日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

大好きなものをひたすらに追い求めたその先にー相沢忠洋の岩宿遺跡発見(縄文時代)

2020-04-13 17:14:26 | 縄文時代
お天気も悪くて、なかなか明るい気持ちにもなりづらい日ですが、何かに集中・没頭してみましょう。
さて、日本史Bの学習の続きです。前回は、日本列島と日本人の成り立ちについてちょっとやりました。自分は縄文系か弥生系か、どうだったでしょうか。

さて、今日は山川教科書p.9<旧石器時代人の生活>から。
旧石器時代と新石器時代の境目は1万年前。旧石器時代は打製石器、新石器時代は磨製石器を使用していました。
日本には旧石器時代はないと考えられていましたが、戦後間もない1949年に、群馬県の岩宿遺跡の発見によって、日本にも旧石器時代の文化があったのだということが明らかになりました。これを発見したのは、相沢忠洋さんというアマチュアの考古学者です。この人の名前は覚えてください。

相沢さんは、青年学校が最終学歴ということで、大学で考古学を学んだわけではなく、しかし、考古学が大好きで、納豆売りの行商をしながら、遺跡を調べたり土器を採集したりしていたそうです。そのような生活の中で、関東ローム層という赤土の層から、打製石器を発見します。
しかし・・・以下、安直ですがWikipediaから引用します。

「しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。さらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人など)などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。このため、これといった学歴も財産も有しない相沢の功績をねたみ、『行商人風情が』などと蔑視し、彼の功績を否定する向きもあったという。」

ひどいですね。学歴がなく、行商をやっているような人間だからと、その功績を認めなかったというのです。最終的には認められるのですが。

私も図書館で借りて読んだので手元にはないのですが、
相沢忠洋『「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて』 (講談社文庫)
を、ぜひ読んでみてください。

納豆を売りながらでも、好きなものをひたすらに探究し続けていると、こういうご褒美がいただけるのかな、と思いました。相沢さんは大変な目に遭ったのも確かですが、ロマンのある人生だとも思います。

学歴や学閥で差別を受けるということは、アカデミックの世界ではよくあることだなと、私も感じます。どんな学歴の人であっても、偏見なく、ただニュートラルな視点で、その発見や研究成果を評価してあげるべきだと思います。そうでないから、その風通しの悪さが、日本のアカデミックの世界の進歩を遅らせているのだと思います。
そういう中で、私も籍を置いた奈良大通信教育は、そういった敷居の高さもなく、いろいろなバックグラウンドを持つ、向学心の高い老若男女を受け入れ、応援し、評価してくださる先生方のいらっしゃる、すばらしい学びの場だと思います。文化財学科ではありませんが、万葉集研究で上野誠先生も、奈良大には学閥がないとおっしゃっていました。研究対象の現場がすぐ近くにある大学の強みもありますね。

日本史ではなく世界史になりますが、トロイの遺跡を発見したシュリーマン『古代への情熱―シュリーマン自伝』 (新潮文庫)も、とても心を惹かれる内容です。若いうちは語学を勉強し、財産づくりに専念し、そして40歳になってから発掘に乗り出し、見事遺跡を発見したという、ドラマチックな話です。
今、図書館も休みなので、こういった本も借りられないかと思いますが、いつか一読してみてください。
自分が好きなことをとことん突き詰めるということの大切さを改めて思い出させられます。私もこうして書いていて、自分がとことん突き詰めるべきものは、ということを再確認しました。

p.11~15<縄文文化の成立><縄文人の生活と信仰>ですが、教科書と図説を使って、縄文土器をはじめ、さまざまな道具、そして土偶についてよく見ておいてください。

縄文時代について、このブログで過去に書いた記事としては以下のようなものがあります。
学習の参考にしてください。

大森貝塚は大田区?品川区?

モースが発見した大森貝塚は大田区なのでしょうか?品川区なのでしょうか?
発見された1877年という年も覚えておいてください。東京大学ができた年でもあります。明治時代です。モースはお雇い外国人です。

近況 及び 二上山博物館など(2016.9訪問)

縄文時代には、広範な地域間で交易がおこなわれていたことが、黒曜石やサヌカイトの出土状況からわかります。サヌカイトという石器の材料が採れる二上山のふもとにある二上山博物館に行ってみた時の記事です。サヌカイトというのは、断面がすごく鋭利な感じの石でした。結構硬いのか、サヌカイトを使った楽器も展示されていました。

「縄文―1万年の美の鼓動」展

縄文時代といえば、火炎土器、そして宇宙人のような、人間離れしたフォルムの土偶など、弥生時代の埴輪などと比べて、どちらが芸術的にユニークかといったら、やっぱり縄文時代の方じゃないかな、と私は思うのですが。
「芸術は爆発だ」と言った岡本太郎さんも、1951年、40歳の時に、
「東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受ける。」
と、この時の展示の年表に書かれていました。
どこかで本物の縄文の遺物を目にしてほしいと思います。
東京なら各区市町村にある郷土博物館に、その地で出土した縄文土器などが大抵展示してあると思います。とはいっても、今はそういった施設もお休みしてますよね・・・

近い将来に、行きたい所に行って、やりたいことがやれる環境に早く戻れることを願って、しばらくは雌伏の時。

大変な状況にある人、じっとしているしかない人、いろいろと思いますが、明けない夜はないと考えて、日々の生活に小さくても明るい・新鮮な光を見出して、また、好きなことに没頭する時間など作りながら、待つことにしましょう。

ちなみに、博物館学芸員資格課程の実習Ⅱを受講する権利は得ているのですが、2年連続で、今年も日程的に受講できません。6月なのですが、その日程ではそもそもまだコロナのことがあってできないのでは?台湾ではプロ野球が開幕したとか。1カ月後、2カ月後の日本はどうなっているでしょうか。

縄文時代関連の写真は・・・


長野県の諏訪大社も縄文時代の痕跡が残っている場所かなと思い、2013年の旅の写真を載せます。



2枚目は、野辺山駅から行ったホテルで、夜に撮った星空の写真。その日は秋篠宮ご一家も宿泊されていたようでした。よいホテルでした。ロビーや、芝生のベンチに腰掛けて優雅に読書をする人などもいました。

「縄文―1万年の美の鼓動」展

2018-08-24 22:08:35 | 縄文時代
夏休みもなんと残り1週間となってしまいました。8月は土日をはさんで8日連続出張などもあって、ほとんど勉強(PCに向かっての)ができていません。遅ればせながらこれから自分の勉強をします。

今日は夏休みにしていて、やっと、この夏休み初、博物館へ行きました。上野の東京国立博物館の特別展「縄文―1万年の美の鼓動」です。タイトルがまず、いいですね。



以下、ホームページより。

縄文時代が始まったとされる約1万3000年前。狩猟や漁撈、採集を行っていた縄文時代の人びとが、日々の暮らしのなかで工夫を重ねて作り出したさまざまな道具は、力強さと神秘的な魅力にあふれています。本展では「縄文の美」をテーマに、縄文時代草創期から晩期まで、日本列島の多様な地域で育まれた優品を一堂に集め、その形に込められた人びとの技や思いに迫ります。縄文時代1万年にわたる壮大な「美のうねり」をご体感ください。

私は、縄文時代よりは古墳時代のほうに興味がありますが、それでも、縄文時代の土偶と古墳時代の埴輪のどちらが芸術的かと思うかといえば、土偶の方が圧倒的に芸術的だと思います。

弥生時代以降は、大陸から人が数多く渡って来て、混血が進んで「倭人」が形成されていったので、文化的にも大陸の影響が強くなっていったと思われますが、縄文時代こそが、日本人の最も古くからの原初的な文化の姿を残しているといえるでしょう。火焔型土器や土偶などの、力強い芸術性の高いな作品(器物なのですがつい作品と言いたくなる)が残されていることに、日本人としての誇りのようなものさえ感じます。

「芸術は爆発だ」と言った岡本太郎さんも、縄文時代の土器に影響を受けている人でした。
1951年、岡本太郎さんが40歳の時に、
「東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受ける。」
と、岡本太郎記念館のHPの年表にも書かれています。

博物館学芸員資格課程で学んでいる身として、展示を見て感じたことをいくつか書くと、展示物一つ一つのパネルに、県の地形が控えめに薄く表示されていて、そこに出土した地点が記されています。私は目が悪くなり、最近、博物館のパネルの字が読みづらくなってしまったのですが、人ごみで前の方に行って見られなくても、その県の形を見るだけで何県出土のものかわかったので、とてもよい工夫だと思いました。それによって見た印象でも、群馬、長野、そしてもちろん青森、新潟など、やはり縄文文化は東日本が中心だなということがわかります。

火焔型土器が八つくらい並べられている展示も圧巻でした。国宝のものは、それとは別に国宝室に一つだけ展示されていました。新潟のものですね。父親の実家が新潟で、家にあった新潟県史の図鑑の表紙の写真がそれだったので、小さい頃からそれを眺めていたのでとても親近感がある土器です。

本当にどうしてこんな複雑な芸術的なデザインにしたのか不思議です。機能性はないですよね。

縄文土器は大きさも大きくて、ものによっては、80cmくらいあるのではという立派なものが展示されていました。弥生時代や古墳時代の土器は、これまでにもよく見てきましたが、縄文土器ばかりをこれだけ見る機会はなかなかないです。

土偶は、恐らくこれまで別の展覧会でも見たものが多かったですが、あの斜光器土偶など、じっくり見させてもらいました。
どうして、土偶の顔は写実的でないのでしょう?埴輪は、まだ写実的な方だと思うのですが。
もしかして、本当にこんな顔(宇宙人みたいな)の人達が昔はいて、実は写実的なのか??
クリエイティブすぎます。

青森の縄文晩期の土器群のデザイン性の高さにも改めて感心させられました。三内丸山遺跡の、「縄文のポシェット」も展示されていました。

弥生時代が紀元前4世紀頃からだとすると、日本の歴史1万年のうち、少なく見積もって7000年くらいは縄文時代だったわけですよね。温暖な気候に恵まれた、平和な、芸術的な縄文時代に思いをはせるのに、とてもよい展覧会です。9月2日(日)で終わってしまいます。まだの人は行ってみてください。金曜日は夜21時までやっているようです。
今日はまあまあの込み具合でした。中高年が多く、子どもは少ない。楽しそうに見て回っている女子高生3人組がいました。


写真撮影コーナー。

これを皮切りに、もう少し夏休み中に博物館に行くとしましょう。私の夏休みは、まだまだこれからです(笑)。

近況 及び 二上山博物館など(2016.9訪問)

2018-07-25 20:58:59 | 縄文時代
東京は、梅雨が早く明けてしまって、とんでもない猛暑です。夏休みも1週間くらい早めにスタートしてもよかったような、今年の気候。暑さに負けないように、栄養・睡眠をしっかり取って、耐え忍びましょう。

今年の夏は、あまり休む暇がないのです。博物館学芸員の資格課程はどうなったのか、ということで、ご報告しますと、博物館経営論のレポートが合格して、3月に科目修得試験を受験したのですが、なんと「不合格」でした。試験が不合格だったのは初めてです。それに合格すれば、夏休みに博物館実習を受けられたのですが、今年度はダメ、となりました。
勉強不足だったのは確かなのですが・・・まあ、受けたのも3月ぎりぎりすぎましたかね。

・・・というわけで、博物館実習が受けられなくても、今年の夏は、いろいろ用事がありまして、休む暇がなく、むしろ実習がなくてちょうどよかったかな、という感じです。体力がもつかどうか、戦々恐々です。
今年の夏は、残念ながら奈良に行けないでしょうね・・・涼しくなって、余裕ができたら行きます。

学校関係では、来週から日本史の講習を始めます。3年生は、AOとか指定校推薦に目がくらむ時期と思いますが、日本史をやりすぎて損ということはないので、とことんやってみてほしいと思います。

さて、これで今日の話を終わりにしてもいいのかもしれませんが(笑)、前回の多神社訪問(2016年9月24日)の後の話を少し書きます。

本当は、多神社の後に當麻寺(たいまでら)に行きたいと考えていたのですが、奈良到着も遅かったですし、お彼岸過ぎとはいえ暑かったので、やめました。そして、それでは二上山博物館に行ってみようか、と考えました。学芸員資格課程の勉強をしているわけだし、奈良の博物館もできるだけ見よう、と。高校日本史的には、二上山は、サヌカイトという石器の材料が採れるということで縄文時代でちょっと出てきます。

二上山博物館は、近鉄大阪線で大和八木から東へ15分くらい、近鉄下田駅で下車して8分で到着します。

中に入ると、解説をしてくださるガイドさんが待ち構えていました。二人ほど。私も学芸員資格課程にいることですし、せっかくですから、説明していただきました。施設は結構立派でした。
ガイドさんに、「にじょうさん」なのか「にじょうざん」なのかと質問しましたが、あまり明確な答えはなかったような。結局どっちなのでしょうか?「ふたかみやま」とも言うようですし・・・地元の方々は、なんと言うのが一般的なんでしょうか?

サヌカイトのことは授業で話をしますが、現物は見たことがありませんでした。

現物は、確かに打製石器に適するような、鋭利な断面を持つ石でした。スパッとよく切れそうです。
サヌカイトの他にさまざまな展示がありましたが、印象的だったのは、二上山では金剛砂(ガーネット)が採れるとのこと。


他にもサファイアも採れるということで展示されていました。青くてキラキラ光っていました。二上山て、歴史的にも文学的にも印象的な山ですが、地質学的にも個性的な山なんですね。


サヌカイトで作った楽器もありました。木琴のように演奏できるもので、堅いため、澄んだ硬質の音でした。

小さな博物館でしたが、展示に工夫をこらし、ガイドさんもいる、がんばっている博物館でした。


博物館から見た二上山。多神社や三輪のあたりから見るふたこぶの山とは全然違って見えます。

そこから帰りはJR香芝駅から電車に乗り、和歌山線や桜井線を使って奈良に戻って来たのだったと思います。

その日の宿は、JR奈良駅前のスーパーホテルでした。じゃらんのポイント2000円を使って、5600円で宿泊しました(一人旅です)。お部屋はおまかせ、というプランで、面白い部屋になりました。


畳の座敷のようなつくりで、靴を脱いで上がります。ベッドもゆったりしていました。


窓の外はさえませんが・・・でも室内はとにかく快適でした。スーパーホテルは、手書きのお手紙が置かれていたりします(「○○様 おかえりなさいませ!・・・以下5~6行」的な)。いろいろ企業努力しているんですね。

そんなこんなで、学芸員資格課程の実習前日のプチ旅はおしまいです。次回は、実習の話を書きたいと思います。

大森貝塚は大田区?品川区?

2017-04-14 00:01:27 | 縄文時代
2016年1月に、大森貝塚と品川歴史館に行きました。だいぶ前のことなのですが、いよいよ新しい異動先の授業でそのあたりをやるのでまとめておきます。

大森貝塚は、1877年にモースが発見しました。受験的には、「東京大学」が設立された年と一緒ということで年号を覚えておくと役立ちます。

モースが発見した当時の貝塚の正確な場所はわからなくなってしまっていて、大田区と品川区とでどちらが本家かという論争になっていたようです。結果としては品川区側の方が正しいということで決着したようです。
「大森」というのだから、大田区だと私も思っていたのですが。
品川区と大田区の境界近くで、最寄り駅はJRの大森駅です。
今では、大田区側と品川区側と両方に石碑が建っています。


大森駅から北の方角に進んで行くと、3分も歩いただろうかという近さに、まず大田区側の貝塚跡の石碑が歩道に面して建っていました。


もう少し歩くと品川区立大森貝塚遺跡公園があります。大森駅からは5分ほど。

公園入り口。


その奥まった所に貝塚跡の石碑があります。







その石碑の前のフェンスのすぐ向こうには京浜東北線が走っています。見ようと思えば電車の中からも見えるだろうと思います。モースも列車に乗っていて発見したといわれています。



公園では子どもたちが遊んでいて、霧のようなものが噴出する場所があって、面白い演出の公園だと思いました。


モースの銅像もあって、昔からよく聞いていた大森貝塚を、やっと訪れることができた、という感慨を持って眺めました。

一般の人では見過ごしてしまっていたものを、モースが専門家の目で見出してくれたわけですね。


大森貝塚遺跡公園からさらに北に5分ほど歩くと、品川区立品川歴史館があります。
ここにもモースと大森貝塚関連の展示があります。その他品川区の歴史に関する全般的な展示があります。

私が行ったのは平日だったので、お客さんが他に一人いたかなというくらいでした。なかなか立派な施設です。
大森貝塚跡を訪ねた際には、あわせて見学をおすすめします。
場所など詳しくはホームぺージをご覧ください。
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/kaizuka/kaizuka.html

記事が淡白で恐縮です。後で加筆することもあるかもしれません。