*信玄*
弘治から永禄にわたる年は飢饉が酷かった。
前年の大水害は、治水工事が進んだ甲斐での被害は少なかったが、続いての異常な低温は作物の収穫を減らした。
だが、庶民は自分たちの生活が厳しくなると為政者を恨む。
武田晴信が実父信虎を追い出した背景に当時の飢饉があり、信虎は当主として飢饉への有効な対策を持たなかったこともあった。
治水・治山をし、新たに田畑を開墾し国内での移住を勧めるといった対策をしてきた晴信には、もはや万策が尽きようとしていた。
「うめよ、儂はどうすればいいのかわからぬ」
三条の方の顔を見るなり、困り切った表情で晴信は愚痴をこぼす。
「もはや為すべく策はすべて為した」
三条の方はわざと突き返すように言う。
「あら、為すべきことをすべて為したのなら、あとは神仏が、それが正しかったかどうか判断してくれます」
だが、飢饉により民が困るのは彼女にとっては辛いことである。
「うめ、そなたなら何か知恵があるのではないか」
晴信はそんなことまで言う。
自信に溢れた男が、そこまで妻に愚痴るのは珍しい。
「知恵など湧いてきませぬ、ただ、領民とともにこの苦難を乗り越える意思をはっきりと御示しになられることが肝要かと」
「すでに十分、儂も苦しんでおる・・」
「ではあとは、領民とともに神仏に祈るしかございませぬ」
そういうと、晴信は一瞬考えこんだ。
そして「そうか、神仏に祈るのか」と呟いた後、突然、馬を走らせて館を出ていく。
「ほんに、未だに子供のようなお人・・何を思い立たれたのやら・・」
三条の方が呟く。
夕刻、帰ってきた晴信を見て三条の方は驚いて声も出ない。
坊主頭に袈裟を着た姿は本物の僧侶である。
「長禅寺住職、岐秀元柏師により得度を受け、徳栄軒信玄と号する」
何やら厳かに宣言する。
大真面目な晴信改め信玄を見て三条の方は吹き出してしまう。
「御出家なさったのですか・・」
「そうだ、儂はこれから民とともに祈るその導師たるべく、決意を新たにした」
「御出家だったら、もはや、閨のことや生臭物を食すなど、出来ませぬね」
そういいながらも三条の方はまだ笑いが止まらない。
「いや、出家といっても半俗であるから・・」
「構わないのですか?」
「もちろんである、武将たるもの子はもうけねばならぬし、戦に勝つには生臭物は食わぬとだめだ」
「まぁまぁ、面白いご理屈です事」
そこへ旗下の者たちが幾人も駆け寄ってくる。
飯富虎昌が叫ぶ。
「御館様、この大変な時期に御出家されると、なにを考えておられますか」
その弟の飯富昌景も悲壮な顔をしている。
「甲斐の国はようやく豊かになりつつあるところ、今御館様が御出家されては」
信玄は頬を赤らめ、周囲を制したうえで言い放つ。
「もはや、俗人としての武将では飢饉にも戦にも勝てぬ、儂は仏の力を得て、内政にも外患にも断固として立ち向かうのである」
それを聴いた家臣たちは一様にホッとした顔つきになった。
「それならば、上杉輝虎どのとの駆け引きも今一度決着をつけねばなりませぬな」
影の方から声が聴こえた。
山本菅介と名乗る戦上手の侍大将だが、信玄には目をかけられていた。
信玄の弟、信繁が口をはさむ。
「無理な戦は禁物である、時が来れば自分のほうにその土地が流れるように仕向けることこそ上策」
「いえ、時には大いなる戦をもって決着することも必要でございます」
山本菅介が反論する・
信玄は二人を制して言い放つ。
「そうだ、善光寺平の上杉との取り合いは次の戦にて決着をつける、武田は甲斐・信濃・上野を領する大大名になる、そこもとたちも、心してついてくるように」
それは信玄の宣言と受け取られた。
膠着状態の善光寺平を武田が領することは、富裕な田園地帯を領することでもある。
翌年、信玄のもとに火急の知らせが来た。
駿河の今川義元が、西上作戦の途次に尾張の織田信長と対陣し、まさかの敗軍となったという。
義元本人も討ち取られ、大軍は総崩れとなり、西上作戦は失敗に帰した。
「うめ、よくない知らせだ」
奥にやってきた信玄は、三条の方に語り掛ける。
「何事にございましょう」
ただならぬ夫の表情に彼女は不安を覚える。
「今川義元殿が亡くなられた、尾張の織田信長に負けたそうだ」
「え・・」
三条の方は絶句する。
駿河は何があっても大丈夫だと思い込んでいた。
「二万の大軍が僅か八百の手勢に負け、義元殿も首を取られたそうだ」
「では、今川はどうなるのでしょう」
息子、太郎義信の妻は今川義元の実子である。
「義信にもなるべく冷静に伝えてやらねばな」
信玄はそういうと、どっかりと腰を下ろし酒を呑む。
「無理な戦は禁物か・・」
昨年の出家宣言のときの弟、信繁の声が思い出される。
「だが、儂は義元殿とは違う」
甲相駿三和を為すときに会った今川義元の雅な風体を思い出す。
輿に乗ってその場に赴いてきた。
「武将であるのに貴族のようであった・・・」
貴族にも武将のような恰好を好む人もいる。
武将で貴族のような恰好をする人がいてもおかしくはない。
それでも今川義元は確乎とした信念を持っていたが、父親の貴族風だけを受け継いでいると言われる嫡男の今川氏真はどうなのか…信玄にとってはあるいは、これは武田の餌場を拡大する気運ではとの思いが強くなっていた。
甲相駿三和会談の時、歴戦の勇士であり戦の数を皴に刻んだ北条氏康の険しい表情と比すれば、今川義元の公家風の装束は、確かに軟弱に見えていた。
「あの時は貴族風の風体が家柄の高さを思わせて儂は一歩下がったものだ」
信玄の独り言にも聞こえる話をただ頷いて聞いている三条の方だった。
「だが、織田信長とはどんな男なのだろう・・」
「尾張の織田様でしょうか?」
「そうだ」
「織田信秀さまがその方のお父様にあたるのでしょうか‥その信秀さまは大名方がほとんど宮中の苦境を見て見ぬ振りをしているのに、一人多額の献金をされたことが評判になったことがありました」
「ほう・・尾張一国すらまとめていない小領主が」
「なんでも商い上手で、津島という港町を有していて、そこの利益の一部だとか」
まだ会ったことのない織田信長の姿がおぼろげに信玄の中で形成される。
金は持っているという事だ。
「織田様以外では安芸の毛利さまが献金をされることでよく知られております」
毛利元就もまたどういう男なのだろう。
「うむ・・織田と毛利に共通しているのは、一国の半分に満たない小領主が、寡勢で大軍に挑んで勝っているという事だけではなさそうだ」
武田家も黒川金山を有していて、資金はそれなりに持ってはいる。
だが、都人の評判になるような多額の献金はできていない。
まだまだ内憂外患に手を焼いている現状だ
金山を持たず、港の商いで多額の献金ができるというのか・・信玄は考え込んだ。
妻の前で呑んでいるうちに酔いが回ってきて、彼は妻の膝に崩れた。
「あらまあ・・」
妻はまるで幼少のわが子をあやすが如く、坊主頭の武将の頭をなでている。
「港が欲しいのう」そんなことを呟く。
甲斐には海がない。
*川中島*
翌永禄四年、春に三条の方の次男、二郎が小県の国人、海野氏の娘を娶り、海野信親と名乗った。
前年には次女が家臣、穴山信君に嫁していて、二郎は三条の方の子では唯一、独身のままだった。
ただ、盲目であることが当時としては婚期を遅らせた原因でもあったが、目が見えないだけで、付き人さえあれば器用に生活をこなしていることから話が進んだ。
これは信玄にとっては、信濃での大作戦に際し、もしも自分が敗軍して死んだ場合、あとのことを固めるという意味があった。
まもなく、二郎信親には旗下の穴山信君の娘も側室としてあてがわれた。
とにかく、武田直系の子をもうけよということだ。
夏、武田信玄は大軍を率いて甲斐府中を出発した。
軍は一度諏訪により、善光寺平を目指す。
長男、太郎義信も参陣している。
三条の方には嫌な予感がしてならなかった。
「無理な戦は禁物ですぞ」と叫んだ信玄の弟、信繁の声が今も耳に残る。
戦が世のためになるのであれば、神仏は加護してくれるはず・・そう思い込んで不安を呑み込もうとしたが、不安はどんどん大きくなっていく。
たまらず長禅寺へ駆けこんだ。
この時期、快川は生国の美濃に帰っていた。
住職の岐秀は、急に現れた領主の奥方に驚いた。
「どうなされた」
「不安で不安で、お経など聴かせていただこうかと」
「此度の戦のことかな」
「そうでございます、出立からわが心が不安に占められております」
「それは致し方ない、誰も無理して不安を除くなどはできぬ。まして御館様やご子息が戦に出かけになられているのなら猶更であろう」
「はい」
「その不安の心を祈りに代えましょう。不安が大きければ大きいままに、祈りにして御仏に見てもらいましょう」
「不安なままで仏さまに対峙してよいのでしょうか」
「御仏に向かう時は、ありのままでよろしいのではないでしょうか」
岐秀はそう言って、暫く三条の方と祈りを共にしてくれた。
穏やかなお香が気持ちを静めてくれる。
「戦になど勝たなくてもよい、ただ生きて帰って」
彼女は本心のままに祈りを捧げる。
戦は大激戦となった。
甲越両軍が本気でぶつかり、多大な死傷者を出す。
だがその中で、遊軍であった武田義信率いる一隊は上杉政虎の本陣に襲い掛かった。
信玄の本陣からは義信に「本陣に加勢せよ」という命令が飛んでいたにも拘らずである。
武田軍の伝令、百足衆が何度も義信に強く伝えたが、彼は「今こそ上杉の本陣をつくべし」といきり立つ。
義信の一隊は上杉政虎本軍へ果敢に向かっていく。
まさか来ることはなかろうと思っていた武田の小童が、いきり立って上杉軍中枢を襲う。
上杉政虎旗下の中枢は大混乱に陥った。
政虎自身が太刀を取って雑兵とやりあう事態になり、結局、政虎は軍を引いた。
だが、義信が救援しなければならなかった武田信玄の本隊はもっと大混乱の中にあった。
弟、信繁が敵の雑兵に囲まれながらも必死で防戦する。
「義信は何をしている!」
信玄は叫ぶが、彼もまた総大将であるのに、敵の一隊と身を挺して戦っていた。
この激戦では信玄の弟、武田信繁戦死、幾多の武将が戦死し、そのなかには先日顔を見せた山本菅介もいた。
戦には勝った。
多くの将兵を失ったが、善光寺平の領有権は武田のものになった。
ある面では義信の果敢な攻撃も功を奏したともいえる。
川中島での大激戦の知らせを聞いて三条の方は心の臓が凍るかと思うほどに震え上がった。
だが、信玄率いる本体は凱旋し、諏訪にて休息しているという。
一応戦勝であるが、武田の被害は甚大でしばらく立ち直れそうにない。
自分が諏訪に行って信玄を迎えてやりたい、そう願う三条の方であったが、諏訪の方のいた場所では自分の居場所もなかろうと想いを呑み込むしかない。
冬になって帰ってきた夫は意気揚々としていた。
「信濃を抑えたぞ」と開口一番に言う。
だが、閨で衣服を脱ぐと大きな傷跡がいくつも見つかる。
「これは・・」
三条の方は傷跡を撫でながら涙を流す。
「大将までが刀合わせをされていたのですね・・よくぞ生きて帰ってこられました」
そういって信玄の身体にしがみついた。
「危ないところであった、だが神仏は、我らを見捨てはしなかった・・うめのことだ、祈ってくれていたのであろう・・」
戦の間中、甲斐府中の主な寺社すべてに詣で、戦勝や、夫と息子が生きて帰ること、なにより、戦に参加した人たちが死なぬようにと祈り続けた妻だった。
「義信はどうでしたか?」
妻は息子のことも気がかりだ。
「義信が相手の本陣を叩いてくれなかったら、危ないところだったともいえる・・だが、やつは軍令を無視した」
「無視ですか」
「そうだ、抜け駆けの功名に出たとも見える」
信玄は憮然としてそう語る。
「まだまだ、戦の経験も足りておりませぬ・・致し方ないのでは」
「だがそのために、信繁や菅介を失ったのも確かだ」
三条の方は信玄と義信の間が冷え込んでいることに気がついた。
四十歳の冬だった。
*義信謀反*
翌年、毛利元就の長男、毛利隆元の急死が伝わる。
「息子に先立たれた親というのは辛いものよの」
信玄はその知らせを三条の方に伝えた後でそういう。
「元就さまは隠居されておられたのでは・・」
「うむ、孫があると聞くが、その子が成人するまでは高齢の爺様が采配を振るという事になりそうだ」
翻ってわが武田を見た場合、先年の信濃での大戦より、信玄と義信の関係は冷え切っていた。
これまでは家内の調整役として温厚な信玄の弟、信繁が立ちまわってくれていたが、今や信玄に物申すほどの家臣はいない。
川中島の戦では、まさに義信の敵陣急襲という抜け駆けの行動でかろうじて武田は勝利を得たのは確かだったが、もしあの時、義信が命令通りに信玄本陣を救援していれば、少なくとも信繁は死なずに済んだはずである。
上杉本陣に大混乱を与えたとしても、政虎の首級を取れたわけではない。
家臣の中にはそれを大っぴらに批判するものが少なからずある。
「義信、そこもとは、先だっての大戦での軍令違反をどう思うか」
軍議の席上、信玄は義信を問い詰めた。
「父上、戦は水ものでござります。軍令を無視したことはいたく反省しておりますが、あのままでは闇に紛れて敵の裏の裏を掻く、戦上手の上杉政虎に敗れてしまっていたでしょう、そうなるとわが軍は壊滅していたに違いありませぬ・・」
そう言い切った義信を睨み、信玄は怒りに震えていた。
飯富虎昌はじめ、義信に近い重臣たちが信玄に意見を請う。
「これはこれは、あのような戦場にては、なかなか判断が難しきところ、御曹司義信公にあらせられましては、精一杯の反撃をされたこと、今少しお認めになられるべきかと存じますが」
だが、信玄に近い、虎昌の弟、飯富昌景らは反論する。
「戦で命のやり取りをするのは、少ないほうが上策である。敵味方ともに、なるべく兵を損ぜず、威圧に勝った方がその場を収めることこそ上策であるのに、此度の戦では、当家で四千人もの死者を出してしまっている。その大混乱こそ義信さまが招いたといっても過言ではないと存ずるが」
実際、高坂弾正らが戦の後片付けをした際に、あまりにも敵味方の死者が多く、穴を掘っても掘ってもなかなかにすべての死者をまとめた塚とすることが出来なかったという報告もある。
義信への家臣たちの評価が分かれる。
武田は二つに分裂した。
三条の方にもそれは伝わってくる。
「義信、もう少し上手に立ち回りなさい、才の在るものはみだりにそれをひけらかすものではありませぬ」
遊びに来て、母の握り飯を頬張る息子を嗜める。
「母上、しかし物のどおりというのは決して曲げてはならないと思います」
などという。
義信と彼を奉ずる家臣たちの、信玄への不満がたまっているのは三条の方も甚く感じていることだ。
この頃、信玄は恵林寺に当代隋一の禅僧と名高くなった快川紹喜を迎えた。
以前に恵林寺の住職になりながら、いったんは美濃に帰っていたものだ。
家中のごたごたに、やがて武田は分裂しかねないと危惧していた彼だったが、せめて縁のある高僧を呼んで仏法の力で国を一つにまとめようとしたのだろうか。
秋のある日、三条の方は侍女数人を連れて恵林寺へ参詣した。
快川紹喜に挨拶をするためだ。
「これはこれは、大方様自らお越しいただけるとは」
快川は三条の方一行の来訪を聞き、慌てて山門に出迎える。
「お久しゅうございます、此度はわが甲斐へ再びお越しくださり、誠にもったいなく、ありがとうございます」
秋の日を長閑に浴びた三条の方は若いころと同じように美しく、けれど公家出身であり領主の奥方という立場だのに気軽に声をかけてきた。
快川は「昔と本当に変わっておられない」と感嘆する。
「なるほど、以前に何度かお会いした時も大層お美しい女性であると思っていたが、あなたさまは西方一の美人と世間に言われるだけのことはある」
思わずそう口走る。
(筆者註:西方とは極楽浄土のこと、つまりこの世で最もという意味)
確かに甲斐では、領主信玄公の奥方は西方随一の美人であると言いう噂が広まっていた。
「ありがとうございます、美人と呼ばれることは大層嬉しゅうございますが、妾ごときが西方一などとは恐れ多いことでございますゆえ、西方の一と言っていただいた方がよろしいかと存じます」
快川は舌を巻いた。
「それは重ねて失礼仕りました・・西方の一美女・・の御来院でござりますな」
そういって頭を下げた。
三条の方は軽く笑顔を浮かべて寺の庫裏へ招かれていく。
翌年、永禄八年夏、夜半過ぎ、ついに飯富虎昌はじめ義信旗下の重臣たちが動き出した。
躑躅が崎館へ武装した一隊を進ませる。
だが、軍兵たちにとって信玄はすでに武田の生き神となっていた。
「今から躑躅が崎の信玄殿を捕縛する」と宣言されると困惑する。
これまで、御館様についてきたからこそ、我らは食えるようになったのだ。
数多の戦での勝ち戦を見せてもらったのだ。
彼らはそう信じている。
上役の説明もろくに聞かず逃亡する兵が続出する。
道を遮るものがいた。
「待たれよ!」
大音声で叫んでいたのは飯富虎昌の実弟、飯富昌影と彼の率いる部隊だった。
「今、武田においてお館様信玄公以外に仕えるべく主はなし、早く引け、ここで引いたものには罪は問わぬ」
虎昌の兵たちがさらに逃げる。
もはや戦どころではない。
そこへ信玄の馬周りが駆けつけてきた。
無言でその場に残っている者たちに槍を向ける。
何が何だか分らぬままに虎昌についてきた兵はすべて逃亡した。
翌朝、事の顛末を聴いた信玄は義信を呼んだ。
「今朝がたの乱を指揮したのはお前か」
信玄は問う。
「父上、私は一切、そのようなことを指図した覚えはございませぬ」
義信ははっきり否定する。
だが、数日後、信玄は義信の妻を駿河・今川へ帰すと宣言した。
仲の良い夫婦であったふたりは引き裂かれ、義信は東光寺に幽閉される。
事件の首謀者であった飯富虎昌、長坂源五郎、曽根虎盛らは捕らえられ、処刑された。
旗下の兵は府中を追放される。
そして駿河、今川氏真との断交を宣言した。
武田の嫡男は諏訪の方が生んだ四郎勝頼という事になった。
順序から言ってやむを得ないことだが、勝頼は諏訪家の総領であり、武田家の家督は勝頼の子ができればその子に、子が成長するまでは勝頼が後見とするということで話がついた。
この事件で三条の方は激しく動揺した。
なぜに自分が最も愛する夫と息子が相反しあい、悲惨な結果になるのか。
それはやはり、夫信玄が善光寺の御本尊を無理やり甲斐府中に持ってきたことと関係があるのではないかと思う。
全ての神仏を敬う信玄ではあるが、時として寺社にも苛烈な処置をすることが気になっていた。
東光寺へは母である彼女でさえも行くことが許されす、自室で持仏に祈りを捧げる。
下手に義信を守りたいと言えば、我が身ですら処刑されかねない空気が武田家には満ちていた。
食事も喉を通らない。
冬の間、心痛で三条の方は体力をなくしていく。
時折笛の哀しい音色が、躑躅が崎館に流れる。
翌年春、三条の方は恵林寺の快川紹喜に教えを請いに出かける。
春の風が穏やかに吹く山門前を快川は自ら弟子僧たちとともに掃除している。
「童は、御館様の心が分かりませぬ」
快川をみつけて、いきなりそういって立ち尽くす領主の奥方に快川は驚いた。
元々美しい女性ではあるが、青みを帯びた表情からはその美しさがさらに研ぎ澄まされたかのように見えた。
「ここではなんですから」といい、彼女を庫裏に案内する。
「義信さまのことでございますか」
快川は、彼女を座らせてから訊く。
頷くだけの夫人。
「実は、拙僧も御館様の心が分かりませぬ」
三条の方は俯いて聞いているだけだ。
「ですが、そこはやはり親子の情というものもおありでしょう、一度、御館様ときちんと話し合われては如何」
「それと、わが武田のこの不運は、善光寺の御本尊を信濃から遷座申し上げたことによるものではないかとの思いがございます」
それに対し、快川は間をおいてから答える。
「善光寺の御本尊を甲斐府中に留め置かれるおつもりなら、それは良くないと思います。ですが信濃は今は激戦地であり、もし御本尊に何らかの失敬があれば申し訳ないこと、それゆえ今だけと申されるなら、理にかなっているかと」
館に帰った夫人はすぐに飯富昌景改め、山県昌景を呼んだ。
「義信に会わせていただきたく存じます」
「それは難しゅうございます」
それを言われる時が来たと、昌景は夫人の前で汗を拭く。
「なぜでございますか」きつく問いただす三条の方。
「義信殿は謀反の張本人、もはやどなたもお会いになることは叶いませぬ」
「妾は武田家当主の正室にて義信の実母、息子のことを思わぬ母などこの世にありませぬ」
叱りつけるようにそういう。
「ましてや、義信に非があったかどうかは、今はまだ裁定中ではございませぬか」
稀代の武将として名高い山県昌景は汗を拭きながら三条の方の前を下がるしかない。
彼は、温厚な三条の方が怒りを見せたことを即座に信玄に連絡した。
義信の一件以来、夫婦は会っておらず、報告を聞いて苦虫を噛み潰したような顔をしていた信玄は「会わせてやれ」と一言だけ発する。
数日後、東光寺の座敷牢に三条の方の姿があった。
握り飯や餅を持ち、格子の向こうの息子に会う。
「義信、出来ればそなたを助けたい」
三条の方は牢の奥に張り付いたように座っている義信に声をかけた。
「母上・・」
義信は返事をすれども、奥にいるままだ。
「義信、先だっての謀反にそなたは加担していないのでしょう?」
その問いかけには長い沈黙があってから、やっと義信は答える。
「飯富虎昌どのから話は聞いておりました」
「知っていたのですか?」
「はい、事が成せば、某が武田の当主になると」
「それをそなたは止めなかったのですか」
「止めませんでした、父上も自らの親御殿を駿河へ追いやったではありませぬか」
「その時と今とでは事情が全然違います」
「某も、駿河の今川殿に父上を受け入れてくださるように根回しも致しました」
「それでは全く謀反・・」
「そうです、思慮が浅かった・・」
そしてようやく、彼は牢の格子のところまでにじり寄ってきた。
「母上の握り飯がいただきとうございます」
三条の方がそれを差し出すと義信は貪るように食った。
「某は自分の身の振り方は分かっているつもりです」
その言葉に返事もできず、格子が二人の間に立ちはだかり、わが子を抱きしめることもできない。
「母上の笛が聴きとうございます」
息子の請いに母は篠笛を取り出し、しばし奏でる。
哀しくも優しい音色に義信は涙を流す。
「せめて生きて・・」それだけが母の思いだった。
数日後、三条の方は郊外の美和神社に義信元服の時の鎧を奉納し、信玄と義信が和解できることを祈念した。
元々、義信と信玄の意見は特に駿河に関して大きく異なっていた。
もはや今川義元なく、暗愚と言われる氏真が広大な駿河遠江を纏められるはずもなく、今こそ武田の宿願である海の見えるところに進出、さらにそこから京へ向かって西上しようという信玄と、義を重んじるのはことのほか大事とする義信の意見は平行線で交わるはずもなかった。
「今川の当主が暗愚であるなら、それを助け互いに栄えようとするのが同盟国であるし、西上するのであれば、今川家もその中に入れてともに進むべきではないか」
義信の意見は正論だった。
だが、信玄は正論より実態を重んじていた。
永禄九年(1566年)秋、衰弱しきっていた義信は、山県昌景に「用意をしてくだされ」と伝えた。
昌景は即座に了解し、信玄に報告をする。
「そうか、しっかりと見届けてやってくれ」俯いてそれだけ言った。
義信は作法通りの切腹をした。
僅か二十九歳だった。
駿河との同盟破棄は同時に同盟を結んでいる相模・北条ともその関係を壊すことを意味していた。
北条氏政には、三条の方の長女が嫁いでいて黄梅院と呼ばれていた。
黄梅院からは何度も、手切れをしないでという手紙が三条の方に届く。
本来なら氏政は正室の縁を切り、黄梅院を武田に送り返すべきであったが、夫婦の仲は良く、氏政は妻を追い出さない。
いや、それより、また今後、武田との連携は必要であると認識していたようで、黄梅院は小田原に留め置かれ、生活もこれまでと変わらなかった。
三条の方とのやり取りも辛うじて続くが、体の不調を訴える母の手紙にも悲しく思うだけで、国交が断絶されている状況では手の施しようのない娘でもあった。
永禄十一年(1568年)冬、武田信玄は大軍をもって駿河に攻め込んだ。
今川配下の武将たちの抵抗はあったものの、大半がすでに武田と通じている状態で、今川氏真の居場所は消えていく。
そしてついに翌永禄十二年(1569年)5月、今川の本拠、掛川城は落城した。
三条の方の体調はすぐれなかった。
あの心身ともに疲弊した川中島から義信事件のあとまでの無理がたたり、抵抗力をなくしていったようだった。
微熱が続き、咳が出る。
そして血を吐くようになった。
さらに悪いことに、この頃、国交を断絶している相模・北条家から長女黄梅院が病気で死去したとの知らせが届いた。
せめてこの知らせだけは届けてやれと、氏政の計らいで裏のものが届けてくれた。
三条の方の病状はさらに悪化し、医師、御宿友綱に「労咳」であると診断される。
特効薬のない時代、労咳の診断はすなわち死を意味した。
駿河侵攻の合間に甲斐に帰ってきた信玄は、何より正室の身体を案じていた。
真っ先に奥の三条の方の部屋に行く。
「労咳はうつります、どうかお身体を大事と思われるなら、妾と会わないでくださいませ」
三条の方は侍女にそう伝言させる。
だが、ついに信玄は奥のものの制止を振り切って三条の方の部屋に入ってきた。
「お方、いや、うめよ」
叫ぶ信玄。
「来ないでくださいと言いましたのに」苦笑する三条の方。
「義信のことは済まなかった」
もはや世間では日の本一と称される武将が頭を下げる。
「あなたさまも、苦渋の決断だったのでしょう・・」
「そうだ、儂も辛くて泣いた」
「だったらもう済んだこと」
そういって三条の方は床から身を起こした。
「どうか、後顧の憂いなく、戦に邁進してくださいませ」
そう静かに言う。
「いやだ、儂はそなたのおらぬ武田など要らぬ」
そういって夫人を抱きしめる。
「うつりますよ、労咳が」
夫人は苦笑しながら抱きしめられる。
「侍女たちが笑っていますよ」
「構わぬ、今宵はうめを離さぬ」
信玄が周囲を見回しながらそういうと、侍女たちはやがて気を利かせて姿を消した。
「駄目だって言ってるのに」
三条の方が諦めたようにつぶやく。
「お願いがございます」
三条の方は信玄に静かに語りかける。
「なんでも聞こう」
「ひとつ、善光寺の御本尊は信濃に返してあげてくださいませ」
「うむ・・」
確かに、武田の版図は広がったものの、家中では不幸続きである。
武田家中の不幸続きは善光寺御本尊を無理に甲斐に勧進したその罪ゆえではないのかという噂が府中には広まっていた。
「もうひとつ、小田原とは拠りを戻してくださいませ」
「うむそれも・・」
耳に痛いことだ。
相模の北条と手を切っても良いことなど一つもなかった。
後顧の憂いを絶って、今後の駿河、さらには都への西上作戦を実行するには、北条氏との連携なくしてできるものではなかった。
「西上に際して、お力になれるかと思い、妹に手紙を書きました」
三条の方の妹は石山本願寺顕如に嫁いでいる。
「かたじけない」
「最後に・・」
「なんだ」
「織田殿にはお気をつけて」
義信の変が起こった年、信玄は織田信長の養女と諏訪四郎勝頼の婚約を決めていた。
「わかった、だがどうか、うめよ、生きてくれ」
信玄はその夜、一晩中正室の傍にいた。
もはや彼の愛する妻は、得意の笛を吹く体力もなくし、彼の愛撫にも応えることはできなくなっていた。
数日後、「大方様ご危篤」の知らせに信玄は奥へ向かう。
*終章*
7
元亀元年(1570年)8月、信玄は武田家累代が守ってきた寺院である成就院にて夫人の葬儀を行い、ここを夫人の菩提寺とするとして、この寺院を瑞巖山円光護持禅院(円光院)と改め、整備した。
葬儀は盛大に行われ、甲斐府中の主な寺院の住持たちが追悼文を読んだ。
特に導師を任された快川紹喜は、故人が信心深かったこと、広く民衆に愛されたこと、躑躅が崎の女性たちの良き相談役であったこと、信玄との夫婦仲が非常に良かったことなどが回顧され、さらに夫人が幾多の試練を受け、悲しみの中にありながらも悟りの境地に至り、信仰を続けられたことなどが語られた。
「西方の一美人、円光日の如く、和気以って春」
一言でこうまとめた偈は三条の方の人柄をよく表していた。戒名は円光院殿梅岑大禅定尼とされた。
円光は梅を、岑は「ぎん」もしくは「しん」と読み、険しく高い山の上という意味だ。
梅のように香しく美しく、そして遥かの山の頂上のように高みに登られた人という意味であろうか。
葬儀が終わるまで、信玄には悲しみを感じる余裕はなかった。
だが、すべてを終えて円光院の門前に立った信玄はそこから府中の街を眺める。
夏の日がそろそろ落ちようとしていて、あたりは黄金に染まる。
ふっと、笛の音が聴こえた気がした。
「うめ、うめ、そこにいるのか」
信玄は叫ぶが誰もいない。
彼に従う旗下たちは、すでに神の域に入ったと言われる大武将が辺りを憚らず、大泣きする様子を見た。
彼らにもまた涙が伝わる。
三条の方の死は甲斐府中の人たちにとっては悲しみと同時に大きな不安をも呼び起こした。
翌年、武田は相模の北条と再び同盟が成立した。
葬儀の二年後、信玄は妻、三条の方の三回忌を円光院で行った。
これは、武田家のまさに最盛期に行われた儀式で、盛大を極め、特に僧侶に紫の袈裟を着てもらうために朝廷に許しを請うことまでした。
しかし、その翌年、元亀4年(1573年)5月13日、信玄は西上作戦の途次、労咳を発症し急ぎ帰国の最中、伊奈の駒場で亡くなる。
遺言で信玄の遺体は三年間、喪を秘して、三条の方が眠る円光院に留め置かれた。
だが、世間にいつまでも死を隠すことはできず、喪に服すことをやめ積極路線に転じた武田勝頼は最初は駿河などで勝利を得て領地を拡大したが、やがて織田・徳川の反撃にあい、そして長篠の戦いで完膚なきまでに敗北する。
信玄の葬式は遺言に従い、死後三年後に恵林寺にて快川紹喜の大導師で行われたが、すでに信玄の死亡は世間に広く知られていた。
そのなかで、かつての輝きを失った武田勝頼以下の葬列は今後の甲斐の混乱を予見させるものとして住民たちに哀しい目で見られたはずだ。
その後、武田軍はほとんどなす術もなく後退し、躑躅が崎では守り切れぬと判断した勝頼が韮崎に新府城を建設するも、すでに家臣が離れていく一方となり、やがて武田は瓦解、旗下にも裏切られた勝頼は天目山で息子、信勝とともに敗死する。
この時、逃げ切れなかった信玄以来の家臣と多くの婦女子が死出の旅を共にしたが、その中には信玄の側室もいたという。
甲斐の恵林寺は、六角の残党を匿ったとして織田信忠の軍勢に焼き討ちに逢い、快川紹喜は山門の楼上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と叫んで死んでいったといわれている。(これは後世の創作ではないかともいわれている)
三条の方が亡くなる直前まで気にかけていた善光寺御本尊は、武田の崩壊とともに美濃、尾張、遠江、いったん甲斐善光寺に戻り、さらに京の方広寺に移っていった。
しかし、豊臣秀吉の死の直前、秀吉の命によりやっと信濃の善光寺に戻された。
天文24年(1555年)に信玄によって信濃から持ち去られたご本尊は、慶長3年(1598年)、43年ぶりに帰ってきたことになる。
この間、荒廃した寺域を善光寺衆たちが守っていた。
徳川家康は武田家を高家として扱い、江戸幕府になって武田家はその威光を回復し、荒廃した甲斐府中の寺社も復興された。
作者より
書こうと思いながら躊躇し、書きながらも躊躇せざるを得ない、苦心惨憺の結果なんとか出来た三条の方のお話です。
私が武田信玄やその周囲の人たちに関心を持ったのは多くの方々と同じく、井上靖氏、新田次郎氏、津本陽氏らの小説作品からですが、津本氏はともかく、井上氏、いや、特に新田氏の作品による三条の方は美しくなく悪妻であり、傲慢であり、平気で邪魔な側室を殺してしまう残虐性を持っています。
ですが、なぜか新田氏作品を繰り返し何度も読みながら、青少年期の私は、新田作品中の三条氏の「本当」に関心が大きくなっていました。
私は2005年に「十六の母(諏訪御寮人異聞)」
https://blog.goo.ne.jp/kouzou1960/e/67f47c90f7efdc59b3d1518c26188a9bを仕上げていますが、この中では三条の方には殆ど触れていません。
未だ私自身の三条の方に対する思いが確立されていなかったからでもありました。
しかし、三条の方は調べれば調べるほどに早春の梅の花の香りにも似た、優しい非常に魅力的な女性であることが分かってきました。
一昨年仕上げ、昨年に加筆訂正版をアップした「鬼無里の姫(紅葉狩伝説異聞)ver.2021」のあと、次期時代長編として三条の方を選んだのは、やはり私が歴史上の女性として最も強く惹かれた一人であり、ある程度私の中での三条の方の像が確立してきたからでもあります。
本作は自分自身が大好きな三条の方の「覚え書き」として仕上げた次第です。
なお、背景の歴史的事象の一部に最新の研究成果を拝読したものを入れているので、通説とは異なる部分があるかとは思います。
黄梅院が北条氏から離縁されなかったり、武田信虎が残虐な性格ではなかったように書いたのはその一例です。
あくまでも趣味の範疇であり、私は専門の学者でもありませんので、本作品は小説としてお読みくださることをお願いいたします。
令和四年三月 那覇新一
参考文献 磯貝正義「定本武田信玄」
雑誌「武田氏研究」8・49・59・56号
太田牛一「信長公記」
妙法蓮華経並解結
参考小説作品 新田次郎「武田信玄」
井上靖 「風林火山」
津本陽 「武田信玄」
参考サイト 篝佐代「西方一の美人_武田信玄正室三条夫人」
円光院・武田神社などの公式サイト
筆者註:篝佐代様には様々なご助言をいただきました。
深く感謝申し上げます。