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story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

羽衣秘話

2005年07月28日 21時50分47秒 | 小説
この作品は8世紀頃の播磨の国、現在の加古川市東神吉町を舞台にしたフィクションであります。
時代考証などはあくまでも御伽噺として割り切った部分がありますので、ご了承くださればと思います。

******************

ハリマの国のカコの厩(後の宿場町)近く、厩からいくつかの小さな川筋を超えたところにイナヒトは住んでいた。
山の麓、洪水の心配のない段丘のうえに小さな集落があった。
カミキの村と人は呼ぶ。
イナヒトはこの村に生まれた時から住んでいた。
もうじき18歳になる。
彼はムラオサの子供だった。
そろそろ妻を娶らねばならぬが、あいにく村の中に彼に釣り合うような年頃の娘は居ない。

今は2月、春とは名ばかりの冷たい風が吹く中、野良仕事をしながら時折身体を休めて遠くを見る。
もう少し暖かくなったら、田植えをしなければならない。
今は、その為に田を耕さねばならないが、一度凍てついた地面は硬く、なかなか鍬が入らなかった。
村からは遠く海が見える。
海まではここから2里ほどである。
今日も良く晴れて輝く海面が眩しい。
沖には芥子粒のような船の姿もいくつか見える。
船のあたりが煙に覆われているようだ。

「海戦やな・・」
「うみいくさ?」
長老のマツバオがイナヒトの傍にやってきてそう呟く。
「ああ・・あれは・・ヤマトかナニワあたりへ行こうとしたものが海賊に襲われているのやろう・・」
海賊・・・そう聞いただけでなにやら恐ろしい鬼が迫ってくるような気がした。
「海賊に襲われたら、どうなるのや?」
「まずは・・皆殺しやろうな・・女なら,なぐさみものにするために生かしておくかも知れぬが、いずれ殺される・・」
「むごいなあ・・なんでそんなことを・・」
「船にもよるわい、魚釣船なら襲ったところでたいしたことはないわ・・襲われる船は、多分、新羅あたりからの使節やろうなあ・・」
「それは・・なんで、分かるのや?」
「よう見てみい・・船が何艘かつらなっとるやろ・・あれは船団を組んで遠くまで行くためなんや・・」
「何艘も連なるのやったら、やられるだけやのうて、やり返しもできるやろ・・」
「できるかい・・よう見てみんかい・・反対から突っかかっとるのが海賊や・・海賊の方が船も多いやろ・・」
「そんなん・・国司やヤマトの兵隊は追い払われへんのかいな・・」
「無理や・・あの感じやったら、海賊はイヨか、もしかしたらウサの、クマソの生き残りかも知れへん・・あんなんに勝てるかいな・・」
「クマソ・・怖いんか?」
「そらそうや・・ヤマトもクマソには手を焼いとるがな・・」
そう言いながら、マツバオは両こぶしを握り合わせ、祈り始めた。
イナヒトもつられて祈った。
少しでも船に乗っている人が助かりますように・・

翌日も良く晴れていた。
大体このあたりは一年を通じて晴れる日が多い。
晴れる日が多いのは良いが、時折、水が足らなくなる。
それで山の麓等に溜池をたくさん作ってあった。
イナヒトはムラオサである父に言われ、溜池の様子を見に緩やかな坂を登っていた。
振り向けば海が見え、彼はこの景色が好きで、時折振り向いては、海のほうを見ていた。
溜池は土手で囲まれ、坂を上り詰めないと様子はわからない。
草に埋もれて、きらりと光に反射するものがあった。
イナヒトはそれを手にとってみた。
彼が見たこともない、透明な珠で作った輪のようなものだった。
これは・・何をするモノやろう?・・不審に思いながら、彼は土手を上がり、池の水面が見えるところまで来た。
水嵩はまだしっかりしていた。
この池には山から僅かだが湧き水が流れるので、余程の日照りでもないと枯れることはないのだが、それでも数日に一度はこうして様子を見に来なければ何が起こるか分からない。
一度は池の中に鹿の死体があって、それがそのまま腐食し、水をすべて抜いて入れ替えたこともあった。

池の水面を見渡した彼は、水嵩に安心し、視線をやや池の端の方に移した。
「あ!」
彼は叫んで、次の瞬間、その方向に駆けていた。
そこは山の裾がそのまま池の護岸になっているような場所だった。
山から流れる水が小さな岸辺を作っていて、そこに馬が2頭、そして倒れている人が3人いた。
「大丈夫か!」
叫ぶと、馬が彼のほうを向いた。
倒れている人は見慣れない服装をしていた。
兵士のようだったが、イナヒトがこれまでに見た兵士とは着ているものが全く異なっていた。
「サラムサルリョジョ!」
一人の兵士は生きているようで、残った力で何かを必死で叫んでいる。
彼の背には大きく斬りつけられた跡があった。
血がたくさん流れ出ているようだった。
彼は何度も叫んでいるが、言葉は全く分からない。
「何が言いたのや!喋っている言葉がわからへんがな・・」
イナヒトは男の背を抱き上げながら、それでも男の言葉の意味を知ろうとした。
男はやがて、指をさして、その方向に何かがあることを悟らせようとした。
イナヒトは男の指す方向を見た。
赤い布をかぶせられて、何かがそこにあった。
男の体から手を離し、彼はその赤い布に近づいた。
見たこともない、美しい模様のはいった、軟らかな布だ。
布に手をかけ、中を見ようとした。
布はいきなり動いて、彼を驚かせた。
「サルリョジョ!サルリョジョ!」
女の声がして、布の反対側から髪の長い女が顔を出した。
恐怖におびえていた。
女も怪我をしているようだった。
紫に変色した唇、震えが止まらない身体・・
「怖がらんでええ!わしは何もせえへん!助けてやるから・・」
イナヒトは必死に説明しようとした。
彼は座り込んだまま、両手を広げ、大袈裟に大丈夫だと仕草で分かるようにしてみた。
女はようやく落ち着いて、身体を起こし、彼のほうを見た。

女の顔は青ざめている。
まだ2月だ。
昨夜からここに居たとすれば凍死するかも知れない。
凍死しなくても、間違いなく風病にかかるだろう・・
そうだ、まず火を起こしてやろう・・彼はそう考え、野焼きをするときの為に懐に入れていた火打石で火をおこした。
適当に枯れ枝を集め、火を少し大きくしてやり、女に手振で火に近づくように伝えた。
女はそれを理解したのか、何度も頭を下げて手のひらを合わせて彼を拝むようにした。
赤い着物は泥に汚れていて、すっかりはだけてしまい、着物としての用は成さなくなっていたが、女はその着物を布団のように被って、火に近づいた。
女は赤い着物の下にも、薄い色合いの、柔らかそうな着物を着ていた。

女を火にあたらせてから、先ほどの男を見ると、眠っているようだった。
イナヒトが男の身体を掴むと、その身体は既に冷たくなっていた。
もう一人、横たわっている男は肩を切り下げられたらしく、昨夜のうちに息絶えたものと思われた。
その男の周りに飛び散っている大量の血は既に黒くかたまっていた。

「何をしとるんや!」
イナヒトの父、ムラオサのイナオトだった。
池を見に出かけたイナヒトが何時までも帰らないので心配して見に来たようだ。
「そこに誰かおるのか?」
土手の上から叫んでいる。
「この女がまだ、生きてるんや・・」
イナヒトが叫ぶと、父は駆け寄ってきた。
「これは・・新羅の女人やないか・・」
「新羅?・・どこや?」
「・・海のずっと向こう・・そうやな・・船で一月ほどかかるところの国のお人や・・」
「父様・・なんで知ってるんや・・」
「わしは、若い頃、国司の役人やったさかいな・・」

風が冷たい。
イナオトは「しばし待っとれ!」と言い残して村へ戻った。
女は安心して気が緩んだのか、小刻みに震えていて、その震えが止まらないようだった。
「よし・・ワシがあっためてやろう・・」
イナヒトは女の身体を正面から抱きこんで、そのまま一緒に火にあたりながら、女をさすってやっていた。
女は震えが少し納まると涙を流し始めた。
何かを言おうとするが、やはり言葉はまったく分からない。
女や死んだ兵士が使ったであろう馬が2頭、所在なげに歩き回っている。

「イナヒト!」
父、イナオトが叫ぶ声が聞こえた。
火は殆ど消えかけていたが、女はイナヒトが体を抱きながら擦ってやった事もあって、すっかり落ち着いていた。
「厩の鍛冶職人や・・この男は新羅の言葉が判る・」
イナオトは職人風の男と、村の男女数人を連れてきていた。
「可哀想に・・これを飲んでや・・」
村の女の一人が、土器に入った飲み物を女に飲ませた。
女は飲み物を飲んで、また涙を流した。
とっておきの濁酒を飲ませたのだった。
「この女に、どこから来て、何があったか聞いてくれ・・」
イナオトが鍛冶職人にそう頼んだ。

新羅を出た遣日本使は、難波津までは船で行く。
厳冬期を避け、春の兆しが見えた頃、ようやく出発した船団は、順調に航海を続けていたが、播磨灘で海賊と出会ってしまった。
海賊の方は、その前から船団に目をつけてはいたが、近傍の海賊達と連絡を取り合い、それが集結したのが播磨灘だったわけだ。
海賊達の火攻めによる攻撃は船団をばらばらにした。
使節の乗った船は、真っ先に狙われ、放火、略奪、惨殺・・そして船は沈められたと言う。
女は新羅の高家の娘で、実は滅ぼされた百済の血をひいていた。

(ヤマトは白村江の戦で新羅に大敗してから朝鮮半島には不介入を決めていたが、この頃になると百済・任那の血をひくものは新羅の官僚としての出世を阻まれるようになってきていた。
百済の貴族だった女の実家は百済再興の夢をヤマトを頼って現実にしようとし、女はそのための貢物であったわけだ。
もちろん、新羅政府が送り出す使節に百済再興のための貢物を載せることなど出来ない・・そのため、百済再興の件は女の頭に記憶させるだけにして、只単にヤマトへの贈り物として船に乗せることに成功したのだ。)

何とか岸辺にたどり着いた女の乗った船から、全ての乗船者が陸地へ逃げ出したが、殆どが海賊達によって捕まった上、惨殺された。
かろうじて、女と彼女を守る兵士のみが囲いを抜け出し、逃げ切ることが出来たのだが、兵士二人は海賊との戦いで重傷を追っていた。
静かな池のほとりで、力尽きたのだった。

「国司に伝えんと・・」
イナオトがつぶやいた。
鍛冶職人がそれをそのまま女に訳して伝えている。
女は激しく首を横に振った。
国司の役人に連絡するのは止めて欲しいらしい・・
鍛冶職人は、少し困った表情でイナオトを見た。
「この村に居たいかどうか、聞いてくれ・・」
それを訳して伝えてやると女は頷いた。
「名前は・・?」
「テイヒ・・」
「テイヒか・・ここでは・・そうやな、おまえは遠い国・・天からやってきたことにしよう・・天からやってきたのやから、アマノヒメとでも名乗ってくれ・・」
イナオトはそう呟くと、イナヒトに声をかけた。
「これも縁やろ・・この女はおまえに預ける・・」
そう言って、今度は村の男たちにテイヒを守って死んだ兵士の死体を丁寧に葬るように指示を出した。
テイヒ改めアマノヒメは両手を合わせ、イナヒトを拝んだ。

イナヒトにとっては思いもかけないことだった。
彼は新たに家を作る必要に駆られた。
家といってもこの時代は竪穴式住居だ。
そしてその家は、村の者達が総出で作ってくれた。
イナヒトはアマノヒメと結婚した。
村の神に結婚を報告し、国司の役人には贈り物をしてごまかし、二人の結婚は成立した。
土地の言葉がまったく判らなかったアマノヒメは、人と会っては言葉を学び、おどろく速さで会話を身につけていった。

雨の日、二人は向かい合ってそれぞれに作業をしていた。
「ねえ・・イナヒトさん・・聞きたいこと、あるの・・」
アマノヒメが思いつめたようにイナヒトに語りかけた。
「なにや?」
「あたしが着ていた、着物・・どこにあるの?」
「着物?」
「そう・・あたしが助けて貰った時、着ていたの・・」
「ああ・・あれは・・どこにやったんやろう・・血が付いていたから・・片付けたのやけれど・・」
「探して欲しい・・あれがないと困ること、できる・・」
分かった・・イナヒトはそう答えながら、実はその着物は彼が両親の家に隠してあることを思い出した。
着物はハリマでは見られないような美しいものだったが、妻のアマノヒメがそれを見つけると故郷を懐かしんで、帰りたいと言い出さないか、それが心配だったのだ。
といっても、ハリマから海の遥か向こうの新羅などへ行ったことのあるものは居なかった。
遠くへ行くといっても、せいぜいアワジかアワ・・あるいはキビあたりが関の山で、役人にヤマトへ行ったことがあるものが居る程度だった。
新羅から流れてきた鍛冶職人はカコの厩に住んでいて商売をしていたけれど、彼はとうに故郷の国へ帰る気をなくしているようだった。
遠い国へはもう帰ることができるはずもなく、思い出させるだけ哀しみを増やすだけかもしれないと、これは彼の父、イナオトが言った言葉だった。

それからも時折、アマノヒメは着物の事を聞いた。
イナヒトはとぼけ続けていた。
やがて二人の間に子供が生まれた。
可愛い、丸々とした男の子だった。
イナマルと名づけられた。
イナマルは頭が良く、体も大きく、5歳頃には大人顔負けの弁舌をするようになっていった。

キビの国で反乱が起こったのはその頃だった。
山に隠れていたイズモの民が、失地回復を狙って、国府や町を攻撃したのだった。
ヤマトから大勢の兵隊がキビの国へ送られていくようになった。
カコの厩は毎日、兵隊達で賑わっていた。
そんなある日、立派な兵士がカミキの村にやってきた。
「ムラオサ・・お伺いしたいことがある・・」
イナオトは、兵士の身なりを見て、只者ではないと思い、丁重にもてなしていた。
「はい、私で分かることでしたら、何なりと・・・」
「わしは、ヤマトの天子様のご命令で、これから軍隊を率いてキビの国へ向かう途中であるが、どうしても知りたいことがあって、ここへ来させていただいたのだが・・」
「ほう・・天子様直々のご命令でございますが・・」
「うむ・・それで、訊きたいことというのはのう、6年程前、この近くで新羅の使節が乗った船が海賊に襲われた・・そのことはご存知かのう?」
「さて・・私どもは所詮、田舎者ゆえ、分かりかねますが・・」
兵士は、そうかと言ったまま、腕を組んで考え込んだ。
ややあって、口を開いた。
「実は、その船に、ワシの許婚が乗っておってのう・・もしやこのあたりに逃げ込んではおらぬかと・・そう思ったのだ。それにこの村に、異国からきた花嫁が居ると聞いてな・・」
「異国からきた花嫁でございますか・・」
「うむ・・居るであろう・・そのものに会わせてくれぬか・・」
異国からきた花嫁が居るということを兵士が聞いていたなら隠しとおせるものではない・・イナオトは一瞬、考え込んでしまった。
「はい、確かに、この村に異国からの花嫁は居りますが、今はそのものの夫と共に遠くへ狩りに行かせております。数日は帰らぬ見込みですので・・」
居ることは認めたけれども、狩りに行っていると嘘をついた。
時間を稼ぐしかない・・咄嗟の判断だった。
「狩りとな・・わしは、明日にはキビへ向けて発たねばならぬ・・」
兵士は心底残念そうに、溜息をついた。
「いや・・わしは何も、その花嫁がわしの探している女子だとしても、無理に連れて帰るようなことはしないつもりだ・・只、会って話がしたい・・」
兵士が嘘を言っているとは思えなかった。
けれども、イナオトは、嘘をつきとおすことに決めた。
「それならば、恐れ入りますが、ヤマトへの帰還の折に、今一度、お立ち寄りくだされば、いかがでしょうか?」
その言葉に、兵士はイナオトの顔をじっと見た。
「武士(モノノフ)たるもの、戦に行けば生きて帰れるかどうか・・分からぬではないか・・」
「それならば尚更のこと、必ず戦に勝って、生きてお帰りくださいませ・・その方が戦でも、力が出るかと思いますが・・」
そうか、そうよな・・兵士はそう言って、少し笑顔を見せた。
「折角でございます。酒肴もございますので、今宵はゆるりと、お休みください・・御伽の女人も呼んでおりますので・・」
「かたじけない・・されど、伽は要らぬ。酒だけ、存分に飲ませてくれればありがたい・・」
兵士は苦渋に満ちた表情でそう言ってから、ゆったりと座りなおした。

村の若い者に兵士の接待を言いつけてから、イナオトはイナヒトの家に出むいた。
「アマノヒメ・・アマノヒメは居るのか?」
小さな声でそう言いながら、薄暗い家の中に入っていった。
夫婦とも家に居た。
どうやら兵士がアマノヒメを探しているらしいとの噂で、家の中に隠れていたのだ。
「父様、やはりアマノヒメを探しとるんか?」
心配そうにイナオトが聴く。
「そうらしいのや・・アマノヒメ・・お前の許婚だといっているのや・・」
「許婚・・」イナヒトが絶句する。
「許婚・・それは違います。・・勝手に、父様が決めた。ヤマトに戦の加勢をしてもらうって・・」
アマノヒメは眠っている息子、イナマルの頭を擦りながら答えた。
「それは・・本当か?」
イナオトの声が厳しくなった。
「このままでは百済の人、新羅ではと同じ・・だから、もう一度、百済の国を作りたいから・・」
ふう・・と溜息をつくイナオト、所在なげなイナヒト・・
「だから・・着物を返して欲しい・・着物に、ある・・その書状・・」
「着物?それだけで良いのか?相手はお前を許婚だと言っておる・・お前はその兵士の男に、会ったことはないんか?」
アマノヒメは無言だった。
「その男は、今宵は酒だけでよい、伽は要らぬと言うのや・・」
しばらく黙ったあと、アマノヒメは搾り出すように声を出した。
「会ったこと・・ある・・その人、使節の警備で新羅にきた・・」
「やはりな・・」
イナオトが考え込んでしまった。
「でも・・怖い人・・」
アマノヒメは声を震わせる。
「どういう怖さや・・?」
「なんとなく・・大きくて、声が大きい・・あたし、声が大きい人、怖い・・」
ふっ・・もういちど溜息をついたイナオトは「今日はここから出たらあかん・・あいつは戦のあとにまた立ち寄る。その時までに、心を決めるのや・・」
「心?」
「そうや・・お前がここにいるか、ヤマトへ行くか・・それを決めておくのや・・」
イナオトはそう言い捨てて竪穴式の質素な家を出た。
すぐに息子、イナヒトが追ってきて、父、イナオトを村のはずれへ手引きした。

村を見下ろす小高い場所には夕方の光が満ちていた。
タカミクラの神の山に夕日が沈む寸前だった。
イナヒトは、誰も回りにいないことを見渡し、イナオトを問い詰めた。
「父様、何で、アマノヒメが決めないかんのや・・」
父イナオトは、神の山を見ながらつぶやいた。
「お前にも、アマノヒメを諦めてもらわな、ならんかもな・・」
「父様、何でや?」
風が出てきた。遠くの海が輝いている。
「あの男は、アマノヒメに相当惚れてるのや・・見たらわかる・・」
「それが、どないしたのや・・・」
「あの男は、相当の官職にある。新羅までついていき、キビでの戦では兵隊をまとめる・・ヤマトでの地位は相当なものの筈や・・」
「わしらでは、その男には勝てんのか?」
「勝てるわけがない・・いや、勝とうと思えば勝てるやろう・・あかん、アマノヒメは渡さへん・・そういえば、あいつは諦めるやろ。そやけれど、ここは引いて、あの男に花を持たせたほうが、村の為かもしれん・・」
「アマノヒメは嫌がってるやないか・・」
「それはアマノヒメがあの男の真実を知らんからや・・わしは、相当の人間やと思った・・」
イナオトは人を見る目は確かだ。
イナオトがそう言うのだから、その兵士は多分立派な人間なのだろう・・けれども、イナヒトは自分の妻を兵士に渡す気にはなれなかった。
「父様・・わしは嫌や・・」
「アマノヒメは、ヤマトの都で華やかな生活をさせてやりたい・・わしは、今はそう思っているのやがな・・」
「嫌や・・嫌や・・」
イナヒトは地面にしゃがみこんで泣き始めた。
「一生この村に居て、田を耕し、子供を育てる女ではないと思うのやがな・・」
それだけ言うとイナオトは一人で村のほうへ向けて歩き始めた。
日が暮れかけた丘でイナヒトは何時までも泣き続けていた。

3ヶ月ほどした日の午後、カミキの村は突如、何千と言う兵隊に囲まれた。
異様な雰囲気になり、村の若い者も咄嗟に、イズモかクマソか・・そう思ってありったけの武器を取り出して、ムラオサの家の前に集まった。
しかし、村で唯一のきちんとした建築のムラオサの家では、ムラオサであるイナオトと、兵隊の指揮官のような人物が話をしていた。
「村の者を驚かせて申し訳ない、今宵はこのままカコの厩に兵を連れて行かねばならぬ・・兵は疲れておるがゆえ、早くヤマトへ戻さねばならぬ・・わしには時間がない・・約束どおり、異国からきた花嫁に会わせていただきたい」
「分かっております。ほんの少し、お待ちくださいませ・・」
イナオトはそう言い、兵士には休息の床机を与え、村の纏め役の女を呼んだ。
「アマノヒメをこれへ・・・かねてから申し付けてあるやろ・・そのとおりにしてや」
女は一瞬、驚き、戸惑う表情を見せたが、イナオトがきつく睨むと、腹を決めたように、走っていった。
アマノヒメは泣きながら、それでも、素直に纏め役の女に従ってついてきた。
「アマノヒメ・・これを・・」
イナオトは、自宅の奥からアマノヒメが助けられた時に着ていたふたつの着物を持ってきていた。
アマノヒメは兵士の前で跪き、その着物の赤い方の襟に手をかけた。
兵士はアマノヒメを見た瞬間、上気したような表情になった。
「おお!テイヒ!・・まさしく、テイヒではないか・・生きていてくれたか!」
アマノヒメは、少しだけ兵士の顔をみたが、一心に手に持った着物の襟元を解いていた。
村のものも、兵士の部下たちも遠巻きにしてみていた。
けれども、イナヒトだけはここに居なかった。
「これ・・これが・・あなたが・・要るもの・・」
アマノヒメは、兵士に皮で出来た書状のようなものを渡した。
兵士はそれを手にとって、一瞬、表情を厳しくし、けれどもすぐに書状を懐にしまいこみ、アマノヒメを見た。
アマノヒメは顔を兵士からそむけていた。
「これは、分かっている・・わしにはどうにも出来ぬ・・天子様が決めることだ・・」
兵士はそう呟いて、顔をそむけているアマノヒメに、意を決したように語り掛けた。
「わしの所へは来てくれぬか・・テイヒ・・」
アマノヒメは顔をそむけたまま、何も言わない。
やがて兵士は意を決したように立ち上がった。
「分かった・・お前にとっては今が幸せなのであろう・・」
そういい、あとの言葉を飲み込んで、身体の向きを変え、立ち去ろうとする。
「お待ちください!」
イナオトが叫ぶ。
「アマノヒメ・・テイヒを、あなたさまに、ヤマトへ連れて行って頂きます!」
兵士の男は一瞬、立ち止まった。
身体の向きは変えない。
「このものを、あなた様と共に、お連れ下さいますように・・」
今度は静かにイナオトは言った。
「良いのか・・それは本当に良いのか・・」
アマノヒメは何も言わないで、只、俯いている。
「テイヒ・・わしのところへ来てくれるのか・・」
兵士はようやくアマノヒメに向かい、優しく、静かにそう言った。
アマノヒメは軽く頷いて、それでも、顔を上げない。

「ムラオサ・・何か望みはあるか?」
兵士はイナオトにそう訊ねた。
「望みでございますか・・」
イナオトはさして気にせぬというような答え方をした。
「テイヒを助けていただき、これまでこの村に留めてくださり、しかも、わしに渡してくれた・・ひとつ、望みをかなえるように、ワシから国司に伝えるが・・」
「いえいえ・・別に何も望んではおりませぬ・・」
そう答えた時、子供が走って入ってきた。
「カカさま!カカさま!」
イナマルだった。
子供は泣きじゃくりながら、アマノヒメに抱きついてきた。
アマノヒメはイナマルを抱いた。
「お前の子か・・」
兵士が訊いた。
アマノヒメがきつくイナマルを抱きしめながら何度も頷く・・
兵士はしばらく呆然と母子を見つめていた。
やがて、大きく頷くと、大声でこう言った。
「わしは、この村のものに、最大の恩を授かった・・村のものよ・・礼は後程、沙汰する・・この子もわしが連れ帰り、都で役人になれるよう育て上げよう!皆のもの、わしが言ったことを覚えておいて欲しい・・」
兵士は宣言したあと、すぐに彼の軍に出発を命じた。
「ムラオサ!恩にきるぞ!」
アマノヒメとイナマルは彼の部下によって馬の背に乗せられ、そのまま連れられていった。
大勢の兵隊が一瞬にして去ってしまったあと、纏め役の女がイナオトに叫んだ。
「これで・・ええ筈、ないやんか・・」
女は大声で泣き喚いていた。
イナオトは女や、周りの村人を気にも留めず、去っていく軍馬を見送っていた。
・・これで、ええのや・・人にはそれぞれに相応しい場所があるのや・・
そう思った。

軍が川を渡るところにイナヒトは居た。
軍に立ち向かうかのように、彼は突っ立っていた。
「どけ!どかぬか!」
先頭の兵士が叫ぶ。
彼は、無視して立ち続けた。
怒った兵が、鉾を振り上げ、彼に迫ってきた。
「まって!」
軍の先頭から少し後ろに居たアマノヒメが叫んだ。
「止まれ!」
指揮官の兵士が叫ぶ。
軍は停止した。
「あたしの・・夫です!」
アマノヒメは兵士にそう叫んだ。
指揮官の兵士は馬を降り、前に進み出てイナヒトと向かい合った。
「お前が、テイヒを守ってくれた男か!」
イナヒトは、表情も変えず、礼もせず、兵士に向かってこう言った。
「テイヒではない・・今は、アマノヒメだ・・」
アマノヒメは愛する男を涙を流して見ている。
「そうか・・では、これから、テイヒではなく、アマノヒメと呼ぼう・・」
兵士はイナヒトの顔をみながら、軽く笑顔を見せた。
イナヒトは表情を変えず、兵士に向き合ったまま、叫んだ。
「兵隊さん!アマノヒメを頼む。息子のイナマルを頼む!」
「わかった。わしにはお前の気持ちがよく分かる。お前ほど立派なやつはいない・・いや、お前の村のもの、全てが立派で優しい・・」
イナヒトは初めて跪いた。
「男と男でよいではないか・・そのような礼は、お前とわしの間には似合わない・・」
優しく声をかけ、兵士はイナヒトの肩を抱き上げた。
「お前が愛する二人は、これからわしが命がけで守る・・それだけは信じてくれ・・」
二人は手を握り合った。
軍の他の兵士達は、指揮官が農民と手を握り合うのを見て不思議に思った。
けれども、それは声に出せない。
上官のすること、言うことは絶対なのだ。
「いくぞ!」
指揮官が叫び、兵士達は馬を、あるいは徒の者は自らを浅瀬に進ませた。
イナヒトは何も言えず、軍馬があげる水飛沫をみていた。
水飛沫で彼の目が霞んだように思った。
けれども、それは彼の涙だった。

村に残されたアマノヒメの着物はやがて、祠を作り、そこに祀られる事になった。
アマノヒメが去ってしばらくした頃、租税減免の通知が国司より知らされ、村の者達はアマノヒメに感謝の気持ちを抱いた。
やがて、それは天女が天から降りてきて、衣を村の樹に掛け、しばし村に滞在し、村を救った伝説として永く伝えられることになった。
この伝説は今も加古川市東神吉町天下原で伝えられ続けている。



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