日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

初々しい白鳳の役人

2013-06-27 00:27:46 | 飛鳥時代
6月15日に、興福寺仏頭に関して青木和夫先生の放送大学のテキストから紹介しましたが、もう一つ紹介します。

白鳳時代の初々しさがうかがえる話です。

「白鳳時代のおもしろさは、いわば“俺は俺”という考え方も発生したところにある。675(天武4)年、天武は当摩広麻呂(たぎまのひろまろ)と久努麻呂(くののまろ)の二人に、朝廷には顔を出すなと勅したが、久努麻呂のほうはその勅使に公然と反抗して官位を奪われた。

・・・持統朝では692(持統6)年、持統が伊勢・志摩へ遊覧に出かけようとすると、壬申の乱で活躍し中納言にまで昇進していた大三輪高市麻呂(おおみわのたけちまろ)が“今は春先で百姓は農耕が忙しくなるとき”と中止を進言した。しかし持統がこれを却下したために、高市麻呂は冠を捧げてまた諫言した。ところが持統はその冠を受け取って遊覧旅行に出かけてしまったというのである。

天皇に対して職を賭して諫言した例はその後にない。高市麻呂は中国の古典を読んで忠臣が諫死した歴史を知っていたのであろう。

中納言の納言とは、天子に正しい意見を納める職務である。日本と中国との差を考えずに、彼は信ずるままに行動したのである。白鳳文化の時期は、そのような初々しい時期であった。」
(青木和夫『日本古代史』放送大学教育振興会 p.68)

白鳳時代は、飛鳥浄御原令にはじまる律令制度の運用が開始されたばかりで、官僚たちも初々しく一生懸命だったのでしょう。今の役人にこういう人がどれだけいるか。

私も、この初々しさが感じられる白鳳文化の時代、天武・持統天皇の頃の時代が好きです。教科書で割かれているページが少ないのが不満です。ただ、今度の新課程の教科書では、「飛鳥浄御原令」が太字のゴシック体に変わったので、そこは満足です。
そして、私が高校生の頃は「近江令」が太字のゴシックで本文に記載されていましたが、今では欄外の注で、近江令について「その存在を疑う説もある」という趣旨の説明がされる程度になっています。「近江令」は太字どころか欄外に追いやられてしまったのです。私が教員になるために、約20年ぶりに教科書のこの箇所を見て、鳥肌が立ちました。

体系的な法典としては飛鳥浄御原令が最初であると唱えた青木先生の説に私も加勢して卒業論文を書き、「史学雑誌」をはじめとする場でとりあげていただき、その教科書の注にあるとおり「存在を疑う説」に加わらせていただきました。細かい話は、またいつか。

上の文章中に「納言」とは、という説明もあって新鮮でした。
青木先生のような丁寧な気持ちのこもった文章を書くことを心がけたいとあらためて思いました。先生は、ワープロではなく、手書きで一マスずつ埋めていくタイプだったようです。

八重の桜と白河だるま

2013-06-22 11:08:40 | 江戸時代

先日16日の大河ドラマ「八重の桜」は、二本松少年隊の悲劇のお話でした。
いやー泣ける演出でした。私の地元の白河だるまも出てきました。

会津は白虎隊が有名ですが、二本松少年隊は、中学生くらいの年齢の少年たちが同じように戊辰戦争で戦いました。

以前のドラマの中で、八重(綾瀬はるか)とだんなさんが、白河でだるまを買い、それを二本松少年隊の、目をあけて銃を撃てない子に、だるまのように目を大きくあけて撃つんだよといってプレゼントした、という話が、16日の物語の伏線になっていたのでした。

二本松少年隊も壊滅し、死にかかった少年のふところから、ぼろぼろになった白河だるまが出てきて、八重に手渡されるのですが、そのだるまには両目が入っていた・・・・
つまりは、だるまには願い事がかなったら両目を入れるわけですが、銃を撃つ時に目をつぶってしまっていた少年が、その後の訓練で、目をあけて撃てるようになった、ということです。しかし、その少年は新政府軍との戦いの末、落命してしまう、という結末でした。

だるまの話は全くのフィクションですが、感動させられました。うまいですねえ。その少年の演技のすばらしさもネットでは話題になっていて、福島県民はもちろんですが、見た人はみんな、心を動かされたと思います。今日、再放送ありますか?

私も思わず、家にあるだるまをあらためて見ました。いつ何のために買ったのか記憶にない、片目だけが入っただるまがあったので、両目を入れました。たぶん、願い事はかなっています。



白河だるまは、江戸時代、寛政の改革を行った松平定信が白河藩主の時に、産業振興の意味合いも込めて、当時の有名な画家、谷文晁にデザインをさせ、旧正月の市で売るようになったものです。白河だるまは、眉が鶴、ひげが亀、両脇の耳ひげが松と梅、あごひげ?が竹を表している、めでたいデザインです。大河ドラマでもご丁寧に説明してくれていました。白河市民ならだいたい知っています。
現在は、毎年2月11日にだるま市が開かれていて、約15万人の人出があるとのこと。確かに、この日は白河が一番寒いけれども一番にぎわう日で、出店の数も延々と連なっていてすごいです。

全国的には高崎だるまの方が有名かもしれませんが、白河だるまは、品の良さでは日本一、と言われています。私も、ハンサムなだるまだと思います。他のだるまは、鼻はのっぺりして描いてあるだけですが、白河のだるまは鼻が高い。

市内には2軒のだるま屋さんがあって、顔にやや違いがあります。私はここに載せた写真のだるまの顔の方のお店のだるまが好きかな。口に特徴があります。

実家では、毎年少しずつサイズの大きいだるまを買っていました。母親は、値切るのがうまかったです。

去年、担任していた生徒のために、合格祈願のだるまを用意してもよかったのに、すっかり失念していました。だめですねえ。
しかし、少なくとも自分のクラスは、ほぼ全員が、自分で納得のいく進路を自分で決めることができたので、ほっとしています。

ハンサムで品がよい白河だるま、2月11日のだるま市のにぎわいを見に来るのもよいかと思いますし、または、今では年中、だるま屋さんで売っていたり絵付け体験ができたりするようですし、新幹線の新白河駅などでも購入できます。合格祈願その他に、いかがでしょうか?
私に、買って来いとお申し付けいただければ、帰省した時に買って来ますよ?

大河ドラマも、まだまだ鶴ヶ城の戦闘場面や、そもそも新島襄もこれから登場ですし、期待して見ていくことにしましょう。

興福寺仏頭

2013-06-15 21:41:11 | 飛鳥時代
図書館に行く余裕もできて、本をできるかぎり読んでいます。

近所の図書館で見かけた、大学時代の恩師の本・・・青木和夫先生(故人)は、放送大学でも講師をしていた時期がありました。拝見したことはありませんでしたが。その時の、放送大学のテキストが、図書館の棚に並んでいたのです。

青木先生の講義は、一言一言が血となり肉となり・・・深い講義でした。放送大学のテキストといえども、きっと内容の濃いものだからこそ、図書館に置いてあるのだろうなと思ったりして。概説かなと思いながらも、何か、読んでみれば得るものがあるに違いない、と思って、他の本と一緒に借りてきました。

白鳳文化のページに、このような文章がありました。私の好きな仏像ベスト3の一つ、興福寺の仏頭(と薬師寺の薬師三尊)について。

「・・・衆生を広く救おうという大乗の誓願が、いや、ほんとうに救えるのだという確信となって、仏像に表現されているようにさえ思われる。心の美しい青年の容姿といったらよいかも知れない。人それぞれの好みもあるであろうが、薬師寺東院堂の聖観音、法隆寺の夢違(ゆめたがえ)観音をはじめ小金銅仏に至るまで、白鳳時代の諸像はみな晴朗である。
(青木和夫『日本古代史』放送大学教育振興会 p.67)

なるほど「晴朗」ですか・・・と感じ入りました。
先生の理知的な文章の中で、ここだけが情緒的な文章のような感じがします。もちろん、よく読めば、先生は、全体に、古代の人々の気持ちにまでわけ入って、時代を描き出してくださっているのですが。

薬師寺東塔なども含め、白鳳文化は私も好きなところです。ちょうど、卒業論文でも飛鳥・奈良時代、特に天武・持統天皇の時代を中心に取り上げました。

この白鳳文化に関する教科書の記述も面白いのです。

「律令国家が形成される時期の生気ある若々しい文化で・・・」

と、この教科書(山川出版社『詳説日本史B』ただし新課程のものではない)も妙に情緒的(主観的?)な表現なのです。でも私もそうだそうだ、と強く共感します。
さらに、

「彫刻では興福寺仏頭などがおおらかな表情を伝え、」

と、ここも「おおらか」などという形容をしています。
私がこの興福寺仏頭(もとは山田寺にあった 天武14年開眼)が好きなのは、高校時代に日本史の授業で見て、当時、この仏像によくにた顔・表情の同級生(女子)がいて、似た人がいるくらいだからとても写実的で、本当にのびやかでにこやかでいい表情だなと強い印象が残ったからです。

そして、仏像の表情には当時の時代の空気が反映されている、と私は思うのですが、この白鳳文化の時代、天武・持統天皇の時代は、これから律令に基づく国づくりをしていくぞーっというはりきった初々しい空気を感じて、とても好きです。青木先生の表現「晴朗」な空気があったのでしょう。
同じ表情の仏像を、今作ろうったって、作れる人はいないでしょう。

そういうわけで、青木先生の文章も、教科書も、白鳳文化の所は、ちょっと他とは違う雰囲気があって、面白いなと思うのです。

この興福寺の仏頭に、先日、帰りの電車の中で思いがけず出会いました!とろんとした目が一瞬大きく見開きました(笑)。

「興福寺創建1300年記念 国宝 興福寺仏頭展」が、東京藝術大学の美術館で、今年の9月3日(火)- 11月24日(日)まで開催されるそうです。

公式ホームページ
http://butto.exhn.jp/

その前売券の販売の広告でした。9月ですからまだまだ先です。奈良で見るのが一番いいですが、せっかく東京に来てくれるのなら、会いに行きたいですね。逆に、その時期奈良にいないわけだから、間違えて奈良に見に行ってがっかりしないようにしなければ。
もし、覚えていたら、東京に来る興福寺仏頭に、会いに行ってみてください。

「会いに行く」とか「奈良にいない」とか、思わず書いてしまうくらい、人格があると思わせるような、親しみを感じる仏像です。私も、会えば、何かしら心の中で話しかけています。前に、東京に来てくれたことがあったと思いますが・・・

私の好きな仏像ベスト3、と上に書きましたが、この興福寺仏頭の他には、広隆寺の弥勒菩薩(飛鳥文化の南梁様式)、それと仏像ではないかもしれませんが、興福寺の阿修羅像(天平文化)です。法隆寺の百済観音(飛鳥文化の南梁様式)のスタイルのよさも好きです。

青木先生の本から、ずいぶん長々と書いてしまいました。もう一つ、後日、別の記事を書こうかなと思います。

産業革命 イギリスと日本

2013-06-13 01:15:35 | 明治時代
今日は簡単でごめんなさい。今日、授業をやりながら気がついたことについて。

今年は、初めて世界史の授業を担当しています。日々、自分が勉強しながら教えています。今日も、2年生のクラスでイギリスの産業革命の所をやりました。

18世紀末、世界で初めてイギリスで産業革命が始まった、そして世界で初めて蒸気機関車(鉄道)が走ったのは、リヴァプール―マンチェスター間であると。
リヴァプールは貿易の港町、マンチェスターは綿業の都市であり、マンチェスターで作られた綿製品が、リヴァプールの港から世界に輸出された・・・

日本で産業革命が始まったのは、イギリスの産業革命から約100年遅れの19C末、明治時代です。
その明治時代に、日本で初めて鉄道が敷設されたのは、1872年、新橋―横浜間でした。
この区間にも意味があって、当時日本の輸出品の主力であった生糸を、生糸生産が盛んだった群馬や埼玉から新橋まで運び、さらに新橋から鉄道で横浜まで運んで、横浜港から世界に輸出したのです。

イギリスでは綿製品、日本では生糸、それを輸出するために、生産地と貿易港を結ぶ路線がまっさきに敷設されたというわけです。
日本がイギリスのまねをしたのかは定かではありません。今ちらちらとネットで調べながら書いていると、いろいろ面白そうな話題が目に入りますが、今日は横道にそれないことにします。
まねをしたかどうかはともかく、国は違っても、同じような歴史的進展の道を進むものだなあ、と、勉強になりました。教科書レベルでの知識だけですが。

今年は、世界史を勉強しながら、へえそうだったんだなあ、と目からうろこのことが多いです。
第一次世界大戦における欧米各国の経験は、第二次世界大戦における日本の経験(事象)とも似ていることに気づいたりもします。第二次大戦の段階では、欧米は第一次大戦の反省を踏まえて戦っていたのでしょう。日本はそれがなかった。

この歳になって新しく知るということが、特に歴史関係では、恥ずかしい気持ちにもなります。今まで知らなかった・勉強不足というのが。しかし、自分自身の中では、今からでも知ることができてよかったと、うれしい気持ちもあります。
日本史プロパーの教員ではありましたが、世界史もこの歳になってからでも担当できてよかった。今年は地理もやっていますが、そちらでもいろいろ新しく目覚めています。

4月からは、毎日毎日が、目からうろこ・犬も歩けば棒に当たる・セレンディピテイの日々のようです。セレンディピティってなんじゃらほい?という人には、説明してあげたいのですが今日ここではできないので後日また。
いろいろなヒント・アイディアは、浮かんできたら逃さないように待ち構えていたいものです。

さて、そろそろ寝ます。今日は、イギリスと日本の産業革命における共通点で感心したので、それを忘れないうちに早めに書いておこうと思って。
それではまた。

生麦事件の現場を訪ねて

2013-06-09 11:57:02 | 江戸時代
先週、時間をうまく使って、生麦事件の現場を見学してきました。
職場からも近く、また、授業でもちょうど生麦事件にさしかかってきたので・・・
前の学校の周辺にも、教科書の歴史にも関わりが深い史跡がたくさんありました。今度も、調べ始めるといろいろわかってきました。意欲的に調べ、現地を訪ねてみたいと思います。

さて、生麦事件は、1862(文久2)年、神奈川宿に近い生麦村で、文久の改革を行って薩摩に帰る島津久光の大名行列に遭遇したイギリス人が非礼をとがめられ、殺傷された事件です。
この事件が原因で、翌年1863年に薩英戦争が起こっています。

簡単に下調べしただけで出かけたのですが、まず、京浜急行・生麦駅で下車、生麦小学校の方向を目指して歩きました。方向としては品川方面。
大名行列も行き交った旧東海道は、第一京浜と一致している場所と、そうでない場所があり、生麦のあたりは、第一京浜とは別の、あまり交通量の多くない、住宅地の中にある普通の道、という雰囲気です。小学校のグランドからさらに東よりの道に出ると、それが旧東海道。
そして、注意深く道を歩いて行くと、イギリス人が切りつけられたその現場に説明板が掲示されているのが見つかりました。住所は、生麦3-16付近。駅から10分もあればたどり着けます。



ここで外国人4人、うち女性1人が大名行列通過の際に下馬しなかったために切りつけられたという説明が書いてあります。
道は、こんな感じです。150年前、ここを大名行列が通過し、ここで事件が起きたのか、と、その騒擾を思い浮かべてみたりして。



さらに、ここからイギリス人一行は傷を負いながらも神奈川宿(今の横浜)方面へ馬で逃げるわけですが、そのうちの一人、リチャードソンが絶命した場所に石碑が立っています。
ただし、この石碑は、横浜環状北線建設工事のために、現在は、実際の場所からもっと川崎寄りに移設されています。平成22年8月から平成28年末までここにあって、後で戻されるようです。
発生現場から10分くらい旧東海道を歩くと到達します。



石碑には、スマイルズの『西国立志編』を訳した中村正直の詩(撰文)が刻まれていました。明治16年(1883)に建てられていますから、事件から20年以上経っています。
石碑は、「文久二年」という文字からはじまり、それらの文字はクッキリとして読みとることができます。
内容は、死亡したイギリス人リチャードソンにささげる詩の形になっています。説明板に活字でその内容が記されています。



その中の一文、

「万国に史(ふひと)有り君が名を伝う」

とあります。世界中に歴史家(歴史の記録者)がいて君の名前を伝えるだろう、と。
私も、こうしてここに書くことで伝えたよ、という気分です。

発生現場から石碑までのちょうど道半ばあたりに、キリンビールの工場の入り口があります。無料で1杯は飲ませてくれるらしいですが。そして、石碑の近くに、キリンビールのレストラン、キリン横浜ビアビレッジの入り口がありました。工場見学もできる施設らしいです。私はこういう施設があるのをこれまで知りませんでした。今度改めて来てみようかな。ビールはせいぜい1杯くらいしか飲めませんが。



ちなみに、どうしてこの地域を「生麦」というのかですが、江戸時代、2代将軍秀忠の行列が、この地域を通りかかった時に、道に水がたまっていて、通行できなかったそうです。そこで、村の人たちが、街道の脇の生麦を刈り取って道に敷いて、通れるようにしたとのこと。秀忠は感謝として、この一帯に生麦という地名を与え、村人に漁業を営むに関して特別な権利を与えた、と書いてあるのを見かけました。いずれにせよ麦畑があったようですね。
キリンビールの工場も麦にひっかけてここに建てたのでしょうか?