。
それどころか、ライバル社の重要顧客だった。
「大きなところにいけたね!良かったじゃないか!」
由紀子が甲南フォート倒産後に、同じ業界の大手に勤めたことを、和夫は心底喜んだのだ。
「はい!」
由紀子はニコニコと笑っている。
「で・・今はアルバイト?それとも契約社員?」
「いえ!正社員なんです!」
「おお!それは本当に良かったなあ・・あそこは、今でも正社員を雇えるんだねえ・・」
「みんな正社員ですよ。女の子もみんなです・・」
ほう・・和夫は考え込んでしまった。
オダカメラも一時は経営危機が伝えられ、店舗の半分以上を閉めていたのだ。
「まえ・・少し前だけど、オダカメラさん、何店舗か閉めたことがあったけれどねえ・・」
「あ・・それは、当時の社長の方針で、危なくなる前に片付けようってことだったらしいですよ。そのときに、パートさんには辞めて貰って、正社員はあちらこちらの店へ振り分けたんですって・・」
「なるほどなあ・・オダさんの社長さんは賢かったわけだね・・」
「賢いかどうか知りませんけど・・でもとってもいい人ですよ」
ぺろっと舌を出しながら彼女はそう答えた。
和夫はそんな由紀子を可愛いと思った。
そういえば、甲南フォートで見るときには何時もエプロンをしていたから分からなかったけれど、気軽そうなTシャツと、身体にフィットするジーパンに身を包んだ彼女の姿は驚くほど、プロポーションが良かった。
「そうだ!ここで折角お会いしたんですから、ちょっと相談事を聞いて欲しいのですけど・・」
笑顔を少し硬くして由紀子は言った。
懇願するよう仕草もして見せた。
「なんだい?僕が聞いて意味があるようなことなら、何でもいいよ」
「嬉しい!」彼女はそう言ったかと思うと和夫の手を引いて歩き始めた。
「何処へ行くの?」
「ここでは申し訳ないですから・・そこの喫茶店でも・・いいですか?」
「ああ・・いいよ・・」
和夫には高校生の娘を思い浮かべていた。
まるで娘と話をしているような気分になったけれど、彼を誘う由紀子の全身からは、大人の女の香りがするような気もしていた。
「で・・相談って・・なんだい?」
深夜まで開いている喫茶店のゆったりとしたソファにもたれて、和夫は訊いた。
「いまの・・お店・・とても居心地がいいんですね」
由紀子はソファにもたれはしないで、背筋を伸ばして腰掛けていた。
「いいことじゃないか・・」
「そうなんです・・でも、あたし・・本当に申し訳ないのですけれど・・」
「だから何なんだい?」
アイスコーヒーが運ばれてきた。
和夫はシロップもミルクも入れずに、ストローも使わない。
由紀子はシロップをたっぷりと、ミルクも入れて、ストローでかき回している。
「ブラックがお好きなんですか?」
「ああ・・コーヒーに砂糖を入れると後味が悪くなるからね」
「島田さんて、やっぱり、大人ですよね」
「君も大人じゃないか・・」
由紀子はくすりと笑って「あたしが?大人?それは違いますよ・・本当に自分でも子供だって思ってしまうのですもの・・」と言う。
「で・・さっきの続きだ・・」
「あ・・すみません。本当に今の会社の社長さんや、専務さんにはお世話になっているし、甲南フォートに居た人たちにも、今みたいな立派なところに勤めているあたしが、こんなことを言えば叱られるとは思うのですけれど・・」
「だから、どうしたんだい?」
「あたし、撮影の仕事がしたいのです」
「撮影?」
「甲南フォートでは証明写真もありましたし、たまに、奥のスタジオで記念写真も撮影していましたよね。でも、今のお店には撮影の仕事が何もないのですよ・・」
和夫は由紀子が俯きながら言うのをじっと見ていた。
「撮影か・・カメラマンになりたいわけだね・・」
「そうなんです・・それで、誰かに相談しようって、ずっと思いつめていたら、さっき、島田さんに出会えたんですよ」
由紀子は俯いたまま黙ってしまった。
和夫も彼女を眺めながら、考えようとしていた。
考えなくても答えはすぐに出るのだ。
彼が本社に居た頃の取引先だった皐月スタジオに聞いてみれば、大きなスタジオだから、どこかのスタジオで一人や二人助手になる子を入れることくらい出来そうな気はしていた。
俯いた由紀子はまた、彼女が気がついていない香りを発散させているようだった。
「ユキちゃん、失礼なことを訊くけれど、今、幾つになったのかな?」
由紀子は顔を上げて、島田の顔をまっすぐに見た。
美しい、大きな瞳が少し輝いているように見える。
「24になりました」
「撮影はどの程度出来るのかな?」
「うーーん、ちょっとです。例えば・・」
「七五三とかくらいは・・」
「あの、甲南フォートでは店長について、撮影のときは助手をしていましたから・・」
「助手は出来るのかい?」
「少しなら・・でも、本当の助手がどんなものかはよく知らないのですけれど・・」
「わかったよ。でも、オダカメラはいつ退職するのかな?」
「それは・・撮影の仕事があって、それが決まってからでは遅いですか?」
遅くなんかはない・・そう言おうと思った。
ライバル社の取引先であるオダカメラから優秀な店員が一人いなくなっても、彼には何の義理もなかった。
むしろ、いい気味だと思うがそれは口に出せなかった。
「ユキちゃんにお願いがあるんだ・・」
「お願いですか?」
由紀子は怪訝な顔をした。
「今のユキちゃんの相談を僕は受けたよ。それでね・・その相談を他の人にはしないで欲しいと言うことと、僕が相談に乗っていると言うことは内緒にしていて欲しいんだ。もちろん、決まるまでの間だけね・・」
由紀子の表情が一気に明るくなった。
軽く頬に赤味もさしている。
「それから・・一つ、質問だけど、自宅から通えなければダメかな?」
「いいえ・・あたしは一人暮らしですし・・両親は四国ですし・・」
「四国?」
和夫が驚いた。
「四国から出てきて、甲南フォートに居たの?」
「いえ・・就職をしたんですけれど、うまく行かなくて・・すぐに辞めちゃったんですよ・・で・・アルバイト募集中の甲南フォートに・・」
「何年いたの?」
「4年近くです・・短大出てから、入った会社を3ヶ月で辞めましたから・・」
ふうん・・そう頷いて、彼はそれ以上の事は訊かないようにした。
「じゃあ、東京でもいいわけだ・・」
「はい!東京でも札幌でも構わないです!」
由紀子はきれいな笑顔を見せた。
翌日、和夫は早速、彼が東京の本社に居たときに取引のあった写真スタジオ「皐月スタジオ」の旧知の仲である専務に電話を入れた。
皐月スタジオは、東京オリンピックの時に東京で日本最初の高級シティホテルが出来た時から、そのホテルから請われてテナントに入った写真館で、その歴史は明治にまでさかのぼっていた。
和夫の依頼に、専務はちょっと答えに窮しながらも、そのチェーンホテルが神戸にもあり、そこに所用で来ることがあるので、そのときに面接をしようかといってくれた。
「いい人材ならいいんだけどねえ・・このところの不景気でうちも苦しいからなあ・・でも、島田さんの紹介だし・・」
専務はそういい残して電話を切った。
早速、由紀子に伝えてやろうと、彼女の携帯電話に電話を入れると、留守番電話になっていた。
あ・・仕事中か・・そう思い「島田です。ご都合のよろしい時に、折り返しお電話ください」とだけメッセージを入れた。
夕方、まだ営業所で書類の整理をしていたとき、由紀子から電話が入った。
「お電話ありがとうございました・・」
「ああ・・ユキちゃん・・ちょっと話があるから、あとで食事でもしようよ」
「え!お話ですか!何か、進展がありましたか?」
「それは会ってから話すよ」
「あ・・はい!」
待ち合わせを約束し、弾んだ声で彼女は電話を切った。
和夫は普段よりも少し気持ちが上ずっているのを自覚していたけれど、それが彼の中に芽生え始めたものだとはまだ、気がついてはいなかった。
若い女性に会う約束をすると、心が弾むものだなあ・・和夫はその程度の軽い気持ちで、事務所をあとにした。
阪急三宮駅北側の居酒屋に入った。
「島田さん!どんなお話なんですか?」
聞きたがる由紀子に「あとでゆっくり話すよ」そう言って笑う和夫は、自分が何でこんなにもったいぶるのかも不思議だった。
「お酒は飲めるの?」
「はい!いくらでも!」
由紀子は上機嫌で答えた。
生ビールのジョッキを合わせ、乾杯をする。
平日とあって、三宮の町はひっそりしていた。
「実はね・・東京に皐月スタジオってあるのだけれど・・」
「あ・・はい・・確か、ホテルオーサワに入っているスタジオですね」
「なんだ、知ってたのか?」
「いえ・・たまたま、求人情報誌にスタジオ・アシスタントの募集が出ていたのを見つけたんです」
「ああ・・そうなの・・で・・どうして応募しなかったの?」
「だって・・経験者優遇って書いてありましたし、あたし、経験者とまでは行かないし・・」
「自分のことはよく分かっているんだね」
「だって・・冷静に見つめないと、ダメだったら惨めじゃないですか・・」
そう呟きながら、彼女は遠慮なく出された串揚げを齧っている。
「そりゃそうだね・・」
「でも・・その皐月スタジオがどうしたんですか?」
「ああ・・実は皐月スタジオの専務さんが、昔からの知り合いでね・・君のことを話してみたんだ。ちょっと興味が沸いたらしくて、今度、専務さんが神戸のスタジオへ来られる時に面接をしてくれるそうなんだ」
由紀子の顔が見る見る赤くなっていった。
笑顔か泣き顔か分からないような複雑な表情を見せながら、目が潤んでいく。
両手で顔を覆い、彼女は涙が出てしまったようだった。
「どうしたの?」
和夫はさすがに心配になって訊いてみた。
由紀子は何も言わない。
言わないのではなく、いえないのだ。
「僕、何かしてはいけないことをしてしまったかな?」
彼女は首を横に振った。
「ちがうの・・」
かすかにそれだけ言った。
顔を覆ったそのままの姿勢で、由紀子はしばらくじっとしていた。
和夫はそれが、彼女が嬉しさのあまり、感情が押さえられなくなったのだと理解した。
しばらくして、ようやく彼女は顔を上げた。
「すみません・・あまりに嬉しかったものですから・・」
顔を上げた由紀子の目の回りはまだ赤く、少し腫れ上がっていた。
「いやいや・・いくら喜んでもらっても皐月スタジオに入社することが決まったわけではないからね・・面接を頑張ってよね」
由紀子はかすかに笑った。
「あたし・・これまで、一杯、夢を見てきたんですよ。でもね・・夢は見てはいけないんだって・・だって、あまりにも思ったことと反対のことばかりになるのですもの・・そう思っていたんですよ。でも、島田さんが現実に、私の願いを一つ聞いて下さったって・・それがすごく嬉しいんです」
「おやおや・・そんなに喜んでもらえたら、僕も嬉しいよ」
「あたし、面接、頑張ります!」
姿勢を正して彼女はそう言った。
そしてビールを飲み干して、追加を注文した。
「島田さんて・・お兄さんみたいですね」
まだ潤んでいる瞳で由紀子が言う。
「おいおい・・よせやい・・僕は45歳だぜ。お兄さんと言うよりお父さんだろう・・」
和夫はそう言って笑った。
「いいの・・あたしにとってはお兄さんです。優しくて頼りになるから・・」
喋りながら、由紀子は次のビールも飲み干していく。
酔った頭に、夏の蒸し暑さは苦しかった。
店を出た二人は、そのまま、方向も決めずに歩いていた。
「気持ちのよい風に当たりたいなあ・・」
和夫がそう言うと、由紀子は腕を組んできた。
「お兄さん・・海の近くにでも行きましょうか?」
おどけて答えてくれる。
数年、味わったことのない安堵感が和夫の心に満ちていた。
「海は遠いぞう!」
和夫が冗談っぽく応じる。
いかに海の近い神戸の町でも、三宮から海岸に出るには歩いて15分くらいはかかってしまう。
二人は、それでも酔った者同士の奇妙な連帯感からか、夜の町を南へと降りて行く。
「島田さん・・」
「なんだい?」
「あたし、撮影の仕事、できるかなあ?」
「出来ると思うよ・・何より撮影がしたいという気持ちで一歩先に進んでいるよ」
和夫は心底、そう思っていた。
仕事は世の中にたくさんある。
その中で、写真の仕事につく人はごく僅かだ。
その写真業界の中で、更に撮影と言う業種につく人は少ない。
撮影の仕事は労多く実りの少ない仕事ではある。
マスコミに登場する有名カメラマンのような人は、ほんの僅かで、残りの大半の人は夢を追い、夢と現実の狭間で格闘しながら、赤貧に甘んじていると言う方が正しいのかもしれない。
華やかな世界に見えて、実はその華やかさこそが、足元をすくわれる元だと言う部分は、似たようなほかの華やかな世界と同じだ。
「撮影の仕事に進むのは正しい選択ですか?」
由紀子が、甘えたような口調で訊いてくる。
すでに彼女は和夫の手を握り、もたれかかりながら歩いていた。
「今から先、DPE(現像・プリント・引伸ばし業務)やカメラ販売はますます厳しくなる。厳しくなっても、その先に光が見えればいいけれど、なかなか僕でもその光がいつ見えるか全く分からないんだ。そう言う面では、撮影の仕事だけはカメラやフィルムがデジタルに変わっても、残り続けると思う。将来のことを考えれば、しっかりした撮影の世界に入るのはとてもよい選択だと思う」
そう答えながら、けれども、和夫の営業所では撮影を主体にする店との関係を強化することが出来なかった・・そのことを彼は考えていた。
巨大な百貨店の趣向を凝らした外観が目に入ってきた。
ひと気のない交差点、明かりの消えたアーケードの前を中年男とその娘のような年頃の女の二人連れは、ゆっくりと歩いていく。
南京町の長安門が見える。
「あのね・・島田さん・・」
酔いが回ってきたのか、呂律が少し回らない口調で、由紀子は彼を責めるような表情をする。
「おや・・どうしたの?」
「あたしね!写真業界の今後とか、そんな話はどうでもいいのよ!あたしが知りたいのは、あたしと言う人間が撮影と言う世界に入ってもいいのかなってこと!」
由紀子は繋いでいた手を振り解き、和夫の正面で仁王立ちになった。
和夫は苦笑しながら答えた。
「いいよ・・多分。・・ユキちゃんがカメラマンになるってことはその世界にとって、すごく重要なことかもしれないよ!」
「どうして?」
「美人の女流カメラマン、一人誕生だよ!」
「いや!」
「どうして?」
「美人の女流ってのがいや!」
「美人を美人と言ってはいけないかな?」
「カメラマン山名由紀子になりたいの!」
ほう・・和夫は感心した。
これまでは小娘がと言う思いはあった。
だから、小娘の気まぐれの一つくらい、聞いてやっても悪くはないだろうとの思いもあった。
酔っているとはいえ、いや、酔っているからこそ、由紀子は本心で言っているのだと思う。
酔いが回ってきたかな・・小娘の言うことをマジで受け取ってしまっている俺がいるわい・・そう思った。
けれど、それは一瞬だった。
由紀子は解き放たれた鳥のように、自由に夜の町で自分を表現しているような気がした。
ようやく岸壁についた。
公園にも人は少なく、水銀灯の明かりが海に反射している。
船が見えるが動きはない。
波は黒く盛り上がっては、すうっと引き込まれるかのように下がっていく。
「島田さん!」
「なんだい?」
「あたし、いいよね!カメラマンの世界に入っていいよね!」
「何度同じことを訊くのかね?ダメな人間を大切な友人に紹介したりは出来ないだろう・・」
「本当にいいよね!」
「ああ・・面接も大丈夫だよ、きっと・・」
「島田さん!」
「なんだよ・・」
「お兄さんに、なってくれる?」
「ああ・・こんな年嵩のお兄さんでよければね!」
「本当?」
「本当だよ・・」
優しく、できるだけ優しく、そう言ってやった次の瞬間、由紀子は和夫に抱きついてきた。
和夫は一瞬、戸惑ったが、すぐに、彼女を抱きしめてやった。
「ありがとう・・ありがとう・・」
由紀子は和夫の腕の中で、泣きじゃくっていた。
和夫は、しばらくそのままの姿勢でいたけれど、泣く由紀子の顎を持って、自分のほうへ彼女の顔を向けた。
彼は由紀子の口元を見ながら、そのまま、唇を合わせた。
船の汽笛が聞こえる。
潮の香りがあたりを包んでいる。
翌日、彼のデスク傍の電話が鳴った。
「所長、東京の皐月スタジオの専務さんからです」
永年、ここで一緒に仕事をしている女性事務員が受話器を渡す。
「おお!島田さん!昨日の話だけどさ!」
「ああ・・専務、ありがとうございます。考えていただけましたか!」
由紀子の面接の件だ。
「うん、急なんだけどさ、明日、明後日と神戸のスタジオへ行く用事が出来たからさ・・その女の子、どちらかの日に会えないかな?」
「面接ですか?」
「そうだな・・面接の積りで来て頂いてもいいし、怖がるといけないから見学って形でもいいしさ・・」
和夫は昨日の由紀子の雰囲気から見て、一気に面接にまで持っていってやった方がよさそうだと思った。
「いや、もう、いきなり面接で・・頼みますよ」
「あ・・そう!面接でいいわけだね。じゃ、こっちも話が早いや!」
由紀子とは、昨夜、あの場所でしばらく抱擁しあっていた。
今もその感触が彼の中に残っていた。
出来れば、この状態でしばらく手元においておきたかった。
その思いが、言葉に出た。
「それでですね・・神戸のスタジオは空きはないのでしょうか?」
「神戸?勘弁してくれよ・・あそこは今の4人でも苦しいんだよ・・で・・千葉で欠員があるから、そこに入ってもらえればって思っているんだ」
「ああ・・もう、決まっているのですか・・」
「そりゃあ・・島田さんのご紹介じゃ断れねえだろう・・余程使い物にならない娘なら別として、島田さんの顔があるからさ、もう決まったも同然だよ」
「本人がどう言うか?」
「本人?スタジオに入れるなら文句はないだろう・・それとも、島田さん・・その子と何か有るのかい?」
「専務・・それはないですよ・・ただね・・ちょっと気になっただけで・・でも、もう決まっているのなら安心してお願いできますねえ・・」
心臓が飛び出すかと思ったとは、こういう事を言うのだろうか・・和夫は自分がおかしかった。
昨夜は小娘の気まぐれだよ・・そう自分に言い聞かせながら、適当に挨拶して電話を切った。
「千葉か・・」
思わずひとりごとが出る。
「千葉がどうかされましたか?」
女性事務員が怪訝な顔をして訊いてきたが「いや・・べつに・・」そう言って、彼はデスクの書類に目を通し始めた。
由紀子に伝えると喜ぶだろうなあ・・
そう言う単純な思いと、彼女の身体の感触が甦り、未練とが交叉する。
・・昨夜は服の上から、軽くまさぐっただけだった・・
窓の外を見ると、深い緑に覆われた六甲連山が見えた。
・・いちど、あの山から夜景でも眺めてみたいなあ・・彼は疲れている自分を感じていた。
大手のフィルムメーカーであり、業界の牽引力であった大日本フィルムが、突然、とんでもない発表をしたのは、それからまもなくだった。
これまでの5大特約店制度を廃止して、直販の販売専門会社を、既存の子会社を母体に発足させ、販売体制を一気に再編しようと言うものだった。
この話は噂には出ていたが、大日本フィルムの内部から情報が漏れだのだ。
リストラで、既にひどい目にあった社員達が、情報をインターネットの匿名掲示板に垂れ流してしまったのだ。
既に大手5大特約店と言われているうちの2社が、多額の負債を抱えていることも明るみになった。
急激なデジタル化の進展は、同時に他業種から、中でも家電業界からの総攻撃を受けた状態と重なり、写真用品の購買意欲の低下と共に、家電量販店や通販で販売されるデジタルカメラは写真業界の旨味を丸ごとさらっていったのだ。
カメラつき携帯電話は行き渡ったものの、それでは写真関係業種の売上は底を打たず、写真業界の苦戦は更にひどい状況になることは目に見えていた。
和夫の社は、その大手5大特約店の一角だった。
大日本フィルムの製品が売れなくなる・・
それは、会社の命脈が尽きる時を教えられたような気にさせてしまう。
「うちの会社から大日本フィルムさんの商品を外したら・・」
和夫の独り言に「売るものが何もない・・ですねえ・・」
女性事務員が勝手に答えた。
「所長!いっそのこと、たこ焼きでも売りましょうか!」
営業マンの一人がおどけて笑う。
「たこ焼きかぁ・・俺はスイカの方が好きやな!」
別の一人が応酬する。
冗談が飛び交う心の向こうは、既に冬の嵐だ。
「ああ・・所長!ラコー社がアナログカメラから撤退するそうです」
パソコンの画面を見ていた別の男が静かに言う。
・・カメラ業界7位か8位のラコー社が撤退したところで、うちの仕事に影響は少ないが・・写真業界全体に与えるインパクトは相当なものがあるだろうなあ・・
誰に言うでもなく、独り言のように喋る和夫の言葉に、営業所は静かになった。
冬の嵐は早そうだな・・季節は夏だと言うのに・・和夫は言葉を飲み込んだ。
数日を経ず、和夫の営業所は閉鎖が決まった。
大日本フィルムの商品を販売できない以上、会社がこれまでの経営規模で営業を継続できるわけがなかった。
大日本フィルムからは営業権買取と、一部若手営業マンの大日本フィルム子会社への移籍の話が出てきていた。
顧客である写真店、カメラ店からの問い合わせや不安の声は毎日、事務所の電話に届いていた。
ラコー社に続いて、カメラ5大メーカーの一つ、オルパス社もフィルムカメラからの撤退を表明した。
オルパス社の場合、ハイ・アマチュアやプロが愛用する膨大なカメラシステムが存在し、これの去就が注目されていたが、半年の猶予を経た後、全面撤退ということが決まった。
営業所の女性事務員には辞めて貰うしかない・・営業マン5人のうち、3人には退職を、2人には移籍をさせなければならない。
顧客を大日本フィルム子会社へスムーズに移さなければならない・・
「俺はどうなる・・」
そう考えたところで、和夫は今、目の前にある仕事の山を片付けることしか見ないようにしていた。
そんな時、電話が入り、事務員が彼を呼んだ。
電話を変わると、皐月スタジオの専務だった。
「ああ・・島田さん!この間はいい子を紹介してくれてありがとう!それでね・・彼女、東京の中野に叔母さんが住んでいるらしいので、しばらくそこに住ませて貰って、千葉のホテルのスタジオで働いてもらうことになったよ。中野から千葉までちょっと遠いけどさ、通えない距離じゃないし、ラッシュ時にはラッシュの反対向きだしさ・・」
「専務!お世話をおかけしました。せいぜい可愛がってやってください」
そう言いながら、折角つかんだ小鳥を逃す無念のようなものも沸いてきていた。
「いやあ・・お礼を言うのはこっちの方だよ・・あんなにしっかりした子は近頃では珍しいからね・・」
「おほめいただき恐縮です。ですが、まだ、実際に仕事を始めてから、もう一度、誉めてあげてください」
「ははは・・僕の目に狂いはないから、大丈夫だよ・・で、来月お盆明けから、こっちで頑張ってもらうことになったから・・ご報告まで・・」
「わざわざ、ご丁寧にありがとうございます」
「うん、それはそうと、島田さんの会社さあ・・どうなの?大丈夫なの?」
「うーん、大丈夫じゃ・・ないですよね。神戸は来月一杯で閉鎖ですよ・・」
「ああ・・そうなんだ・・それは大変だねえ・・島田さんはどうなるの?」
「私ですか?自分のことよりも、部下のことで頭が一杯で・・」
「ご苦労さんだね。でもさ、自分のこともしっかり考えないといけないよ・・奥さんと娘さんを悲しませないようにさ・・」
「そうですね・・いざとなったら、私も専務に頼りますから・・」
専務は大声で笑ってから「そのときは、何なりと言ってよ!」と言って電話を切った。
「俺はあんたに頼れないよ・・」独り言を言った。
「皐月スタジオさんに頼るのですか?」
事務員が不思議な顔をしていた。
「まさか・・」
「でも・・私もどなたかに、再就職を頼んでいただけませんか?」
「そうだなあ・・」
事務員にも夫と息子がいる。
彼らの今後の生活のことを会社が面倒を見ることができないのなら、俺が何とかしたい・・そう思ってはいる。
「いろいろ当たってみるよ・・」
そう言い捨て、和夫は得意先への事情説明に営業所を出て行った。
その日の夜、由紀子から和夫の携帯電話に電話があった。
和夫はまた帰宅が遅くなり、地下鉄の駅からの最終バスに乗れずに、数キロの道を歩いているところだった。
「島田所長さん!ありがとうございました!あたし、来月、お盆明けから皐月スタジオの千葉のホテルで働かせていただくことになりました!」
「ユキちゃん!良かったね!で・・・向こうにはいつ発つの?」
「お盆の前には、行くつもりです。向こうでも準備とか、色々あるし・・」
「そうか・・よかった。でね・・その前にでも、一度会いたいのだけれど・・」
「あ・・はい・・あたしもお礼をしなくちゃ・・」
「お礼なんて・・どうでもいいよ。一度、ゆっくりと会おうよ」
「わかりました・・でも・・しばらく忙しいのです。夏のセールの間、あたし、最後の仕事を頑張ることにしたので・・」
「わかった・・時間が空く日があったら、連絡をくれたらいいから・・」
由紀子は自分を避けているのだろうか・・
いや・・彼女から連絡をくれたのだから、避けてはいないだろうとも思う。
あの夜・・抱き合ったと言っても、夜の公園だ。
文字通り、抱き合っただけで、そこから先へは進めなかった。
だが、一度は本当に抱き合ってみたい・・彼女と夜を共にしたかった。
自分の年齢も、考えている。
只の夢想でしかないかもしれない・・それでも、その思いは強くなる。
「いや・・ここは・・落とし穴にはまってはダメだ・・ユキちゃんのために・・」
彼はそう言い聞かせながら、自宅への道を汗をかきながら歩いていた。
結局、由紀子は時間が調整できなかったらしく、やっと二人が会えたのは今から東京へ旅立つと言う日だった。
「本当に、夜行バスで行くの?」
待ち合わせの居酒屋に大きな荷物を持って現れた由紀子に、笑顔で和夫は問いかけた。
「だって・・荷物はあるし、乗り換えは辛いし、バスなら新幹線の半額でいけるんですもの・・」
和夫は苦笑しながら訊いた。
「バスは何時にでるの?」
「22時30分なんですよ・・」
今からなら3時間もない。
その3時間が、かけがえのない時間なのだ。そう思うことにした。
「でも・・本当に、島田所長さん、ありがとうございました・・」
「お礼はさ、向こうである程度頑張ってからでいいよ・・本当に頑張ってよね・・」
「はい!頑張ります!やっと、本当にしたい仕事につけるんですもの・・」
和夫は聞きながらビールのジョッキを空けた。
由紀子は今夜はあまり飲まない。
少しずつ飲んでいる感じだ。
「どうしたの?今日は飲まないの?」
由紀子は少し顔を赤らめて答えた。
「今からバスに乗るでしょ・・おしっこがしたくなったら・・困るじゃないですか・・」
「ああ・・でも、バスにトイレはあるだろう・・」
「島田さん・・夜行バスのトイレって、行くとすごく目立つんですよ・・」
「それなら、途中のサービスエリアもあるだろう・・」
「ええ・・そうですけど・・」
そう言って、悪戯っぽく和夫を睨んだ。
けれども彼女は積極的にジョッキを口に運ぶことはしなかった。
ジョッキには少し口をつけるだけで、あとは料理を食べる方に専念しているようだった。
「島田さんの会社、色々お聞きしていますけれど・・どうなっちゃうのですか?」
由紀子が話題を変えた。
あまり和夫が話したくない話題だった。
「うん・・神戸は今月一杯で閉めちゃうんだ・・」
「えー!ホントだったんですね。じゃ・・島田さんはどうされるのですか?」
「あまりまだ、考えていないんだ。今は、他の部下たちの今後を考えないといけないしね・・」
「でも・・島田さんもきちんと考えないと、奥さんが悲しまれるでしょ・・」
奥さんと言う言葉を出す由紀子が妻と同じような大人の女に見えた。
「うん・・まだ、表沙汰に出来ない話だけれど・・」
「ちょっとは考えておられるんですか?」
「うん・・実は、うちの子会社がチェーン展開しているDPEショップのオーナーをしないかと言われているんだ・・」
その話は現実になりつつあった。
会社からは退職金もある程度は出すという。
その退職金の一部を使って、DPEチェーンの店をどこかに出してはと、これは会社の上層部からいわれている話だ。
いまどきDPEなんてと思う。
けれども、最初から完全にデジタル・プリントショップとして完成した店を作り、コストを下げればある程度の波に乗れる自信はあった。
DPEの仕事は減るのは目に見えている。
だが、完全になくなりはしない・・
残るほうにかければ、彼の経験と感覚があればやっていける・・
だが、そのためには、これまでの顧客だった店のいくつかを敵に回すかもしれない・・それは彼にとっては苦渋の決断だった。
出来れば波風を立てず、隙間に入り込みたかったが、それは出来ない相談だった。
年老いた夫婦で経営し、デジタル化の波にも乗れていない前時代の遺物のような写真店は、彼が出なくともいずれ撤退せざるを得ないのだ。
「ええ!それじゃ、お店のオーナーになられるのですか!すごいですね!」
由紀子は飛び上がらんばかりに言う。
「おいおい、まだ決まったわけじゃないし、それに大きな声を出すと、誰が聞いているか分からないよ」
苦笑しながら、それでも、由紀子が喜んでくれたことで、新しい道への幾分かの安心感を持てたような気になった。
「すみません・・小さな声にします」
彼女は囁くように言って、悪戯っぽい笑顔を見せた。
「でも・・ユキちゃんに喜んでもらったから、踏ん切りがついたよ」
「よかったー!島田さんも、新しい人生の始まりですね!」
小さな声にすると言っていたすぐそのあとで、彼女はまた弾んだ声で言う。
和夫は一瞬、由紀子の胸元を見ながら、そこを開けてみたい衝動に駆られた。
服の上からの感触は、びっくりするほど豊かで、張りのあるふくらみが、そこにあることを確信させていた。
けれども、それは幻想でしかないのだ・・
「どうされたのですか?島田さん、黙ってしまって」
「あ・・いや・・何でもないよ・・」
時間は思うよりはるかに早く過ぎていく。
二人はJRの高架下にある小さなバスターミナルヘ向かった。
時刻はもう10時半近い。
居酒屋で思わず長居をしてしまった。
高架下のバス乗り場には、見慣れない塗装の大型バスが止まっていた。
フロントに「新宿」と書いてあった。
「ありがとうございました!あたし、頑張りますね!」
「ああ・・僕も頑張るし、お互い、張り切っていこうね!」
礼を言って、バスに乗ろうとする由紀子の肩を和夫は、突然、後ろから掴んだ。
「君を見送るのは辛いんだ・・」
由紀子は肩を掴まれたまま、俯いていたが、ややあってから振り向いた。
「島田さん・・ありがとうございました。あたしにとって、お兄さんでいてください。お願いします」
和夫は手を離して「すまない」と詫びた。
「いいえ・・ありがとうございます。でも、その方がずっといい感じでいられると思うんです」
「そうだよね・・僕は自分を強く持つよ」
「じゃ!行きますね!」
そう言ったかと思うと由紀子は、バスの入り口めがけて駆けていった。
運転士にチケットを見せ、彼女は振り向いて和夫に手を振った。
そしてそのまま、バスの中へ消えていった。
和夫はしばらくその場所に立っていた。
バスの窓にはカーテンが引かれ、車内の様子は窺い知ることが出来ない。
やがて、新宿行きの、関東の電鉄会社のバスはゆっくりと発車した。
高架下の車庫から、直角に道路に出る。和夫は、待合所向かいの道路からバスを見送った。
一番後ろの窓のカーテンが開いていた。
見ると、そこから由紀子が笑顔で手を振っていた。
和夫も手を振り返した。
バスはそのまま先の交差点を左折し、すぐに見えなくなってしまった。
今からすぐに地下鉄に乗れば、彼の自宅への最終路線バスに間に合う。
彼は地下鉄への道を歩き始めたが、走っているタクシーを見て考えが変わった。
財布に3万円くらいはあるだろう・・
そう思うと、彼はタクシーを止めた。
「すまん、神戸の夜景を山の上から眺めたいんだ。往復してくれるかな?」
「夜景ですか?」
運転士は怪訝な顔をして言う。
「そうだ・・何処でもいい、見終わったら、また三宮に帰ってくれれば、それでいいんだ」
「分かりました・・天覧台でいいですか?」
「天覧台?」
「六甲山上ですよ」
「何処でもいい、そこがよければ、そこでいいよ」
タクシーは神戸の町を東へ走り始めた。
「お客さん・・何かあったのですか?」
「何か?」
「ええ・・お気に触りましたら、ごめんなさい・・一人で夜景を見に行かれる方って・・その・・失恋した女の子とか、そう言う人が多いんで・・」
「ああ・・・そうだな・・言ってしまおうか・・女に逃げられたんだよ・・」
運転士はちらりと後ろを見て「了解です・・最高の夜景をご覧いただきましょう・・」そういって、スピードを上げた。
由紀子の乗ったバスは空いていた。
バスの車内は独立した座席が3列に並んでいたが、その半分も埋まっていなかった。
最後尾の座席で、シートを倒し、横に人がいないのを良いことに、カーテンを少し開けて外の景色を眺めていた。
景色とはいっても、高速道路の防音壁越しに町の明かりが少し見えるだけだ。
バスが名神高速に入ってまもなく、速度は落ちて、やがて停まってしまった。
渋滞に飲み込まれたようだが、そのまま、1時間ほどバスは動かなかった。
由紀子は和夫との、先ほどまでのやり取りを思い起こしていた。
・・島田さんも、男の嫌いな部分をもっている・・そう思った。
彼と飲んだあの夜、由紀子はわざと彼に甘えて見せた。
別に酔っているわけではなかった。
由紀子は父親を中学生に時に亡くしていた。
だから、大人の男性に知らず知らずに甘えてしまうのだったけれど、男たちは例外なく、甘えてきた彼女を女として扱った。
彼女が心を許して、男たちの前で、甘えると男たちは大抵、その彼女を自分のものにしようとした。
それは、4年近く彼女が勤めていた、甲南フォートの店長も同じだった。
店長は仕事が終わると、彼女を自分のアパートに呼び込もうとし、実際に、彼女は何度も、彼のアパートへ連れて行かれた。
断るに断れない雰囲気のようなものがあったのだ。
けれども、和夫がこれまでの男たちと例外的に違うのは、下心は持っていたけれど、それを彼も押さえようと努力していた点だった。
和夫は彼女を抱擁したけれど、その日も、それ以上には誘ってこなかった。
今日も、一瞬だけ彼女を不快にさせたけれど、彼女がたしなめると彼はすぐに手を引いた。
両肩には彼の手で掴まれた感触が残っていた・・それは、今は不快なものではなくなっていた。
・・東京では、気をつけないと・・あたしは、どうしてこんなに弱いのだろう・・
冷房が程よく効いた車内で、由紀子は久々に味わうゆったりした時間を楽しんでいた。
やがて、バスはゆっくりと動き始めた。
停まっては動きを、それから30分ほど繰り返し、バスは本来の速度を取り戻した。
由紀子はカーテンを閉め、少し眠ろうと思った。
天覧台の展望台に上がった和夫は思わず歓声を上げた。
それは夜景などと言う生易しいものではなかった。
巨大な光の生き物が、地面一杯に広がっているように思えた。
大きな光の渦は、そのまま彼に迫ってきそうだった。
「どうです?ここはいいでしょう・・」
運転士が煙草をくゆらせながら、自慢げに言う。
「素晴らしいなあ・・言葉がないとはこのことだね・・」
「関東の方から来られたのですか?」
「いや・・関東の人間だけど、もう6年も神戸に住んでいるよ」
「六甲の夜景は初めてですか・・」
「そうなんだ・・いつか見てみたいと思いながら、忙しくて見る機会がなかったんだ・・」
和夫は驚いた気持ちをゆっくりと整え、光の中にある真実を見極めようと思った。
さすがに山上で、蒸し暑い都心とは違い、涼しい風が吹いていた。
小さな光が、無数に集まって、巨大な銀河を形成している。
その小さな光は、庶民の家だったり、道路の街灯だったり、商店や会社の看板だったりした。
あの一つ一つの小さな光の中に、それぞれに物語がある・・例えば、俺と由紀子のように・・あるいは俺や、妻や娘のそれぞれが、小さな光ひとつの中で自分の人生を生きているように・・
無数の光の集合体は無数の人生の集合体だ。
俺がいくら頑張っても、その光の渦から逃れるすべはないのだ・・
つまりは、それが俺と言う、あるいはそれぞれの人々の命の輝きのようなものだ・・
やろう・・もう一度、全力で、生きて小さな光を一つ、この中につくってやろう・・
そう思った。
道は開けているはずだ・・自分を信じてやってみよう・・
かれは、ここで由紀子にその決意を聞かせたいと思ったけれど、すぐに首を振り、その考えを打ち消した。
「小娘・・また会える気がするよ・・君に教えられたことは大きかったような気がする・・」
和夫は夜景に向かってつぶやいた。
由紀子の乗ったバスは快調に走っていた。
1時間半ほどの遅れは出ているはずだが、バスは、快調に、そして坦々と走っていた。
道路工事でもしているのか、ひどく乗り心地が悪いところがあった。
突き上げ、しゃくりあげるような乗り心地で、由紀子はうたた寝から醒めた。
「何処だろう・・」
そう思って窓のカーテンを開けた。
「あ・・」
歓声が大きな声となって出そうなのを、彼女は堪えた。
彼女の目の前に広がっているのは、夜明けにまだ時間がかかる、空の色がほんの少し青みを帯びたその空の下・・町の明かりに囲まれたさして大きくない湖だった。
「銀の湖・・」
小さな声で彼女はつぶやいた。
高速道路の遥か下、湖は水面を鏡のように輝かせていた。
それは光が反射するような輝きではなく、湖自体が自分の意思で生きていることを示しているかのような、鈍い輝き方だった。
バスは、お構いなしに、高速を飛ばしているけれど、湖の景色はしばらく続いた。
・・もしかしたら、この湖には湖の神様がいるのかもしれない・・
あまりの神秘さに、彼女はそう感じた。
この時刻は、湖の神様と、空の神様がお互いに話をしているような気がする・・
しゃくりあげるような乗り心地は続いた。
自分が少なくとも、神様には守ってもらっているような気がした。
手のひらを合わせ、彼女は湖に向かって祈った。
「どうか、どうか、島田さんのお店が成功しますように、そして、あたしの人生が、いい人生でありますように・・」
梅雨が明けたばかりのこの時期、昼間の灼熱の余韻がまだ都会のコンクリートには残り、けだるい不快感を醸し出していたし、商店などの明かりが消え、シャッターの下りた店先では、少年達が所構わずスケートボードを滑らせていて、黄色い歓声がアーケードにこだましていた。
疲れた身体を引きずって、郊外にある彼のマンションに帰れば、妻と高校生になったばかりの一人娘があった。
彼は大手写真問屋の営業所長だった。
この数年のデジタル化の嵐は彼の仕事に激変をもたらせた。
デジタルカメラの台頭は読めていた。
けれども、恐ろしいのがあの、カメラつき携帯電話だった。
カメラを使い、写真を写し、それを現像、プリントし、アルバムに貼ってもらえば、写真業界は安泰だったはずだ。
デジタルカメラになっても、フィルムの代わりに記録メディアは販売できるし、フィルムが不要になるということはカメラを使う人がより気軽にシャッターを押すということにつながり、それはプリント枚数の増加という形で業界に寄与するはずだった。
しかも、フィルムカメラからデジタルカメラへの買換え需要は大きな市場を形成し、彼の仕事の上でもプラスになるはずだった。
けれども、まさかのカメラつき携帯電話・・
これはデジタルカメラの普及を遅らせるばかりか、写真業界の重要顧客だった女子高生や女子大生からレンズつきフィルムの必要性をなくさせ、更にプリントなどしなくても、個別にメールで送るだけで充分楽しむことが出来る・・
恐ろしい商品は写真業界の全く知らないところで開発され、あっという間に消費者の手元に広がっていった。
大きな嵐を業界外部から受けた写真業界は喘いでいた。
和夫の取引先でも中堅どころの地元チェーン、甲南フォートが倒産し、彼の営業所は大きな影響を受けてしまった。
甲南フォートは神戸市内東部に10ほどの店舗を有していた。
最盛期にはどの店も客で溢れ、忙しさで手が足らない従業員達の鼻息は荒く、それでも、先代社長のしっかりとした方針の下、頻繁にセールを開催しては、さらに顧客を呼び込んでいた。
先代社長の突然の死は、求心力を失うかに見えた従業員達の一糸乱れぬ団結を呼び、代表を引き継いだ先代の息子によって一時は先代存命の時よりも店舗を増やし、売上を大幅にアップさせていた。
和夫はその様子を、危なげに見ていたことは確かだ。
先代社長は、息を抜くところを知っていた。
セールにも遊びの気持ちが必ず入っていた。
お客と女性アルバイトにじゃんけんをさせて、お客が勝てば半額などという冗談半分のセールなどは地域の話題をさらった。
写真の現像を出してくれたお客に、無償でインスタントラーメンを配ったり、年配のお客のところへは配達ルートを作ったりもしていた。
先代社長は戦力という言葉を使うことはなかった。
「お客さんが写真で使おうとしているお金を全部うちが貰う。それには、お客さんの心の中に飛び込むような仕事をしよう」
これが先代社長の口癖だった。
けれども、引き継いだ一人息子は徹頭徹尾、責めの経営を行なった。
営業戦略会議と称し、各店舗の責任者を集め、常に上昇思考で責任者達が自分を管理するように仕向けた。
精神的に社員を追い詰めることで営業成績を上げ、更には極端な能力給の実施で彼等同士がお互いをライバルとして認識し、他の者よりも一歩抜きん出るため、様々な店舗内での独自性を認めていった。
最初はそれでよかったのだ。
けれども、元々、地元住民との良い関係が、やんわりと売上に供するような業態である。
先鋭化した店舗責任者達は顧客に少しでも多くのものを売りつけようと、策に走ったのだ。
策に走るほどに、顧客と店スタッフとの冗談のような会話は影をひそめ、売らんかなのムードが各店舗に蔓延すると、顧客は少しずつ離れていった。
ちょうどその頃、大手全国チェーンの店が甲南フォートの地盤に進出してきた。
価格競争になれていない甲南フォートは、低価格競争への戦略を誤り、シェアだけを追っていた。
この頃から、従業員の給料もままならなくなっていた。
そして訪れたカメラつき携帯電話の時代・・女子大生が多い地域の店の営業成績が一気に低下したことから、会社全体に沈滞ムードが漂い始め、それから1年で倒産してしまった。
2代目社長は、会社の整理を決めたあと、心労から血を吐いて亡くなってしまった。
和夫は本社への報告書に今月もマイナスで書き込むしかない不甲斐なさを感じていた。
甲南フォートが廃業してからというもの、小さな店の廃業が続き、到底決められた予算など達成できるはずのない状況だったからだ・・
最も、和夫の営業所だけではなかった。
今や会社は青息吐息で、まだ、和夫の営業所よりも酷い所も幾つもあったのだ。
三宮の大型量販店の前を通り、彼は地下鉄の駅へ向かう。
今なら、まだ地下鉄から最終バスに接続できる時間帯だ・・
昨今の会社の不振ぶりに、タクシーを会社の経費で使うことも憚られ、彼の自前でタクシー代を出すにしても、彼の給料も大きく目減りをしている状態では、それもままならなかった。
量販店の建物は、すでに営業を終えた時間でひっそりとしていたけれども、派手な看板やネオンサイン、大きな垂れ幕・・その中にある「デジカメ買うならオーヤマ電子!」とのキャッチコピーがそこら中に溢れ出していた。
「こいつらのおかげで・・」
和夫は思わず恨み節を声に出したが、必ずしも、それだけではないのだと、自分に言い聞かせ、ビルの脇から地下鉄への階段を降りていった。
「島田さん!島田所長さん!」
女性の声が聞こえた。
振り向くとまだ少女といっても良いくらいの可愛い女性が立っていた。
「島田所長さん!お久しぶりです!」
「君は・・たしか・・」
「甲南フォート、東灘店の山名・・山名由紀子です!覚えておられませんか?」
思い出した。
甲南フォートでも1,2を争う店舗で何年かアルバイトを続けていた女性だった。
背が低く、童顔で、若く見られるけれど、実際はかなりの年だという噂を聞いたことがある。
由紀子は人懐こい性格で顧客から愛されていた。
和夫が時折、店を覗いた時でも、あどけない、裏表のない印象的な笑顔を見せる女性だった。
「思い出したよ。ユキちゃんって皆が言ってたよね・・で・・今、どうしているの?」
「覚えていてくださったのですか!嬉しいなあ!あたし、今、三宮のカメラ店にいるんです!」
由紀子は飛び上がりそうになりながら、嬉しくて仕方がないという表情をして見せた。
「三宮の・・何処のカメラ屋さん?」
「オダカメラです!」
地元の大手といわれるカメラ店だった。
和夫の取引先ではなかった。
それどころか、ライバル社の重要顧客だった。
「大きなところにいけたね!良かったじゃないか!」
由紀子が甲南フォート倒産後に、同じ業界の大手に勤めたことを、和夫は心底喜んだのだ。
「はい!」
由紀子はニコニコと笑っている。
「で・・今はアルバイト?それとも契約社員?」
「いえ!正社員なんです!」
「おお!それは本当に良かったなあ・・あそこは、今でも正社員を雇えるんだねえ・・」
「みんな正社員ですよ。女の子もみんなです・・」
ほう・・和夫は考え込んでしまった。
オダカメラも一時は経営危機が伝えられ、店舗の半分以上を閉めていたのだ。
「まえ・・少し前だけど、オダカメラさん、何店舗か閉めたことがあったけれどねえ・・」
「あ・・それは、当時の社長の方針で、危なくなる前に片付けようってことだったらしいですよ。そのときに、パートさんには辞めて貰って、正社員はあちらこちらの店へ振り分けたんですって・・」
「なるほどなあ・・オダさんの社長さんは賢かったわけだね・・」
「賢いかどうか知りませんけど・・でもとってもいい人ですよ」
ぺろっと舌を出しながら彼女はそう答えた。
和夫はそんな由紀子を可愛いと思った。
そういえば、甲南フォートで見るときには何時もエプロンをしていたから分からなかったけれど、気軽そうなTシャツと、身体にフィットするジーパンに身を包んだ彼女の姿は驚くほど、プロポーションが良かった。
「そうだ!ここで折角お会いしたんですから、ちょっと相談事を聞いて欲しいのですけど・・」
笑顔を少し硬くして由紀子は言った。
懇願するよう仕草もして見せた。
「なんだい?僕が聞いて意味があるようなことなら、何でもいいよ」
「嬉しい!」彼女はそう言ったかと思うと和夫の手を引いて歩き始めた。
「何処へ行くの?」
「ここでは申し訳ないですから・・そこの喫茶店でも・・いいですか?」
「ああ・・いいよ・・」
和夫には高校生の娘を思い浮かべていた。
まるで娘と話をしているような気分になったけれど、彼を誘う由紀子の全身からは、大人の女の香りがするような気もしていた。
「で・・相談って・・なんだい?」
深夜まで開いている喫茶店のゆったりとしたソファにもたれて、和夫は訊いた。
「いまの・・お店・・とても居心地がいいんですね」
由紀子はソファにもたれはしないで、背筋を伸ばして腰掛けていた。
「いいことじゃないか・・」
「そうなんです・・でも、あたし・・本当に申し訳ないのですけれど・・」
「だから何なんだい?」
アイスコーヒーが運ばれてきた。
和夫はシロップもミルクも入れずに、ストローも使わない。
由紀子はシロップをたっぷりと、ミルクも入れて、ストローでかき回している。
「ブラックがお好きなんですか?」
「ああ・・コーヒーに砂糖を入れると後味が悪くなるからね」
「島田さんて、やっぱり、大人ですよね」
「君も大人じゃないか・・」
由紀子はくすりと笑って「あたしが?大人?それは違いますよ・・本当に自分でも子供だって思ってしまうのですもの・・」と言う。
「で・・さっきの続きだ・・」
「あ・・すみません。本当に今の会社の社長さんや、専務さんにはお世話になっているし、甲南フォートに居た人たちにも、今みたいな立派なところに勤めているあたしが、こんなことを言えば叱られるとは思うのですけれど・・」
「だから、どうしたんだい?」
「あたし、撮影の仕事がしたいのです」
「撮影?」
「甲南フォートでは証明写真もありましたし、たまに、奥のスタジオで記念写真も撮影していましたよね。でも、今のお店には撮影の仕事が何もないのですよ・・」
和夫は由紀子が俯きながら言うのをじっと見ていた。
「撮影か・・カメラマンになりたいわけだね・・」
「そうなんです・・それで、誰かに相談しようって、ずっと思いつめていたら、さっき、島田さんに出会えたんですよ」
由紀子は俯いたまま黙ってしまった。
和夫も彼女を眺めながら、考えようとしていた。
考えなくても答えはすぐに出るのだ。
彼が本社に居た頃の取引先だった皐月スタジオに聞いてみれば、大きなスタジオだから、どこかのスタジオで一人や二人助手になる子を入れることくらい出来そうな気はしていた。
俯いた由紀子はまた、彼女が気がついていない香りを発散させているようだった。
「ユキちゃん、失礼なことを訊くけれど、今、幾つになったのかな?」
由紀子は顔を上げて、島田の顔をまっすぐに見た。
美しい、大きな瞳が少し輝いているように見える。
「24になりました」
「撮影はどの程度出来るのかな?」
「うーーん、ちょっとです。例えば・・」
「七五三とかくらいは・・」
「あの、甲南フォートでは店長について、撮影のときは助手をしていましたから・・」
「助手は出来るのかい?」
「少しなら・・でも、本当の助手がどんなものかはよく知らないのですけれど・・」
「わかったよ。でも、オダカメラはいつ退職するのかな?」
「それは・・撮影の仕事があって、それが決まってからでは遅いですか?」
遅くなんかはない・・そう言おうと思った。
ライバル社の取引先であるオダカメラから優秀な店員が一人いなくなっても、彼には何の義理もなかった。
むしろ、いい気味だと思うがそれは口に出せなかった。
「ユキちゃんにお願いがあるんだ・・」
「お願いですか?」
由紀子は怪訝な顔をした。
「今のユキちゃんの相談を僕は受けたよ。それでね・・その相談を他の人にはしないで欲しいと言うことと、僕が相談に乗っていると言うことは内緒にしていて欲しいんだ。もちろん、決まるまでの間だけね・・」
由紀子の表情が一気に明るくなった。
軽く頬に赤味もさしている。
「それから・・一つ、質問だけど、自宅から通えなければダメかな?」
「いいえ・・あたしは一人暮らしですし・・両親は四国ですし・・」
「四国?」
和夫が驚いた。
「四国から出てきて、甲南フォートに居たの?」
「いえ・・就職をしたんですけれど、うまく行かなくて・・すぐに辞めちゃったんですよ・・で・・アルバイト募集中の甲南フォートに・・」
「何年いたの?」
「4年近くです・・短大出てから、入った会社を3ヶ月で辞めましたから・・」
ふうん・・そう頷いて、彼はそれ以上の事は訊かないようにした。
「じゃあ、東京でもいいわけだ・・」
「はい!東京でも札幌でも構わないです!」
由紀子はきれいな笑顔を見せた。
翌日、和夫は早速、彼が東京の本社に居たときに取引のあった写真スタジオ「皐月スタジオ」の旧知の仲である専務に電話を入れた。
皐月スタジオは、東京オリンピックの時に東京で日本最初の高級シティホテルが出来た時から、そのホテルから請われてテナントに入った写真館で、その歴史は明治にまでさかのぼっていた。
和夫の依頼に、専務はちょっと答えに窮しながらも、そのチェーンホテルが神戸にもあり、そこに所用で来ることがあるので、そのときに面接をしようかといってくれた。
「いい人材ならいいんだけどねえ・・このところの不景気でうちも苦しいからなあ・・でも、島田さんの紹介だし・・」
専務はそういい残して電話を切った。
早速、由紀子に伝えてやろうと、彼女の携帯電話に電話を入れると、留守番電話になっていた。
あ・・仕事中か・・そう思い「島田です。ご都合のよろしい時に、折り返しお電話ください」とだけメッセージを入れた。
夕方、まだ営業所で書類の整理をしていたとき、由紀子から電話が入った。
「お電話ありがとうございました・・」
「ああ・・ユキちゃん・・ちょっと話があるから、あとで食事でもしようよ」
「え!お話ですか!何か、進展がありましたか?」
「それは会ってから話すよ」
「あ・・はい!」
待ち合わせを約束し、弾んだ声で彼女は電話を切った。
和夫は普段よりも少し気持ちが上ずっているのを自覚していたけれど、それが彼の中に芽生え始めたものだとはまだ、気がついてはいなかった。
若い女性に会う約束をすると、心が弾むものだなあ・・和夫はその程度の軽い気持ちで、事務所をあとにした。
阪急三宮駅北側の居酒屋に入った。
「島田さん!どんなお話なんですか?」
聞きたがる由紀子に「あとでゆっくり話すよ」そう言って笑う和夫は、自分が何でこんなにもったいぶるのかも不思議だった。
「お酒は飲めるの?」
「はい!いくらでも!」
由紀子は上機嫌で答えた。
生ビールのジョッキを合わせ、乾杯をする。
平日とあって、三宮の町はひっそりしていた。
「実はね・・東京に皐月スタジオってあるのだけれど・・」
「あ・・はい・・確か、ホテルオーサワに入っているスタジオですね」
「なんだ、知ってたのか?」
「いえ・・たまたま、求人情報誌にスタジオ・アシスタントの募集が出ていたのを見つけたんです」
「ああ・・そうなの・・で・・どうして応募しなかったの?」
「だって・・経験者優遇って書いてありましたし、あたし、経験者とまでは行かないし・・」
「自分のことはよく分かっているんだね」
「だって・・冷静に見つめないと、ダメだったら惨めじゃないですか・・」
そう呟きながら、彼女は遠慮なく出された串揚げを齧っている。
「そりゃそうだね・・」
「でも・・その皐月スタジオがどうしたんですか?」
「ああ・・実は皐月スタジオの専務さんが、昔からの知り合いでね・・君のことを話してみたんだ。ちょっと興味が沸いたらしくて、今度、専務さんが神戸のスタジオへ来られる時に面接をしてくれるそうなんだ」
由紀子の顔が見る見る赤くなっていった。
笑顔か泣き顔か分からないような複雑な表情を見せながら、目が潤んでいく。
両手で顔を覆い、彼女は涙が出てしまったようだった。
「どうしたの?」
和夫はさすがに心配になって訊いてみた。
由紀子は何も言わない。
言わないのではなく、いえないのだ。
「僕、何かしてはいけないことをしてしまったかな?」
彼女は首を横に振った。
「ちがうの・・」
かすかにそれだけ言った。
顔を覆ったそのままの姿勢で、由紀子はしばらくじっとしていた。
和夫はそれが、彼女が嬉しさのあまり、感情が押さえられなくなったのだと理解した。
しばらくして、ようやく彼女は顔を上げた。
「すみません・・あまりに嬉しかったものですから・・」
顔を上げた由紀子の目の回りはまだ赤く、少し腫れ上がっていた。
「いやいや・・いくら喜んでもらっても皐月スタジオに入社することが決まったわけではないからね・・面接を頑張ってよね」
由紀子はかすかに笑った。
「あたし・・これまで、一杯、夢を見てきたんですよ。でもね・・夢は見てはいけないんだって・・だって、あまりにも思ったことと反対のことばかりになるのですもの・・そう思っていたんですよ。でも、島田さんが現実に、私の願いを一つ聞いて下さったって・・それがすごく嬉しいんです」
「おやおや・・そんなに喜んでもらえたら、僕も嬉しいよ」
「あたし、面接、頑張ります!」
姿勢を正して彼女はそう言った。
そしてビールを飲み干して、追加を注文した。
「島田さんて・・お兄さんみたいですね」
まだ潤んでいる瞳で由紀子が言う。
「おいおい・・よせやい・・僕は45歳だぜ。お兄さんと言うよりお父さんだろう・・」
和夫はそう言って笑った。
「いいの・・あたしにとってはお兄さんです。優しくて頼りになるから・・」
喋りながら、由紀子は次のビールも飲み干していく。
酔った頭に、夏の蒸し暑さは苦しかった。
店を出た二人は、そのまま、方向も決めずに歩いていた。
「気持ちのよい風に当たりたいなあ・・」
和夫がそう言うと、由紀子は腕を組んできた。
「お兄さん・・海の近くにでも行きましょうか?」
おどけて答えてくれる。
数年、味わったことのない安堵感が和夫の心に満ちていた。
「海は遠いぞう!」
和夫が冗談っぽく応じる。
いかに海の近い神戸の町でも、三宮から海岸に出るには歩いて15分くらいはかかってしまう。
二人は、それでも酔った者同士の奇妙な連帯感からか、夜の町を南へと降りて行く。
「島田さん・・」
「なんだい?」
「あたし、撮影の仕事、できるかなあ?」
「出来ると思うよ・・何より撮影がしたいという気持ちで一歩先に進んでいるよ」
和夫は心底、そう思っていた。
仕事は世の中にたくさんある。
その中で、写真の仕事につく人はごく僅かだ。
その写真業界の中で、更に撮影と言う業種につく人は少ない。
撮影の仕事は労多く実りの少ない仕事ではある。
マスコミに登場する有名カメラマンのような人は、ほんの僅かで、残りの大半の人は夢を追い、夢と現実の狭間で格闘しながら、赤貧に甘んじていると言う方が正しいのかもしれない。
華やかな世界に見えて、実はその華やかさこそが、足元をすくわれる元だと言う部分は、似たようなほかの華やかな世界と同じだ。
「撮影の仕事に進むのは正しい選択ですか?」
由紀子が、甘えたような口調で訊いてくる。
すでに彼女は和夫の手を握り、もたれかかりながら歩いていた。
「今から先、DPE(現像・プリント・引伸ばし業務)やカメラ販売はますます厳しくなる。厳しくなっても、その先に光が見えればいいけれど、なかなか僕でもその光がいつ見えるか全く分からないんだ。そう言う面では、撮影の仕事だけはカメラやフィルムがデジタルに変わっても、残り続けると思う。将来のことを考えれば、しっかりした撮影の世界に入るのはとてもよい選択だと思う」
そう答えながら、けれども、和夫の営業所では撮影を主体にする店との関係を強化することが出来なかった・・そのことを彼は考えていた。
巨大な百貨店の趣向を凝らした外観が目に入ってきた。
ひと気のない交差点、明かりの消えたアーケードの前を中年男とその娘のような年頃の女の二人連れは、ゆっくりと歩いていく。
南京町の長安門が見える。
「あのね・・島田さん・・」
酔いが回ってきたのか、呂律が少し回らない口調で、由紀子は彼を責めるような表情をする。
「おや・・どうしたの?」
「あたしね!写真業界の今後とか、そんな話はどうでもいいのよ!あたしが知りたいのは、あたしと言う人間が撮影と言う世界に入ってもいいのかなってこと!」
由紀子は繋いでいた手を振り解き、和夫の正面で仁王立ちになった。
和夫は苦笑しながら答えた。
「いいよ・・多分。・・ユキちゃんがカメラマンになるってことはその世界にとって、すごく重要なことかもしれないよ!」
「どうして?」
「美人の女流カメラマン、一人誕生だよ!」
「いや!」
「どうして?」
「美人の女流ってのがいや!」
「美人を美人と言ってはいけないかな?」
「カメラマン山名由紀子になりたいの!」
ほう・・和夫は感心した。
これまでは小娘がと言う思いはあった。
だから、小娘の気まぐれの一つくらい、聞いてやっても悪くはないだろうとの思いもあった。
酔っているとはいえ、いや、酔っているからこそ、由紀子は本心で言っているのだと思う。
酔いが回ってきたかな・・小娘の言うことをマジで受け取ってしまっている俺がいるわい・・そう思った。
けれど、それは一瞬だった。
由紀子は解き放たれた鳥のように、自由に夜の町で自分を表現しているような気がした。
ようやく岸壁についた。
公園にも人は少なく、水銀灯の明かりが海に反射している。
船が見えるが動きはない。
波は黒く盛り上がっては、すうっと引き込まれるかのように下がっていく。
「島田さん!」
「なんだい?」
「あたし、いいよね!カメラマンの世界に入っていいよね!」
「何度同じことを訊くのかね?ダメな人間を大切な友人に紹介したりは出来ないだろう・・」
「本当にいいよね!」
「ああ・・面接も大丈夫だよ、きっと・・」
「島田さん!」
「なんだよ・・」
「お兄さんに、なってくれる?」
「ああ・・こんな年嵩のお兄さんでよければね!」
「本当?」
「本当だよ・・」
優しく、できるだけ優しく、そう言ってやった次の瞬間、由紀子は和夫に抱きついてきた。
和夫は一瞬、戸惑ったが、すぐに、彼女を抱きしめてやった。
「ありがとう・・ありがとう・・」
由紀子は和夫の腕の中で、泣きじゃくっていた。
和夫は、しばらくそのままの姿勢でいたけれど、泣く由紀子の顎を持って、自分のほうへ彼女の顔を向けた。
彼は由紀子の口元を見ながら、そのまま、唇を合わせた。
船の汽笛が聞こえる。
潮の香りがあたりを包んでいる。
翌日、彼のデスク傍の電話が鳴った。
「所長、東京の皐月スタジオの専務さんからです」
永年、ここで一緒に仕事をしている女性事務員が受話器を渡す。
「おお!島田さん!昨日の話だけどさ!」
「ああ・・専務、ありがとうございます。考えていただけましたか!」
由紀子の面接の件だ。
「うん、急なんだけどさ、明日、明後日と神戸のスタジオへ行く用事が出来たからさ・・その女の子、どちらかの日に会えないかな?」
「面接ですか?」
「そうだな・・面接の積りで来て頂いてもいいし、怖がるといけないから見学って形でもいいしさ・・」
和夫は昨日の由紀子の雰囲気から見て、一気に面接にまで持っていってやった方がよさそうだと思った。
「いや、もう、いきなり面接で・・頼みますよ」
「あ・・そう!面接でいいわけだね。じゃ、こっちも話が早いや!」
由紀子とは、昨夜、あの場所でしばらく抱擁しあっていた。
今もその感触が彼の中に残っていた。
出来れば、この状態でしばらく手元においておきたかった。
その思いが、言葉に出た。
「それでですね・・神戸のスタジオは空きはないのでしょうか?」
「神戸?勘弁してくれよ・・あそこは今の4人でも苦しいんだよ・・で・・千葉で欠員があるから、そこに入ってもらえればって思っているんだ」
「ああ・・もう、決まっているのですか・・」
「そりゃあ・・島田さんのご紹介じゃ断れねえだろう・・余程使い物にならない娘なら別として、島田さんの顔があるからさ、もう決まったも同然だよ」
「本人がどう言うか?」
「本人?スタジオに入れるなら文句はないだろう・・それとも、島田さん・・その子と何か有るのかい?」
「専務・・それはないですよ・・ただね・・ちょっと気になっただけで・・でも、もう決まっているのなら安心してお願いできますねえ・・」
心臓が飛び出すかと思ったとは、こういう事を言うのだろうか・・和夫は自分がおかしかった。
昨夜は小娘の気まぐれだよ・・そう自分に言い聞かせながら、適当に挨拶して電話を切った。
「千葉か・・」
思わずひとりごとが出る。
「千葉がどうかされましたか?」
女性事務員が怪訝な顔をして訊いてきたが「いや・・べつに・・」そう言って、彼はデスクの書類に目を通し始めた。
由紀子に伝えると喜ぶだろうなあ・・
そう言う単純な思いと、彼女の身体の感触が甦り、未練とが交叉する。
・・昨夜は服の上から、軽くまさぐっただけだった・・
窓の外を見ると、深い緑に覆われた六甲連山が見えた。
・・いちど、あの山から夜景でも眺めてみたいなあ・・彼は疲れている自分を感じていた。
大手のフィルムメーカーであり、業界の牽引力であった大日本フィルムが、突然、とんでもない発表をしたのは、それからまもなくだった。
これまでの5大特約店制度を廃止して、直販の販売専門会社を、既存の子会社を母体に発足させ、販売体制を一気に再編しようと言うものだった。
この話は噂には出ていたが、大日本フィルムの内部から情報が漏れだのだ。
リストラで、既にひどい目にあった社員達が、情報をインターネットの匿名掲示板に垂れ流してしまったのだ。
既に大手5大特約店と言われているうちの2社が、多額の負債を抱えていることも明るみになった。
急激なデジタル化の進展は、同時に他業種から、中でも家電業界からの総攻撃を受けた状態と重なり、写真用品の購買意欲の低下と共に、家電量販店や通販で販売されるデジタルカメラは写真業界の旨味を丸ごとさらっていったのだ。
カメラつき携帯電話は行き渡ったものの、それでは写真関係業種の売上は底を打たず、写真業界の苦戦は更にひどい状況になることは目に見えていた。
和夫の社は、その大手5大特約店の一角だった。
大日本フィルムの製品が売れなくなる・・
それは、会社の命脈が尽きる時を教えられたような気にさせてしまう。
「うちの会社から大日本フィルムさんの商品を外したら・・」
和夫の独り言に「売るものが何もない・・ですねえ・・」
女性事務員が勝手に答えた。
「所長!いっそのこと、たこ焼きでも売りましょうか!」
営業マンの一人がおどけて笑う。
「たこ焼きかぁ・・俺はスイカの方が好きやな!」
別の一人が応酬する。
冗談が飛び交う心の向こうは、既に冬の嵐だ。
「ああ・・所長!ラコー社がアナログカメラから撤退するそうです」
パソコンの画面を見ていた別の男が静かに言う。
・・カメラ業界7位か8位のラコー社が撤退したところで、うちの仕事に影響は少ないが・・写真業界全体に与えるインパクトは相当なものがあるだろうなあ・・
誰に言うでもなく、独り言のように喋る和夫の言葉に、営業所は静かになった。
冬の嵐は早そうだな・・季節は夏だと言うのに・・和夫は言葉を飲み込んだ。
数日を経ず、和夫の営業所は閉鎖が決まった。
大日本フィルムの商品を販売できない以上、会社がこれまでの経営規模で営業を継続できるわけがなかった。
大日本フィルムからは営業権買取と、一部若手営業マンの大日本フィルム子会社への移籍の話が出てきていた。
顧客である写真店、カメラ店からの問い合わせや不安の声は毎日、事務所の電話に届いていた。
ラコー社に続いて、カメラ5大メーカーの一つ、オルパス社もフィルムカメラからの撤退を表明した。
オルパス社の場合、ハイ・アマチュアやプロが愛用する膨大なカメラシステムが存在し、これの去就が注目されていたが、半年の猶予を経た後、全面撤退ということが決まった。
営業所の女性事務員には辞めて貰うしかない・・営業マン5人のうち、3人には退職を、2人には移籍をさせなければならない。
顧客を大日本フィルム子会社へスムーズに移さなければならない・・
「俺はどうなる・・」
そう考えたところで、和夫は今、目の前にある仕事の山を片付けることしか見ないようにしていた。
そんな時、電話が入り、事務員が彼を呼んだ。
電話を変わると、皐月スタジオの専務だった。
「ああ・・島田さん!この間はいい子を紹介してくれてありがとう!それでね・・彼女、東京の中野に叔母さんが住んでいるらしいので、しばらくそこに住ませて貰って、千葉のホテルのスタジオで働いてもらうことになったよ。中野から千葉までちょっと遠いけどさ、通えない距離じゃないし、ラッシュ時にはラッシュの反対向きだしさ・・」
「専務!お世話をおかけしました。せいぜい可愛がってやってください」
そう言いながら、折角つかんだ小鳥を逃す無念のようなものも沸いてきていた。
「いやあ・・お礼を言うのはこっちの方だよ・・あんなにしっかりした子は近頃では珍しいからね・・」
「おほめいただき恐縮です。ですが、まだ、実際に仕事を始めてから、もう一度、誉めてあげてください」
「ははは・・僕の目に狂いはないから、大丈夫だよ・・で、来月お盆明けから、こっちで頑張ってもらうことになったから・・ご報告まで・・」
「わざわざ、ご丁寧にありがとうございます」
「うん、それはそうと、島田さんの会社さあ・・どうなの?大丈夫なの?」
「うーん、大丈夫じゃ・・ないですよね。神戸は来月一杯で閉鎖ですよ・・」
「ああ・・そうなんだ・・それは大変だねえ・・島田さんはどうなるの?」
「私ですか?自分のことよりも、部下のことで頭が一杯で・・」
「ご苦労さんだね。でもさ、自分のこともしっかり考えないといけないよ・・奥さんと娘さんを悲しませないようにさ・・」
「そうですね・・いざとなったら、私も専務に頼りますから・・」
専務は大声で笑ってから「そのときは、何なりと言ってよ!」と言って電話を切った。
「俺はあんたに頼れないよ・・」独り言を言った。
「皐月スタジオさんに頼るのですか?」
事務員が不思議な顔をしていた。
「まさか・・」
「でも・・私もどなたかに、再就職を頼んでいただけませんか?」
「そうだなあ・・」
事務員にも夫と息子がいる。
彼らの今後の生活のことを会社が面倒を見ることができないのなら、俺が何とかしたい・・そう思ってはいる。
「いろいろ当たってみるよ・・」
そう言い捨て、和夫は得意先への事情説明に営業所を出て行った。
その日の夜、由紀子から和夫の携帯電話に電話があった。
和夫はまた帰宅が遅くなり、地下鉄の駅からの最終バスに乗れずに、数キロの道を歩いているところだった。
「島田所長さん!ありがとうございました!あたし、来月、お盆明けから皐月スタジオの千葉のホテルで働かせていただくことになりました!」
「ユキちゃん!良かったね!で・・・向こうにはいつ発つの?」
「お盆の前には、行くつもりです。向こうでも準備とか、色々あるし・・」
「そうか・・よかった。でね・・その前にでも、一度会いたいのだけれど・・」
「あ・・はい・・あたしもお礼をしなくちゃ・・」
「お礼なんて・・どうでもいいよ。一度、ゆっくりと会おうよ」
「わかりました・・でも・・しばらく忙しいのです。夏のセールの間、あたし、最後の仕事を頑張ることにしたので・・」
「わかった・・時間が空く日があったら、連絡をくれたらいいから・・」
由紀子は自分を避けているのだろうか・・
いや・・彼女から連絡をくれたのだから、避けてはいないだろうとも思う。
あの夜・・抱き合ったと言っても、夜の公園だ。
文字通り、抱き合っただけで、そこから先へは進めなかった。
だが、一度は本当に抱き合ってみたい・・彼女と夜を共にしたかった。
自分の年齢も、考えている。
只の夢想でしかないかもしれない・・それでも、その思いは強くなる。
「いや・・ここは・・落とし穴にはまってはダメだ・・ユキちゃんのために・・」
彼はそう言い聞かせながら、自宅への道を汗をかきながら歩いていた。
結局、由紀子は時間が調整できなかったらしく、やっと二人が会えたのは今から東京へ旅立つと言う日だった。
「本当に、夜行バスで行くの?」
待ち合わせの居酒屋に大きな荷物を持って現れた由紀子に、笑顔で和夫は問いかけた。
「だって・・荷物はあるし、乗り換えは辛いし、バスなら新幹線の半額でいけるんですもの・・」
和夫は苦笑しながら訊いた。
「バスは何時にでるの?」
「22時30分なんですよ・・」
今からなら3時間もない。
その3時間が、かけがえのない時間なのだ。そう思うことにした。
「でも・・本当に、島田所長さん、ありがとうございました・・」
「お礼はさ、向こうである程度頑張ってからでいいよ・・本当に頑張ってよね・・」
「はい!頑張ります!やっと、本当にしたい仕事につけるんですもの・・」
和夫は聞きながらビールのジョッキを空けた。
由紀子は今夜はあまり飲まない。
少しずつ飲んでいる感じだ。
「どうしたの?今日は飲まないの?」
由紀子は少し顔を赤らめて答えた。
「今からバスに乗るでしょ・・おしっこがしたくなったら・・困るじゃないですか・・」
「ああ・・でも、バスにトイレはあるだろう・・」
「島田さん・・夜行バスのトイレって、行くとすごく目立つんですよ・・」
「それなら、途中のサービスエリアもあるだろう・・」
「ええ・・そうですけど・・」
そう言って、悪戯っぽく和夫を睨んだ。
けれども彼女は積極的にジョッキを口に運ぶことはしなかった。
ジョッキには少し口をつけるだけで、あとは料理を食べる方に専念しているようだった。
「島田さんの会社、色々お聞きしていますけれど・・どうなっちゃうのですか?」
由紀子が話題を変えた。
あまり和夫が話したくない話題だった。
「うん・・神戸は今月一杯で閉めちゃうんだ・・」
「えー!ホントだったんですね。じゃ・・島田さんはどうされるのですか?」
「あまりまだ、考えていないんだ。今は、他の部下たちの今後を考えないといけないしね・・」
「でも・・島田さんもきちんと考えないと、奥さんが悲しまれるでしょ・・」
奥さんと言う言葉を出す由紀子が妻と同じような大人の女に見えた。
「うん・・まだ、表沙汰に出来ない話だけれど・・」
「ちょっとは考えておられるんですか?」
「うん・・実は、うちの子会社がチェーン展開しているDPEショップのオーナーをしないかと言われているんだ・・」
その話は現実になりつつあった。
会社からは退職金もある程度は出すという。
その退職金の一部を使って、DPEチェーンの店をどこかに出してはと、これは会社の上層部からいわれている話だ。
いまどきDPEなんてと思う。
けれども、最初から完全にデジタル・プリントショップとして完成した店を作り、コストを下げればある程度の波に乗れる自信はあった。
DPEの仕事は減るのは目に見えている。
だが、完全になくなりはしない・・
残るほうにかければ、彼の経験と感覚があればやっていける・・
だが、そのためには、これまでの顧客だった店のいくつかを敵に回すかもしれない・・それは彼にとっては苦渋の決断だった。
出来れば波風を立てず、隙間に入り込みたかったが、それは出来ない相談だった。
年老いた夫婦で経営し、デジタル化の波にも乗れていない前時代の遺物のような写真店は、彼が出なくともいずれ撤退せざるを得ないのだ。
「ええ!それじゃ、お店のオーナーになられるのですか!すごいですね!」
由紀子は飛び上がらんばかりに言う。
「おいおい、まだ決まったわけじゃないし、それに大きな声を出すと、誰が聞いているか分からないよ」
苦笑しながら、それでも、由紀子が喜んでくれたことで、新しい道への幾分かの安心感を持てたような気になった。
「すみません・・小さな声にします」
彼女は囁くように言って、悪戯っぽい笑顔を見せた。
「でも・・ユキちゃんに喜んでもらったから、踏ん切りがついたよ」
「よかったー!島田さんも、新しい人生の始まりですね!」
小さな声にすると言っていたすぐそのあとで、彼女はまた弾んだ声で言う。
和夫は一瞬、由紀子の胸元を見ながら、そこを開けてみたい衝動に駆られた。
服の上からの感触は、びっくりするほど豊かで、張りのあるふくらみが、そこにあることを確信させていた。
けれども、それは幻想でしかないのだ・・
「どうされたのですか?島田さん、黙ってしまって」
「あ・・いや・・何でもないよ・・」
時間は思うよりはるかに早く過ぎていく。
二人はJRの高架下にある小さなバスターミナルヘ向かった。
時刻はもう10時半近い。
居酒屋で思わず長居をしてしまった。
高架下のバス乗り場には、見慣れない塗装の大型バスが止まっていた。
フロントに「新宿」と書いてあった。
「ありがとうございました!あたし、頑張りますね!」
「ああ・・僕も頑張るし、お互い、張り切っていこうね!」
礼を言って、バスに乗ろうとする由紀子の肩を和夫は、突然、後ろから掴んだ。
「君を見送るのは辛いんだ・・」
由紀子は肩を掴まれたまま、俯いていたが、ややあってから振り向いた。
「島田さん・・ありがとうございました。あたしにとって、お兄さんでいてください。お願いします」
和夫は手を離して「すまない」と詫びた。
「いいえ・・ありがとうございます。でも、その方がずっといい感じでいられると思うんです」
「そうだよね・・僕は自分を強く持つよ」
「じゃ!行きますね!」
そう言ったかと思うと由紀子は、バスの入り口めがけて駆けていった。
運転士にチケットを見せ、彼女は振り向いて和夫に手を振った。
そしてそのまま、バスの中へ消えていった。
和夫はしばらくその場所に立っていた。
バスの窓にはカーテンが引かれ、車内の様子は窺い知ることが出来ない。
やがて、新宿行きの、関東の電鉄会社のバスはゆっくりと発車した。
高架下の車庫から、直角に道路に出る。和夫は、待合所向かいの道路からバスを見送った。
一番後ろの窓のカーテンが開いていた。
見ると、そこから由紀子が笑顔で手を振っていた。
和夫も手を振り返した。
バスはそのまま先の交差点を左折し、すぐに見えなくなってしまった。
今からすぐに地下鉄に乗れば、彼の自宅への最終路線バスに間に合う。
彼は地下鉄への道を歩き始めたが、走っているタクシーを見て考えが変わった。
財布に3万円くらいはあるだろう・・
そう思うと、彼はタクシーを止めた。
「すまん、神戸の夜景を山の上から眺めたいんだ。往復してくれるかな?」
「夜景ですか?」
運転士は怪訝な顔をして言う。
「そうだ・・何処でもいい、見終わったら、また三宮に帰ってくれれば、それでいいんだ」
「分かりました・・天覧台でいいですか?」
「天覧台?」
「六甲山上ですよ」
「何処でもいい、そこがよければ、そこでいいよ」
タクシーは神戸の町を東へ走り始めた。
「お客さん・・何かあったのですか?」
「何か?」
「ええ・・お気に触りましたら、ごめんなさい・・一人で夜景を見に行かれる方って・・その・・失恋した女の子とか、そう言う人が多いんで・・」
「ああ・・・そうだな・・言ってしまおうか・・女に逃げられたんだよ・・」
運転士はちらりと後ろを見て「了解です・・最高の夜景をご覧いただきましょう・・」そういって、スピードを上げた。
由紀子の乗ったバスは空いていた。
バスの車内は独立した座席が3列に並んでいたが、その半分も埋まっていなかった。
最後尾の座席で、シートを倒し、横に人がいないのを良いことに、カーテンを少し開けて外の景色を眺めていた。
景色とはいっても、高速道路の防音壁越しに町の明かりが少し見えるだけだ。
バスが名神高速に入ってまもなく、速度は落ちて、やがて停まってしまった。
渋滞に飲み込まれたようだが、そのまま、1時間ほどバスは動かなかった。
由紀子は和夫との、先ほどまでのやり取りを思い起こしていた。
・・島田さんも、男の嫌いな部分をもっている・・そう思った。
彼と飲んだあの夜、由紀子はわざと彼に甘えて見せた。
別に酔っているわけではなかった。
由紀子は父親を中学生に時に亡くしていた。
だから、大人の男性に知らず知らずに甘えてしまうのだったけれど、男たちは例外なく、甘えてきた彼女を女として扱った。
彼女が心を許して、男たちの前で、甘えると男たちは大抵、その彼女を自分のものにしようとした。
それは、4年近く彼女が勤めていた、甲南フォートの店長も同じだった。
店長は仕事が終わると、彼女を自分のアパートに呼び込もうとし、実際に、彼女は何度も、彼のアパートへ連れて行かれた。
断るに断れない雰囲気のようなものがあったのだ。
けれども、和夫がこれまでの男たちと例外的に違うのは、下心は持っていたけれど、それを彼も押さえようと努力していた点だった。
和夫は彼女を抱擁したけれど、その日も、それ以上には誘ってこなかった。
今日も、一瞬だけ彼女を不快にさせたけれど、彼女がたしなめると彼はすぐに手を引いた。
両肩には彼の手で掴まれた感触が残っていた・・それは、今は不快なものではなくなっていた。
・・東京では、気をつけないと・・あたしは、どうしてこんなに弱いのだろう・・
冷房が程よく効いた車内で、由紀子は久々に味わうゆったりした時間を楽しんでいた。
やがて、バスはゆっくりと動き始めた。
停まっては動きを、それから30分ほど繰り返し、バスは本来の速度を取り戻した。
由紀子はカーテンを閉め、少し眠ろうと思った。
天覧台の展望台に上がった和夫は思わず歓声を上げた。
それは夜景などと言う生易しいものではなかった。
巨大な光の生き物が、地面一杯に広がっているように思えた。
大きな光の渦は、そのまま彼に迫ってきそうだった。
「どうです?ここはいいでしょう・・」
運転士が煙草をくゆらせながら、自慢げに言う。
「素晴らしいなあ・・言葉がないとはこのことだね・・」
「関東の方から来られたのですか?」
「いや・・関東の人間だけど、もう6年も神戸に住んでいるよ」
「六甲の夜景は初めてですか・・」
「そうなんだ・・いつか見てみたいと思いながら、忙しくて見る機会がなかったんだ・・」
和夫は驚いた気持ちをゆっくりと整え、光の中にある真実を見極めようと思った。
さすがに山上で、蒸し暑い都心とは違い、涼しい風が吹いていた。
小さな光が、無数に集まって、巨大な銀河を形成している。
その小さな光は、庶民の家だったり、道路の街灯だったり、商店や会社の看板だったりした。
あの一つ一つの小さな光の中に、それぞれに物語がある・・例えば、俺と由紀子のように・・あるいは俺や、妻や娘のそれぞれが、小さな光ひとつの中で自分の人生を生きているように・・
無数の光の集合体は無数の人生の集合体だ。
俺がいくら頑張っても、その光の渦から逃れるすべはないのだ・・
つまりは、それが俺と言う、あるいはそれぞれの人々の命の輝きのようなものだ・・
やろう・・もう一度、全力で、生きて小さな光を一つ、この中につくってやろう・・
そう思った。
道は開けているはずだ・・自分を信じてやってみよう・・
かれは、ここで由紀子にその決意を聞かせたいと思ったけれど、すぐに首を振り、その考えを打ち消した。
「小娘・・また会える気がするよ・・君に教えられたことは大きかったような気がする・・」
和夫は夜景に向かってつぶやいた。
由紀子の乗ったバスは快調に走っていた。
1時間半ほどの遅れは出ているはずだが、バスは、快調に、そして坦々と走っていた。
道路工事でもしているのか、ひどく乗り心地が悪いところがあった。
突き上げ、しゃくりあげるような乗り心地で、由紀子はうたた寝から醒めた。
「何処だろう・・」
そう思って窓のカーテンを開けた。
「あ・・」
歓声が大きな声となって出そうなのを、彼女は堪えた。
彼女の目の前に広がっているのは、夜明けにまだ時間がかかる、空の色がほんの少し青みを帯びたその空の下・・町の明かりに囲まれたさして大きくない湖だった。
「銀の湖・・」
小さな声で彼女はつぶやいた。
高速道路の遥か下、湖は水面を鏡のように輝かせていた。
それは光が反射するような輝きではなく、湖自体が自分の意思で生きていることを示しているかのような、鈍い輝き方だった。
バスは、お構いなしに、高速を飛ばしているけれど、湖の景色はしばらく続いた。
・・もしかしたら、この湖には湖の神様がいるのかもしれない・・
あまりの神秘さに、彼女はそう感じた。
この時刻は、湖の神様と、空の神様がお互いに話をしているような気がする・・
しゃくりあげるような乗り心地は続いた。
自分が少なくとも、神様には守ってもらっているような気がした。
手のひらを合わせ、彼女は湖に向かって祈った。
「どうか、どうか、島田さんのお店が成功しますように、そして、あたしの人生が、いい人生でありますように・・」