独り言に近い文章をダラダラと書いているのは、自分の似顔絵を前進させるためです。
たまたま、同じような疑問や問題を抱えている人がいたなら、それはそれで嬉しいです。
ところで、「似ている、そっくり」というのに、違和感を感じる自分がいます。
確かに似顔絵は、そうであるべきものなのかもしれません。
ところが、「似顔絵が話しかけてくるか?」を確認しながら描いていて、
また画像検索で他と他の似顔絵を比較していて、
「情景を描く」人と、「造形を描く」人がいることに、気づきました。
どういう意味かと言うと、「話しかけてくる」ほうは、情景を描いている人が多い。
さらに簡単に言うと、その場の雰囲気を描いている、時間の流れや会話がある。
逆に、デフォルメが面白いほうは、時間を停止させて、造形を描いている人が多い。
もちろん、情景も造形もある似顔絵もあり、そして、両方ない似顔絵もあると思います。
似顔絵ですから、顔を描く訳ですが、顔・そっくりばかりに固執すると、「情景」が失われてしまうのではないでしょうか。
なら、背景を描けば良い、というほど単純なものではないですが、「静止したポーズを取っている」画像を眺めるだけでは、ダメかもしれないと思いました。
そういう意味では、席描きの人は「情景」を描く能力に長けていると、うらやましく思います。
具体的な例をあげると、「漫才師の似顔絵」だと分かりやすいと思います。
そこで、漫才が展開されている似顔絵が情景的であり、プロフィール画像のようにポーズを取っているのが、よくある似顔絵、そしてさらに、デフォルメが優れているのが造形的であると。
そう見ると、「似ている、そっくり」な似顔絵の多くは、「情景的」なものが少ないと思います。
どちらが良いと言う訳ではないですが、私は情景的でありたい、それは「話しかけてくる似顔絵」を描きたいからです。
そのためには、造形・デフォルメの技術も磨かねばならないと思っています。

P.S
そのもの、図の造形を描き上げるのが西洋的で、地の空気を描くのが日本的と言えるかもしれません。
「日本人のアイデンティティを持った似顔絵」を考えたとき、私はその「空気」というのがポイントだと(今のところ)思います。
「顔の骨格」を描くのではなく、「顔のしぐさ」を描くと言えば、分かりやすいでしょうか。
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ところで、「似ている、そっくり」というのに、違和感を感じる自分がいます。
確かに似顔絵は、そうであるべきものなのかもしれません。
ところが、「似顔絵が話しかけてくるか?」を確認しながら描いていて、
また画像検索で他と他の似顔絵を比較していて、
「情景を描く」人と、「造形を描く」人がいることに、気づきました。
どういう意味かと言うと、「話しかけてくる」ほうは、情景を描いている人が多い。
さらに簡単に言うと、その場の雰囲気を描いている、時間の流れや会話がある。
逆に、デフォルメが面白いほうは、時間を停止させて、造形を描いている人が多い。
もちろん、情景も造形もある似顔絵もあり、そして、両方ない似顔絵もあると思います。
似顔絵ですから、顔を描く訳ですが、顔・そっくりばかりに固執すると、「情景」が失われてしまうのではないでしょうか。
なら、背景を描けば良い、というほど単純なものではないですが、「静止したポーズを取っている」画像を眺めるだけでは、ダメかもしれないと思いました。
そういう意味では、席描きの人は「情景」を描く能力に長けていると、うらやましく思います。
具体的な例をあげると、「漫才師の似顔絵」だと分かりやすいと思います。
そこで、漫才が展開されている似顔絵が情景的であり、プロフィール画像のようにポーズを取っているのが、よくある似顔絵、そしてさらに、デフォルメが優れているのが造形的であると。
そう見ると、「似ている、そっくり」な似顔絵の多くは、「情景的」なものが少ないと思います。
どちらが良いと言う訳ではないですが、私は情景的でありたい、それは「話しかけてくる似顔絵」を描きたいからです。
そのためには、造形・デフォルメの技術も磨かねばならないと思っています。

P.S
そのもの、図の造形を描き上げるのが西洋的で、地の空気を描くのが日本的と言えるかもしれません。
「日本人のアイデンティティを持った似顔絵」を考えたとき、私はその「空気」というのがポイントだと(今のところ)思います。
「顔の骨格」を描くのではなく、「顔のしぐさ」を描くと言えば、分かりやすいでしょうか。
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