‘キムナバキ’の末っ子、若葉から格別だった歌の大将
[応答せよ1999年代]19歳でデビューして変わらず愛されている‘キムナバキ’の末っ子パク・ヒョシン
80年代までだけみても国内で「歌が一番上手な歌手は誰なのか?」という問いにはそれほど悩む必要がなかった。
音楽的な部分で見ても大衆的な人気で見ても 歌謡界で独歩的な位置を占めていた‘歌王’チョ・ヨンピルがいたためだ。
だが90年代に入って多様な個性を持ったミュージシャンが大勢登場して‘「もっとも歌の上手い歌手は誰なのか?」という
問いかけに対する答えは迷宮の中に陥ってしまった。
大衆的な人気では‘バラードの皇帝’の系譜を継いだピョン・ジンソプとシン・スンフン、そして単一アルバム最多販売記録を持つキム・ゴンモが優位にいた。
ロック音楽マニアはバンドのヴォーカル出身のイム・ジェボムとキム・ジョンソ、キム・ギョンホらに熱狂した。
80年代を牛耳った‘歌王’チョ・ヨンピルは自身の後に続く次世代の‘公演の帝王’にイ・スンチョルを指名した
(実際にイ・スンチョルは‘コンサートの皇帝’イ・スンファンと共に長らく‘公演界の二大山脈’として君臨した)
2000年代に入った後 もっとも優れた歌唱力の男性ヴォーカルは大きく4人に圧縮されている。
彼らは音楽ファンの間で‘キムナバキ’というニックネームを付けられ‘歌の4大大将’と呼ばれている。
好き嫌いを分けない教科書的なヴォーカルを誇るキム・ボムスと黒人ソウルをもっとも上手く生かす‘R&Bの申し子’ナオル、
超人的なフィジカルを前面に押し出した高音の最高峰イ・ス、そしてハスキーな真性とやわらかな裏声の間を自由自在に行き来する‘歌の大将’パク・ヒョシンだ。
ハスキーな唱法と豊かな感情表現で注目された高校生歌手
パク・ヒョシンは中学3年の時 学校の歌謡祭に出場してパク・スンファの<君は笑うことができたの>を歌って大賞をもらって歌の才能を発見した。
パク・ヒョシンは高尺高校1年に在学中だった1997年 富川青少年歌謡祭に出演してイ・ギチャンの<Please>を歌って大賞に輝き
各種大小の歌の大会で賞をさらって歌手の夢を育てた。パク・ヒョシンは高1の時 ある企画会社に入って歌手デビューを準備したが
所属会社の財政難で最初のデビューは失敗に終わった。
すでに高校の時から準備された新人として有名だったパク・ヒョシンは 高3の時にデビュー準備のため阿峴職業学校(現・阿峴産業情報学校)に通った。
この時 共に学校に通った友人がFly to the Skyのファニとフィソン、そしてUVのミュージ達だった。
そしてパク・ヒョシンは1999年12月 1集アルバムを発表して歌手としてデビューした。
パク・ヒョシンのデビュー曲は作詞ユン・サラ、作曲シン・ジェホンの<してあげられないこと>。
パク・ヒョシン特有のハスキーな唱法を最大化した曲で この歌を聴いた大衆は誰もが、アンダーグラウンドで長く活動した‘遅咲きの新人’がデビューしたと思った。
それほど声に貫禄(?)が感じられたからだ。だがわかってみるとこの歌を歌った歌手は不自然に長い髪を5:5に分けた高校生の少年パク・ヒョシンだった。
パク・ヒョシンはデビュー曲<してあげられないこと>で大衆に強い印象を残したが これは予告編に過ぎなかった。
パク・ヒョシンは2000年春の活動曲を<バカ>に変えて‘恐ろしい子ども’から‘心を動かすヴォーカリスト’に進化した。
デビュー当時パク・ヒョシンを好ましく思わなかった男性達さえも<バカ>で聴かせたパク・ヒョシンの訴求力の濃い声に魅了されたファンになったりもした。
パク・ヒョシンは1集発表後 わずか2ヶ月でレパートリーがいくらもない状態で単独コンサートを開催するほど公演に格別な愛着を見せた。
デビューアルバムを通じて 新しい時代を率いていくヴォーカリストとして尽きることのない可能性を誇ったパク・ヒョシンは急いで2集を準備した。
‘ミュージシャンが尊敬するミュージシャン’ユン・サンがプロデューサーとして参加してアルバム制作を指揮し 有名ミュージシャンが大勢参加した
パク・ヒョシンの2枚目のアルバムは2001年1月 世の中に公開された。
ユン・サン、キム・ドンリュル、ユ・ヒヨルらが参加したパク・ヒョシンの2集
パク・ヒョシンの2集は二十歳を超えたばかりの新鋭歌手のアルバムなのかと思うほどスター アーティストが大勢参加した。
2集のタイトル曲はプロデューサーのユン・サンが作曲し 彼の長い間のパートナー パク・チャンハクが歌詞を書いた<遠い場所で>だった。
やむなく愛する人の側を離れることになる男性が タイトルのように‘遠い場所で’彼女を守るというストーリーで
パク・ヒョシンの豊かな感性とハスキーな声の魅力を十分生かした悲しいバラード曲だ。
だがパク・ヒョシンの2集はタイトル曲<遠い場所で>以外にもアルバム全体の完成度が優れているという噂が出て 長い間静かに愛された曲が多い。
代表的な歌が ソロ1集活動を終えてバークレー音楽大学に留学したキム・ドンリュルが作った後続曲<憧憬>だった。
‘片想いの歌の絶対王者’と表現しても良い<憧憬>は 最近までパク・ヒョシンがコンサートでよく歌い
キム・ドンリュルもやはり個人のコンサートで歌うほど愛着を持っている歌でもある。
キム・ドンリュルが作った<憧憬>が片想いの凄まじさを歌ったなら もう一人の音楽の天才ユ・ヒヨルが作った<慰め>は
別れのつらさが良く込められている曲だ(穏やかに見えるタイトルに騙されると混乱する)。
恋愛時代 彼女から聞いた‘愛してる’という一言のため 長い時間が過ぎても彼女を忘れられないというユ・ヒヨルの歌詞がパク・ヒョシンの声に乗せられた。
チョン・ソヨンとのデュエット曲<心変わり>は‘Bad boy’というサブタイトルのように 別れを通知する悪い男のストーリーを扱った
パク・ヒョシンの2集ではそこそこビートの速い曲だ。冷たく別れを語りながら最後に‘バカ、私を愛したのはダメだった’と泣き叫ぶパク・ヒョシンのシャウトが圧巻だ。
この一小節で<心変わり>は残酷な別れの歌ではなく 聴く人によって数多くの意味を込められる切ない曲に変身した。
パク・ヒョシンの2集はいっそう安定して深みが生まれたヴォーカルと プロデューサー ユン・サンが具現化した洗練されたサウンド、
そしてチョ・ギュマン、キム・ドンリュル、ユ・ヒヨルら有名ミュージシャンが大勢参加したアルバムで37万枚の販売量を記録して大いに愛された。
パク・ヒョシンの2集はファンの間でも所蔵価値が高いアルバムに選ばれる。
チケット予約サイトのサーバーをダウンさせた歌の大将
パク・ヒョシンは2002年 3集“良い人”でSBS『人気歌謡』で1位をとり 初めて地上波のランキング番組で1位になり
2004年には4集タイトル曲<そこに立って>でMBC『音楽キャンプ』でトップに立った。
そして2004年11月には壮絶な恋愛ドラマ『ごめん、愛してる』でドラマの悲しみを生かしたOST“雪の華”を歌って国民的に愛された。
(“雪の華”は多くの歌手仲間がパク・ヒョシンのように歌おうとして挫折を経験した歌でもある)。
2000年代序盤 フィソン、SGワナビーと共に‘牛追い唱法熱風’を主導したりもしたパク・ヒョシンは“雪の華”を起点に唱法を少しずつ変え
今はかなり薄い音まで消化が可能なヴォーカリストになった。実際に最初の頃の曲<してあげられないこと>と去年発表した<戀人>を比較して聴くと
‘本当に同じ歌手が歌っているのか’と思うほど声が異なる。もちろんパク・ヒョシンは酷使して声が完全に変わって過去の声を失った歌手ではない。
ヴォーカリストとして進化を重ねているパク・ヒョシンは もうコンサートをすればチケットを買うのが非常に難しい歌手になった。
もちろん今は新型コロナウイルスのために大部分のコンサートがキャンセルされ パク・ヒョシンもやはり今年は一度も単独コンサートを開くことができなかった。
だがパク・ヒョシンの単独コンサートはいつも全回完売は基本で かなりの人気アイドルのコンサートに次ぐ前売り戦争
およびサイトのサーバーダウンを覚悟しなければならない。
パク・ヒョシンのファンクラブの名前は魂の木という意味の‘SOULTREE’だが パク・ヒョシンはファンを‘木々たち’という愛称で呼ぶ。
これにファンも ここにうなずくという意味でパク・ヒョシンを‘大将の木’と呼び始め 今はパク・ヒョシンの別名が‘大将’に固定された状態だ。
一部ではパク・ヒョシンが歌が一番上手だから‘大将’と呼ばれると知っている大衆も少なくない。
だが語源に関係なくパク・ヒョシンは歌謡界で‘歌の大将’と呼ぶことに少しも不足のない歌手だ。
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『ユ・ヒヨルのスケッチブック』出演時のメドレー。
<してあげられないこと><良い人><憧憬><想い出は愛に似て><雪の華><恋しくて、恋しい>。
今の唱法なので、すっきりした声になっている。
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