私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

失楽園 50~58行目

2019-11-10 19:35:46 | ミルトン〔失楽園〕
Paradise lost
Bool I
John Milton

50 Nine times the space that measure day and night
51 To mortal men, he with his horrid crew
52 Lay vanquished, rolling in the fiery gulf
53 Confounded though immortal: but his doom
54 Reserved him to more wrath; for now the thought
55 Both of lost happiness and lasting pain
56 Torments him; round he throws his baleful eyes
57 That witnessed huge affliction and dismay
58 Mixed with obdurate pride and steadfast hate:

50 死すべき人の尺度では九度〔クタビ〕の昼と
51 夜をと かの者と怯えた朋輩たちは
52 打ち負かされ横たわった 焔の淵にのたうち
53 不死ながら打ちひしがれて だがその定めは
54 更なる瞋恚〔イカリ〕を残していた 今や
55 喪われた幸いと果てない苦悶への
56 思いにさいなまれて 周囲に忌むべき眼差しを投げれば
57 映るのは多大な苦しみと絶望とが
58 頑なな傲りと不動の憎しみに混ぜ合わされている


*どうにか58行目まで至りました。54行目「瞋恚」には「イカリ」の読みを当てましたが本来の読み方は「しんい」。仏教における三毒「貪欲・瞋恚・愚痴」あるいは十悪「殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚痴」のひとつです。

模倣される情動

2019-11-10 03:15:16 | 雑感
夜中に目が覚めてしまったため、先ほどの「国民祭典」に対する私見を追加いたします。

ここ一年半ほどの間で体験した言葉では完全には表現しがたい体感から思うことですが、人間のあらゆる情動の根底にあるものは極めて動物的な死への恐怖と生への充足感なのではないかという気がします。両者はいわゆる「心」で感じるものではなく、体温の変化や筋肉の収縮、そして何より瞬間的な脈拍の増大といった明確な体感を伴っている。
 人間がまだ単なる動物であったとき、己に死をもたらす捕食者や敵対者を認識した瞬間、力に優れた個体は攻撃あるいは逃走のために体温を上昇させ、力に劣る個体は隠れ潜むために体温を低下させたのかもしれません。前者が怒りの根底にあり、後者が恐怖の根底にある。言い換えれば、対象の大小にかかわりなく、すべての怒りは本質的に敵対者に対する殺意であり、すべての恐怖は迫りくる死への予感であるのかもしれない。それは瞬間的ながら明確で御しがたく激しい体感を伴っている。言語を基盤とした人間的理性にとっては厄介なことに、この動物的な憤怒/恐怖の割合は個体によって異なっているため、自己の情動をもとにして他者の情動を推し量ることは難しいのでしょう。
 
 ……情動の起源に対する物語的な考察があまりに長くなりすぎたためこのあたりで切り上げます。かいつまんで続けますと、人間のあらゆる情動の根底には死への恐怖と生への充足感があり、両者は分かちがたく表裏一体をなしているのだと思うのです。少なくとも人間の身体にとって生が好ましいものだからこそ死を避けるための体感が恐怖や憤怒として現れる。生への歓びは単純なものです。美味な食物や陽の光や水音や美しい色彩を感じたときの暖かな体温を伴った脈拍の上昇を、体感として思い出しさえすれば、「なぜ人は生きなければならないのか?」という疑問はそもそも湧いてこないし、これほどの歓びを手放してさえ「死にたい」と願うことの絶望の深さを推し量ることができる。ただ、それを思い出すためには、生物としてもっとも好ましくない死への恐怖もまた体感として思い出す必要がある。その部分を抑制したまま生への歓びだけを取り戻さんがために理性/言語は情動を模倣することがあるように思います。
 外界からの刺激によって瞬間的に引き起こされる一過性の反応である本物の情動とよく似た反応を脳内に無理やり引き起こし、体感のほうに逆にフィードバックさせる。そうした偽物の「情動」は、過剰で造り物じみていて中毒性があります。今日の、というよりもはや完全に昨日の「国民祭典」の中継に、私はそんな悍ましいイミテーションの喚起を促す浅薄さと過剰さの萌芽を感じました。