チョン・ジェイル‘音楽はすべての芸術の友達・・・
作曲家だから そのメリットを生かさなければなりませんね’
大衆音楽から伝統音楽まで・・・映画・唱劇・舞踊など境界なく創作
青瓦台の愛唱歌“野生花”も共同で作曲・・・‘パク・ヒョシン、創作の熱望と才能がすごくて’
音に対する好奇心、音楽の柔軟さに対する理解が深い人だ。「これは音楽なのか?」と通り過ぎるエスキモーの伝統音楽に感動を見いだし、
日本の伝統劇・能楽に込められた正体のわからない音に魅了されて現地にふらっと出かけたりもする。
音楽に向けた‘学究熱’があふれたが創作の才能とピアノ、ギター、ベース、ドラムなどの演奏力も備えた。大衆音楽から出発したが国楽とクラシックまで吸収し 映画、唱劇、ュージカル、
演劇、舞踊など芸術ジャンルで活動半径を広げたチョン・ジェイル(36)の話だ。作曲家兼演奏者、音楽監督など確実に区分しにくい音楽界では彼を全方位ミュージシャンと称する。
最近ソウル・龍山区 漢南洞のあるスタジオでチョン・ジェイルと会った。昨年 膨大な作業を相次いで終えた彼は いっそう余裕ある姿だった。
彼は唱劇『トロイの女性』とポン・ジュノ監督の映画『オクジャ』の音楽監督を務め、ムン・ジェイン大統領の訪米期間ニューヨークで開かれた‘平昌の夜’行事と
ドナルド・トランプ米大統領訪韓記念晩餐会で公演した。また声楽家ハン・スンソクと共業アルバムを出し、音源チャート1位をさらった歌手パク・ヒョシンの新曲“冬の音”の編曲と演奏も引き受けた。
よどみない挑戦のように見えると言うと すぐに彼は「音楽をやる人が取れる最高のアドバンテージが色々な芸術と交流すること」とし「音楽はすべての芸術の親しい友達だから
そのメリットを生かさないわけにはいられなかった」と説明した。
「事実 私は芸術生産者より消費者としての人生が中心にあります。単に音楽を創るクリエイティビティがあるだけでしょう。どの分野でも私ができることは作曲と演奏ですから。
そういう経験値が重なって私の音楽が異なる語法と出会って感動を作り出すことを願います。クラシックとポップを取ったら音楽は副次的なものになり これには怒りもあるが 私は心がけが違うんです」
彼の音楽は色々な作品の中にふさわしい濃度で溶け込み生気を吹き込む。とりわけ映画『オクジャ』で才気はつらつとした作品解釈力を見せたと言うと
すぐに彼は「どんな分野でも初歩であることを楽しむ。それでこそ精神を集中し緊張することになる」と手で遮った。彼は米国アカデミー授賞式音楽賞予備候補に名前が上がっている。
「『オクジャ』はスクリプトが気に入りました。当時30%しか完成していなかった‘スーパーピッグ’というその生命体に心ひかれたんです。ポン・ジュノ監督が「僕らの映画は格好良くても
一瞬ふらついたりびっこを引く感じがなければならない」とおっしゃったんです。監督はジョン・デンバーの“Annie’s Song”を選曲した以外にはガイドを与えて下さいませんでしたが
その言葉でヒントを得たんです」
彼は江原道、ソウル、ニューヨーク、場など まるでロードムービーのように変わる映画の空間に合うようにテーマ楽器を選んだ。江原道は場面に先行しない中立的な音楽が必要でギターを、
ソウルはあらゆる奇怪なことが起こって悲しみとユーモアが共存するのでブラスを選ぶやり方だった。
その中でブラス音楽はエミール・クストリッツァの『ジプシーのとき』(1989)等からインスピレーションを受けて 野暮ったいが強烈で、旋律は悲しいがリズムは‘演歌’に似ている
バルカン半島のジプシー音楽を選んだ。この作業のため 彼はマケドニアの首都スコピエに渡りYoutubeで見たブラスバンド‘ジャンボアグゼビーオーケストラ’と録音を行う熱意を見せた。
彼は「ハンガリーのブダペストでオーケストラと作業して スコピエに行った」とし「乙支路の地下道のような場所に録音室があって初めは半信半疑だったがメンバーが‘No Worry’と言った。
途方もなくエネルギッシュに演奏して‘やったんだ’と言いたかった」と語った。
西洋音楽に根を持ったが、彼は我々の伝統音楽にも関心を持ち接点を広げていった。2001年から国楽グループ プリで活動し ギリシャ神話にパンソリをのせた唱劇『トロイの女性』の音楽を作り、
国楽家ハン・スンソクと2014年 1集‘バリ・アーバンダンド’に続き昨年2集‘ついに海に’を出した。
彼は「伝統芸術を創作者ではなく観客の立場で好む」とし「初めは正楽にハマった。中2の時か、作曲家カン・ソッキ教授が主催した現代音楽祭開幕作が宗廟祭礼楽であったが
見たことも聞いたこともない音響がユニヴァーサルに聞こえた。その後 プリのウォニルさんと出会ってパンソリも知るようになった。なじみのないことは退屈だったり関心がないものだったが
どんなきっかけで愛情が近づくのかによって変われるようだ」と説明した。
興味深いのは 早くから‘神童’‘天才’と呼ばれて歩幅を広げた彼が音楽家になるための正規教育を受けたことがないという点だ。小学6年の時ヘビーメタルにハマり
高校生の兄たちとバンドを作った彼は 中2の時ジャズアカデミー1期生になった。高校課程を検定試験で終え、1999年 17才でハン・サンウォン、チョン・ウォニョン、
イ・ジョクらで構成されたバンドGIGSのメンバーとして活動した。
「高等教育を早く受けたくて検定試験を受けましたが 結局大学に行けませんでした。GISとしてアルバム録音をしながら入試も受けましたが落ちてうやむやになったんです。
だから高等教育に対して渇望があります。勉強に対する熱望より いつも人文学や進化生物学に関心がありますね」
文学より人物学を好むという彼は 幼い頃トオル キム・ヨンオク教授の本と経典を楽しんで読み、今は進化生物学者リチャード・ドーキンスや天文学者ロバート・ウィルソンなど大学者たちの著書を耽読する。
境界がない活動は やはり映画、舞踊、ミュージカルなどの芸術と人文学を好むと見ると 音楽とのアンサンブルが生み出されたものだと言った。
彼は「子供の頃は音楽自体に心酔して芸術と人生を結びつける概念がなかった」とし「かっこ良いポップソングを作りたかったし、演奏を熱心にしたかっただけだ。
でもGIGSとして活動した2000年 舞踊作品『ネルケン』を見て この世の中にまた別の美しさがあることを悟った」と思い浮かべた。
さらに「芸術を生計のために早くから始めて 私の人生の哲学がないようだ」と笑って「今も霧の中にいる感じだ。だから大学者たちの本を熱心に読む」とも言った。
2003年 声を入れた‘涙の花’を初めとしてソロアルバムも時折出した彼は「私は音を探してさまよう作曲家」とし「これからはドラマがある音楽」をしてみたいと語った。
「言い直すと種になる音楽です。演劇やオペラ、展示などさまざまな形に分化させることのできる音楽を作りたいです。歌はパク・ヒョシンのような素晴らしいヴォーカリストが側にいるので・・・ハハハ」
青瓦台の‘愛唱曲’と呼ばれるパク・ヒョシンの“野生花”を共同作曲し、“冬の音”まで一緒に作業した彼は「軍隊で初めて会ったパク・ヒョシンさんは ヴォーカルはもちろん
創作の熱望と才能がすごいミュージシャンだ。本人が望む方向が明確な創作者マインドがあり ソロイストとしても魅力が素晴らしい」と誉めたたえた。
そして10個以上の楽器を自由自在に操るという世間の称賛について「個数は誤解」とし「バンドの基本楽器であるピアノ、ギター、ベース、ドラムなどを演奏するが
作曲のためだけに一つの楽器を一生錬磨した方に比べられない。パフォーマンスよりは私の音楽を作るほどになろうと練習をもう少ししただけ」とへりくだった。