実際の本はA5サイズくらい。紙面はこの記事と まったく同じ内容だ。(6/30追記)
デビュー20周年 歌手パク・ヒョシン
涙をこらえて待った末、再び咲いた‘音楽の神’
①予約サイトだけ開けておき 他のウインドウはすべて閉じておく
②あらかじめログインは必須
③0.1秒まで表示される‘NAVER時計’や‘インターパーク時計’を出しておくことも忘れずに
④十分な準備運動で手首を前もってほぐしておく
⑤高速で‘光クリック’をスタート
歌手パク・ヒョシンのコンサートチケットを手に入れるための いわゆる‘ピケッティング’をスタートする時に知っておかなければならない5つの法則だ。
ピケッティングは‘血が飛び散るチケッティング’という意味。それほどチケットを買うのが難しいという話だ。
パク・ヒョシンはこのピケッティングの最初で最後と呼ばれる。現存する国内歌手の中で最も熱いチケットパワーを誇る人物だからだ。
デビュー20周年記念コンサート<パク・ヒョシン LIVE 2019 LOVERS:where is your love?>が6月29日から7月13日までオリンピック体操競技場で開かれる。
今回のピケッティングは歴代級だ。4月にオープンした1次予約チケット4万5000席は やはりオンライン予約が始まると わずか10分で売れた。
所属会社グローブ・エンターテインメントによると この日60万人以上が一斉に‘クリック’をしようとしたためオンライン予約サイトのサーバーが瞬時にマヒした。
一歩遅れてサーバーが再び開かれた時には すでに全座席が消えてしまった後だった。
5月の2次予約でもコンサートの座席4万5000席はオンライン予約開始わずか数分ですべて売れた。9万席が売れるのに20分もかからないのだ。
‘ピケッティング’の元祖、始まりは試練だった
パク・ヒョシンと初めて出会ったのは2009年10月 ソウル・光化門だった。当時彼はデビュー10年を迎えて、以前の所属会社との長い紛争を終えて2年半ぶりに
新曲“愛した後に”を出した状態だった。はしかを長く患ったようにやせて体の節々が細く見える姿だった。それもそのはず彼にとって10年は試練の連続だった。
1999年“してあげられないこと”でデビュー、“憧憬”“バカ”“良い人”“雪の華”などをヒットさせた彼だったが 芸能界の生活は苛酷だった。
最初から歌手になるつもりはなかった。とりわけ口数が少なくて内省的だった彼は脱出を夢見た。両親の離婚後 耐えなければならないことがとても多かった17才の頃だった。
歌で努力して現実を忘れようとした。彼を歌謡界に送り出したのは友達だった。各種歌謡祭で大賞を受賞してオーディションまで通過し 所属会社と初めての契約を結んで
デビューアルバムまで出した。当時のインタビューでパク・ヒョシンは「初めてデビューアルバムができてきた時は信じられなくて何度も目をこすった」と言った。
甘かったデビューの幸せは しかし長くはなかった。若くしてデビューしたせいか紛争が絶えなかった。初めてのアルバムを出した所属会社はすぐに廃業し、
再び入った別の所属会社はとんでもない要求を続けたあげく 数千万ウォンの借金を返さなければ契約を終了できないと言った。
紆余曲折の末に別れて個人会社を起こしたが失敗したこともある。以前の所属会社が彼に断りなくベストアルバムとライブアルバムを出したせいで長く心痛を患ったりもした。
パク・ヒョシンは「幸せだった記憶よりは つらかった記憶が事実とても多い」と語った。
「私があまりにも何も知らなくて焦ってこういうことになったんだな。ここは私が本当にいる場所ではなかったんだな。そういう想いが本当に多かったんです。
あまりに疲れて音楽をまったく聴かずに過ごしたこともありました」
音楽をやめるのは初めから可能なことではなかった。二度と歌手をしないと思って音楽を避けて通ったが、胸が苦しくてあてもなく車を運転して道に出たある日
突然狂ったように音楽が聴きたくなった。
「車でCDを1枚探しました。押し込んで椅子にもたれて座ったけれど涙があふれたんです。本当にバカみたいに息もできないくらい泣いたんです」
軍入隊の後にもさらなる暴風雨に巻き込まれねばならなかった。以前の所属会社が再び専属契約違反だといって30億ウォンの損害賠償訴訟を起こし、
2012年9月 最高裁判所は15億ウォンの賠償判決を下した。パク・ヒョシンは結局 自己破産申請をした。軍生活の序盤には布団をかぶって泣いた日が少なくなかった。
このような辛い渦中に書き出した歌が2014年 除隊直後に発表した“野生花”だ。軍生活は思いがけず彼にとって薬になった。
2年の間 国防部広報支援隊で300回ほどの公演をする間 傷にはかさぶたができ、再び舞台に上がる力を得た。
除隊後 コンサート<War Is Over>をオリンピック体操競技場で2日間開いた。ミュージカル<エリザベート>も始めた。再び立ち上がったのだ。
ものすごい孤独の末に得た‘Happy Together’
再び舞台に上がったパク・ヒョシンは もう不慣れな世界でさまよった18才の少年ではなかった。感情を絞り出すように吹き荒れた‘牛追い唱法’から捨てた。
感情というのは体温のように転移するということを悟ったのだ。吸う息と吐く息だけで余白を動かす方法を体得して、号泣して先に泣いて観客を熱くさせるかわりに
空の椅子の上で観客が彼と一緒に呼吸で感応する時まで待つこともわかるようになった。
軍生活の中で作った“野生花”は こうした彼の変化を最も機敏に表した歌だ。歌詞の内容の一部はこうだ。
‘良かった記憶だけ 恋しい気持ちだけ 君が離れていったその道の上に こうして残って立っている
忘れられるくらい 大丈夫なくらい 涙をのんで待った震えの末に 再び咲くだろう’
2015年の公演でパク・ヒョシンは「この歌の歌詞を軍のトイレで書いた」と明かしたことがある。彼は当時「私のように生きている孤独な人たちに触れる歌詞を書いてみようとしたが
数日間集中しても歌詞が書けなかった。そんなある日 トイレで座っていたら1節の歌詞がするすると出てきて 全部書いて一人でしばらくまたおいおいと泣いた」と言った。
“野生花”の歌詞はパク・ヒョシンの内密な告白に近い。不慣れな世界に出てきて 容易ではない時間を耐えなければならなかった彼は たえず成長痛より
ものすごい孤独を経験しなければならなかった。世界の誰も信じられない時期もあったし、誰にも本心を打ち明けられず部屋に閉じこもった時もあった。
パク・ヒョシンの歌は だから時として影を選んで踏みしめるように見え、一節・独り言のようでもある。その独白が不思議にも 孤独で疲れたまた別の人にとって癒やしと平穏を与える。
2014年に発表した歌“Happy Together”は少年パク・ヒョシンが汚名をそそぐ過程を見せる歌でもある。
‘世界を知らなかった ただ笑うだけだった 青い空に似た夢を持った 背の低い子供が いつの間にか垣根を越える(中略)
We belong together 一人じゃないんだ 永遠に君のために歌うこのメロディ(中略)
いま僕の前にある 僕が探した世界’
2016年 彼が直接歌詞を付けて発表した歌“息”も似ている。
‘今日のような日 枯れたと思った古い涙が流れたら 眠らない この幼い胸が息をする 疲れきった僕の一日が息をする’
パク・ヒョシンが初めて深呼吸して垣根を越え始めたのだ。
再びのトップ、歌手たちの歌手として
市場の逆説がもたらされたのも この頃からだ。パク・ヒョシンが努力してクライマックスを吐き出さなくても 彼がマイクを握ればチャートが動き チケット市場が揺れ動きはじめた。
除隊後に発表した“野生花”はチャートに進入するとすぐ1位になり、その年の年末のコンサート会場には約7万人で埋め尽くされた。
2016年9月に発表された正規7集アルバムの収録曲“息”“I am A Dreamer”と2018年に発売したデジタルシングル“冬の音”もすべて 出るやいなや一気に1位に躍り出た。
除隊直後から立ったミュージカルの舞台も いつの間にかパク・ヒョシンが掌握したようなものだ。<エリザベート><モーツァルト><ファントム>等で全席完売の神話を書き、
2018年<笑う男>ではグウィンプレン役を演じて 公演開始わずか1ヶ月で累積観客10万人を突破する気炎を吐いた。
パク・ヒョシンはすなわち‘完売’の同義語であり、‘観客集め’のアイコンだ。意味もなく得たのではなかった。たった1小節を歌うにも何時間も発声練習をする緻密さ、
他人の結婚式で祝歌1曲を歌う時でさえもリハーサルをし 後でその歌を録音してモニタリングする不気味なほどの完璧主義が生み出した結果だ。
歌手ユ・ヒヨルは2016年10月 KBS音楽番組<ユ・ヒヨルのスケッチブック>でパク・ヒョシンに向かってこう話したことがある。
「16年前 音楽に対する夢を見た一人の少年が 今は音楽の神になって帰ってきた。パク・ヒョシンとは長い間ラジオのゲストで呼吸を合わせた。
その時は幼かったが(彼が)こんなに大きくなった。今ではパク・ヒョシンは歌手の間で‘歌手たちの歌手’と呼ばれる」
デビュー20周年コンサート<パク・ヒョシン LIVE 2019 LOVERS:where is your love?>を控えてパク・ヒョシンはどのメディアともインタビューをしないでいる。
ただひたすら舞台の上で歌とコンサートでだけファンと話したいというのが所属会社の説明。
実際パク・ヒョシンは除隊後は<ユ・ヒヨルのスケッチブック>のように歌うことのできる一部の番組を除き テレビ出演を一切しなくなっている。
コンサート以外の時間は歌の練習だけに使い、ほとんど毎日を音楽作業をしながら家で時間を過ごす方だ。メディアのインタビューもできるだけ断ってきた。
神秘主義を守ろうというジェスチャーのようにさえも見えない。これはもしかしたら彼がさまよった末に見つけ出した‘自分の居場所’をずっと記憶しているからではないだろうか。
2009年インタビュー当時のパク・ヒョシンの言葉を思い浮かべてみる。
「最近は切り取って食べる瞬間に舌を刺激する食べ物のような歌もとても多いでしょう。僕だけは他の歌を歌いたいです。再び出てきて心配も多かったが皆そうしました。
‘君の居場所は別にある’んです。忘れられない助言でした。懸命に探した僕の居場所を もう忘れたくないんです。覚えておきます、僕の場所を」
20年を越えてきたパク・ヒョシンは もうわかっているのだろう。彼が立つ場所は結局マイクの前であり鍵盤の前だということを。 ファンであふれたコンサート会場で、
照明が点いた舞台の上だとということを。その上でだけ 彼ははじめてしたい話をすべて打ち明けられるということを。パク・ヒョシンのライブは だから剣であり弓だ。
濁声と柔らかい声を混ぜながら長く呼吸して柔軟に声を出す。涙をふいて越えてきた居場所、歓呼と歓声があふれるコンサートのステージ、パク・ヒョシンはもうその場所に立っている。