私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

小休止 鑑賞文 A・マーヴェル三篇①

2009-08-14 21:19:06 | A・マーヴェル
※手持ちのネタが尽きかけているためしばし鑑賞文など。お目汚しを失礼いたします。↓



A・マーヴェル Eyes and Tears 他について
虚ろをながめる目 ①

 抒情詩が表現するものは作者自身の内面の情動である。この点はまちがいないだろう。では、何かを表現しようとするとき、その対象がまさに動いているあいだに描きとれるものだろうか? 
 絵画の描き手であったら、何かを絵筆で正確に写そうとするときには細部までじっくりと眺める必要がある。そのときには対象は静止していたほうが望ましい。一見して動きにあふれる絵を――たとえば、海の波が盛り上がって砕ける一瞬を画布に写し取ったようなたぐいの作品であっても、絵筆でひとつの輪郭をとるときは、描き手の脳裏には、動くものが静止した一瞬が再現されていることだろう。「今まさに動いているもの」を動くまま茫洋と眺めているだけでは、割れて砕けて裂けて散る波のさまを写しとることはできないのだ。磯もとどろに寄せる波を眺めるものは波とは隔たっている。だからこそ緻密な観察ができる。
 これとほぼ同じことが、言葉の組み合わせによって情動を描き出す作業にも言えるのではないだろうか? 絵描きにとってと同じく、抒情詩の作り手にとっても、「今まさに動いている」心の動きを緻密に眺めるのは難しいはずである。「わたしの心はこのように歓んでいるのだ」と歓びの性質を逐一分析しながら歓ぶ人間は珍しい。分析や観察ができるのは、たいていの場合、ひとわたりの情動の波が収まったあとのことだろう――ただ、その場合、じっさいに見てとるものは動きそのものではなく動きの軌跡のようなものなのだろうが。大波のように心が波うっているさなかに緻密に動きを眺められる人間があるとしたら、その人間の内面はふたつに分裂しているはずである。すなわち、「まさに動いている部分」と「その動きを観察している部分」とに。
 A・マーヴェル「まなことなみだと」の第一連は次のように詠じる。

  自然の賢しく定めたことよ
  泣くと見るとを同じ目で
  虚ろなものをながめたら
  いつでも嘆けるようにと

この詩句は、まさしく、詩人のふたつに分裂した心の「まさに動いている部分」を「泣く/涙」と言い表しているように感じる。だが、「見る」のほうはどうか? ここで「目」が「見て」いるのは何か「虚ろなもの」である。
 同じ詩の二連目から三連目では、「見ること」は「おのれを欺く」ものであり、あらゆるものの高さを測り違えるものだが、「水に沈む紐につけたおもり」のように落ちる「涙」はすべてをよりよく測ると対比されている。そして、「悲しみが長いこと測って両目の天びんでつり合いをとった」ふた筋の「涙」こそが、「わたしの歓びの真の値なのだ」と。
 つまり、「見ること」によって知覚されるもろもろの対象に価値があるか否かは、ただ「わたし」の心が動くか否かにのみかかっており、対象が世間でどう評価されていようと、「わたし」にとっての対象の価値とは「わたし」の情動の振れ幅如何による――という、ひたすら「わたし」の心ひとつを頼みにした誇らかな主観の宣言なのだろうか? しかし、ではなぜその値を測る主体は「悲しみ」なのだろうか? 「わたし」の情動ひとつを対象の価値判断基準とすることは、たとえ感じるものが歓びであってさえ、「わたし」にとっては悲しみでしかありえないのだろうか?

 続


コメントを投稿