東京も緊急事態宣言が解除されましたが、日に日に電車は密っぽくなってきています。
私も従来の時間に出勤して仕事をして、慣らしていますが、職場で一日動いた日は疲れてすぐ寝ました。やはり在宅が長いと、体力も落ちているようで、少しずつゆるゆると再開していかないとですね。生徒の皆さんも、少しずつ慣らしていかないと、疲れると思います。
コロナ前は50分授業×6時間でしたが、今から思うと、それだけの長時間、しかも人数的にも教室にぎっしりの状態で、よくやっていたなと思います。コロナ後はもうそういう状態に戻らないでもらえたら、生徒も教員も助かると思います。特に、地歴公民科のような科目は、国数英のように習熟度別の少人数ではないので、かなりエネルギーを使うのです。ここで立ち止まって、これまでとこれからを考える時間が取れたことは、貴重でした。
少子化時代であることも生かして、40人学級はやめて、ゆったりと学べる環境に変えていってほしいですね。私は定時制高校で勤務したこともあるのですが、その経験から、学力には関係なく、少人数であるに越したことはない、少人数であればあるほどよい、と思うようになりました。
さて、3年生の日本史Bの授業の補足を続けます。来週から登校日はありますが、授業はまだもう少し先になります。
今日は古墳時代中期についてです。教科書はまず、p.25~28まで。
太字にしてあるのは、試験でも大切な部分なので、よく理解してください。
古墳時代中期は、5世紀を中心とします。とにかく古墳が巨大化します。
具体的な例は、少し前に世界遺産に登録された、大阪・堺市にある「仁徳天皇陵」=大仙陵古墳を含む「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」です。仁徳天皇陵と一般に呼ばれている大仙陵古墳は、日本最大の古墳です。
墳丘の大きさ486m。エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられます。古墳の陵域は濠を含めて約47万㎡で、甲子園球場が12個も入る広さ。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれています。(堺市ホームページを参照)それだけの人を動かす強い権力者が存在したということですね。
私も3年前の2017年に、仁徳天皇陵=大仙陵古墳を見て来ました。地上からは本当に山にしか見えません。エリアも広く電車の駅も二駅くらいに及んでいます。過去の記事をご覧ください。
そうだ、堺に行こう! その1(「仁徳天皇陵」へ)
そうだ、堺に行こう!その2(百舌鳥古墳群バーチャルリアリティーツアー体験)
堺には、千利休や豊臣秀吉、織田信長などにもゆかりの場所が残っていますので、一度行ってみてください。与謝野晶子の生まれた地でもあります。写真も載せてありますが、前方後円墳型カレーを、堺市役所最上階の展望コーナーで食べて来ました。私が行ったのは、まだ世界遺産登録前でしたから、今はもっといろいろな場所で古墳にちなむ食べ物やグッズが出ているものと思われます。
そうだ、堺に行こう!その3 前方後円墳型カレー、さかい利晶の杜など、堺探索
そして、中期の古墳の特徴としては、もう一つ、副葬品に武具や馬具が多くなるということです。前期は鏡や玉といった呪術的要素が強かったのですが、中期では戦いに使われた道具が多くなります。こうしたことから被葬者は武人的性格をもつといわれています。
乗馬の風習もこの頃日本に入ってきて、「騎馬民族征服王朝説」も教科書の注に記載されています。華やかな馬具の副葬品は確かに大陸の香りを感じさせます。この写真はさきたま古墳群にあった展示です。
大陸からの人々も多く渡ってきて、5世紀のこの頃にやってきた人達を渡来人といいます。渡来人は日本にさまざまな文化を伝えました。漢字も伝わってきました。
5世紀頃から漢字が使われていたことを示す文化財としては、教科書にも当然載っていますし受験でも覚えるべきものですが、まず、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀です。これは、東京国立博物館で見ることができます。
もう一つ、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣です。これは、行田市のさきたま古墳群にあり、そこにあるさきたま史跡の博物館で見ることができます。関東に住んでいる人は両方とも電車で行ける所で見ることができますので一度現物を見てください。
「鉄刀」と「鉄剣」の違いは、刀は「反り」がありますが、剣は「まっすぐ」という点です。
そして、そこに刻まれている文字に同じ王の名があるわけですね。「ワカタケル大王」と。これについては実際の授業でやりましょう。
5世紀は、今の私にとっても興味深い時代です。最初の大学で律令制度をやっていた頃は、飛鳥・奈良時代、つまり、7~8世紀に興味があったのです。国家としての始まりはいつなのかを考えるために、当時は律令というものに着目していたのですが、考古学の発展、発掘調査の進展などにより、より古い時代のこともいろいろなことが解明されてきました。5世紀あたりのこともよりわかるようになって、ここ数年は、私が興味を持っている出雲のこと、その出雲の痕跡を奈良に見つけるということをやりたくなり、その手掛かりが三輪山のあたりに漂っている、と考え、この地域を中心としてよく訪れるようになりました。
教科書に、石製模造品のことが簡単に記述されています(p.31)。こうした石製模造品を使って5世紀頃の祭祀がとり行われていました。この石製模造品の一つが、私が奈良大通信教育の卒論で取り上げた子持勾玉です。勾玉に、勾玉の子供がくっついたような形で、ちょっと見には気持ち悪いかもしれません。これは、10㎝前後と大きく、大体が1個ずつしか見つかりません。しかも古墳の中からはほとんど見つかりません。副葬品ではないのです。まだ全国で400個くらいしか見つかっていません。
これが、奈良県の三輪山周辺で多く見つかっている、そして、それがどちらかというと東日本に多い、ということに着目しました・・・でもあまりここで書くとネタバレ(笑)になるのでもうやめておきましょう。
とにかく、こうした石製模造品を使って祭祀が行われた跡も多く発見されていて、その付近に今も神社が存在している例があります。教科書には、三輪山のふもとの大神神社(奈良県)、沖ノ島の宗像大社(福岡県)などの例が挙げられています(p.31注①)。以前の教科書には、ここに出雲大社や住吉大社も入れてあったのですが、今は抜かれています。あまり根拠がないということになったのでしょうか。まあそれも納得です。
大神神社は本殿がなく、三輪山自体が御神体ということで、この時代は三輪山のような円錐形の整った形の山や、巨大な岩=磐座(いわくら)ですね、や、絶海の孤島などに神がやどる所と考え、祭祀の対象とした、と教科書にも書かれています(p.31)。
私は神社はあまり好きでなかったのですが、こうして、5世紀頃を起源として1000年以上もずっと祭祀が続いている場所(神社)もあるんだ、と知り、そういった起源の古い神社についてはとても興味を持つようになりました。
平安時代にまとめられた『延喜式』には、当時の神社(式内社)名が記録されています。「延喜式神名帳」といわれます。これに載っている神社も少なくとも平安時代から存在していたことがわかります。
高校の日本史では、こんな式内社だとかいう話は私も教わりませんでしたし、あまり知る機会がないと思います。私も数年前に知ったくらいです。
神社もいろいろあるということを知るとよいですね。また『延喜式』の神名帳を見てみると何か発見があるかもしれません。ネットでもある程度知ることができると思います。
子持勾玉が近くで出土している神社は結構あって、それがその国の一宮またはそれに次ぐ古社であることも多いのです。私のハンドルネームのツツコワケの元になっている陸奥国一宮の都々古別神社(福島県白河市)、大和国一宮の大神神社(奈良県)、この二つは円錐形の山のふもとにあります。関東では武蔵国一宮の小野神社(東京都多摩市)があります。小野神社なんて知らないよ?という人がほとんどだと思います。意外と一宮はもう今の時代ではあまり有名でない神社も多いんですね。このあたりも謎といえば謎です(笑 卒論では書いていますが)。私もツツコワケ神社は地元なのに、奈良大通信に入って勉強をしている中で知ったくらいです。
東京の小野神社を訪れた記事は以下です。
武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その1
起源は古い・・・武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その2
閑散としていて寂しい感じさえ漂う神社ですが、天皇家の菊の紋が神社の入り口にあったりします。神社の位置には諸説あるようですが、多摩川の近く、神奈川県との境界に近いです。
次に紹介する古墳は、これも中期・5世紀頃の前方後円墳、五色塚古墳です。
復元されてあまりにも整った古墳で、付近で子持勾玉が出土している古墳でもあるので、奈良大の学芸員の実習で来たついでに足を延ばして明石にあるこの古墳を見て来ました。
行く価値あり、です。
明石へ。五色塚古墳見学記 (2016年10月)
淡路島・明石海峡大橋を見はるかす絶景! 五色塚古墳見学記 その2
海を見下ろす、すごく景色のいい場所に古墳が造られています。交通の便も悪くないので訪れてみてください。そして、明石焼も食べてください。本場はおいしかったです。
関東の中期古墳として、ブログに書いたのは、野毛大塚古墳です。関西の古墳に比べたら、小さくてかわいい古墳です。大井町線等々力駅から歩いて行けます。帆立貝型古墳といわれます。
野毛大塚古墳(東京都世田谷区)
ブログには記事にしていませんが、埼玉県行田市のさきたま古墳群も関東の人にはお勧めです。ちょっと交通の便がよくないですが。ピクニック気分で行かれるとよいと思います。
のどかでいいでしょう?毎年ゴールデンウィーク頃に「火祭り」をやっていて、そののぼりが立っています。
鉄剣が発見された稲荷山古墳の前方部
後円部。
なんだか古墳の紹介ばかりになってしまいました。今回は中期の古墳限定です。
緊急事態宣言も解除されたので、古墳探訪もよさそうです。古墳は大きいので、「密」になる心配はないと思います。
今日は電車に乗って外出し、カフェにも入りましたが、座席が一つおきになっていて、お店としてはお客さんを本当はたくさん入れたいのでしょうけれども、客側としてはゆったり座れて、とても快適です。
今日は、日比谷に移転した島根県のアンテナショップ、日比谷しまね館に行きました。前は日本橋にありました。出雲が好きなので島根のアンテナショップはよく行きます。
アンテナショップで買っていたものが自粛中に在庫が切れそうになって、早く行きたいなと待ち構えていたところでした。行きたいのは奈良と青森のアンテナショップです。アンテナショップだけでなくて現地にももちろん行きたいですけどね。
マスク着用、手洗い励行、夜遊び禁止(笑)、で、なんとかコロナを食い止め、自由にどこでも行ける生活に早く戻りたいですね。
私も従来の時間に出勤して仕事をして、慣らしていますが、職場で一日動いた日は疲れてすぐ寝ました。やはり在宅が長いと、体力も落ちているようで、少しずつゆるゆると再開していかないとですね。生徒の皆さんも、少しずつ慣らしていかないと、疲れると思います。
コロナ前は50分授業×6時間でしたが、今から思うと、それだけの長時間、しかも人数的にも教室にぎっしりの状態で、よくやっていたなと思います。コロナ後はもうそういう状態に戻らないでもらえたら、生徒も教員も助かると思います。特に、地歴公民科のような科目は、国数英のように習熟度別の少人数ではないので、かなりエネルギーを使うのです。ここで立ち止まって、これまでとこれからを考える時間が取れたことは、貴重でした。
少子化時代であることも生かして、40人学級はやめて、ゆったりと学べる環境に変えていってほしいですね。私は定時制高校で勤務したこともあるのですが、その経験から、学力には関係なく、少人数であるに越したことはない、少人数であればあるほどよい、と思うようになりました。
さて、3年生の日本史Bの授業の補足を続けます。来週から登校日はありますが、授業はまだもう少し先になります。
今日は古墳時代中期についてです。教科書はまず、p.25~28まで。
太字にしてあるのは、試験でも大切な部分なので、よく理解してください。
古墳時代中期は、5世紀を中心とします。とにかく古墳が巨大化します。
具体的な例は、少し前に世界遺産に登録された、大阪・堺市にある「仁徳天皇陵」=大仙陵古墳を含む「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」です。仁徳天皇陵と一般に呼ばれている大仙陵古墳は、日本最大の古墳です。
墳丘の大きさ486m。エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられます。古墳の陵域は濠を含めて約47万㎡で、甲子園球場が12個も入る広さ。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれています。(堺市ホームページを参照)それだけの人を動かす強い権力者が存在したということですね。
私も3年前の2017年に、仁徳天皇陵=大仙陵古墳を見て来ました。地上からは本当に山にしか見えません。エリアも広く電車の駅も二駅くらいに及んでいます。過去の記事をご覧ください。
そうだ、堺に行こう! その1(「仁徳天皇陵」へ)
そうだ、堺に行こう!その2(百舌鳥古墳群バーチャルリアリティーツアー体験)
堺には、千利休や豊臣秀吉、織田信長などにもゆかりの場所が残っていますので、一度行ってみてください。与謝野晶子の生まれた地でもあります。写真も載せてありますが、前方後円墳型カレーを、堺市役所最上階の展望コーナーで食べて来ました。私が行ったのは、まだ世界遺産登録前でしたから、今はもっといろいろな場所で古墳にちなむ食べ物やグッズが出ているものと思われます。
そうだ、堺に行こう!その3 前方後円墳型カレー、さかい利晶の杜など、堺探索
そして、中期の古墳の特徴としては、もう一つ、副葬品に武具や馬具が多くなるということです。前期は鏡や玉といった呪術的要素が強かったのですが、中期では戦いに使われた道具が多くなります。こうしたことから被葬者は武人的性格をもつといわれています。
乗馬の風習もこの頃日本に入ってきて、「騎馬民族征服王朝説」も教科書の注に記載されています。華やかな馬具の副葬品は確かに大陸の香りを感じさせます。この写真はさきたま古墳群にあった展示です。
大陸からの人々も多く渡ってきて、5世紀のこの頃にやってきた人達を渡来人といいます。渡来人は日本にさまざまな文化を伝えました。漢字も伝わってきました。
5世紀頃から漢字が使われていたことを示す文化財としては、教科書にも当然載っていますし受験でも覚えるべきものですが、まず、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀です。これは、東京国立博物館で見ることができます。
もう一つ、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣です。これは、行田市のさきたま古墳群にあり、そこにあるさきたま史跡の博物館で見ることができます。関東に住んでいる人は両方とも電車で行ける所で見ることができますので一度現物を見てください。
「鉄刀」と「鉄剣」の違いは、刀は「反り」がありますが、剣は「まっすぐ」という点です。
そして、そこに刻まれている文字に同じ王の名があるわけですね。「ワカタケル大王」と。これについては実際の授業でやりましょう。
5世紀は、今の私にとっても興味深い時代です。最初の大学で律令制度をやっていた頃は、飛鳥・奈良時代、つまり、7~8世紀に興味があったのです。国家としての始まりはいつなのかを考えるために、当時は律令というものに着目していたのですが、考古学の発展、発掘調査の進展などにより、より古い時代のこともいろいろなことが解明されてきました。5世紀あたりのこともよりわかるようになって、ここ数年は、私が興味を持っている出雲のこと、その出雲の痕跡を奈良に見つけるということをやりたくなり、その手掛かりが三輪山のあたりに漂っている、と考え、この地域を中心としてよく訪れるようになりました。
教科書に、石製模造品のことが簡単に記述されています(p.31)。こうした石製模造品を使って5世紀頃の祭祀がとり行われていました。この石製模造品の一つが、私が奈良大通信教育の卒論で取り上げた子持勾玉です。勾玉に、勾玉の子供がくっついたような形で、ちょっと見には気持ち悪いかもしれません。これは、10㎝前後と大きく、大体が1個ずつしか見つかりません。しかも古墳の中からはほとんど見つかりません。副葬品ではないのです。まだ全国で400個くらいしか見つかっていません。
これが、奈良県の三輪山周辺で多く見つかっている、そして、それがどちらかというと東日本に多い、ということに着目しました・・・でもあまりここで書くとネタバレ(笑)になるのでもうやめておきましょう。
とにかく、こうした石製模造品を使って祭祀が行われた跡も多く発見されていて、その付近に今も神社が存在している例があります。教科書には、三輪山のふもとの大神神社(奈良県)、沖ノ島の宗像大社(福岡県)などの例が挙げられています(p.31注①)。以前の教科書には、ここに出雲大社や住吉大社も入れてあったのですが、今は抜かれています。あまり根拠がないということになったのでしょうか。まあそれも納得です。
大神神社は本殿がなく、三輪山自体が御神体ということで、この時代は三輪山のような円錐形の整った形の山や、巨大な岩=磐座(いわくら)ですね、や、絶海の孤島などに神がやどる所と考え、祭祀の対象とした、と教科書にも書かれています(p.31)。
私は神社はあまり好きでなかったのですが、こうして、5世紀頃を起源として1000年以上もずっと祭祀が続いている場所(神社)もあるんだ、と知り、そういった起源の古い神社についてはとても興味を持つようになりました。
平安時代にまとめられた『延喜式』には、当時の神社(式内社)名が記録されています。「延喜式神名帳」といわれます。これに載っている神社も少なくとも平安時代から存在していたことがわかります。
高校の日本史では、こんな式内社だとかいう話は私も教わりませんでしたし、あまり知る機会がないと思います。私も数年前に知ったくらいです。
神社もいろいろあるということを知るとよいですね。また『延喜式』の神名帳を見てみると何か発見があるかもしれません。ネットでもある程度知ることができると思います。
子持勾玉が近くで出土している神社は結構あって、それがその国の一宮またはそれに次ぐ古社であることも多いのです。私のハンドルネームのツツコワケの元になっている陸奥国一宮の都々古別神社(福島県白河市)、大和国一宮の大神神社(奈良県)、この二つは円錐形の山のふもとにあります。関東では武蔵国一宮の小野神社(東京都多摩市)があります。小野神社なんて知らないよ?という人がほとんどだと思います。意外と一宮はもう今の時代ではあまり有名でない神社も多いんですね。このあたりも謎といえば謎です(笑 卒論では書いていますが)。私もツツコワケ神社は地元なのに、奈良大通信に入って勉強をしている中で知ったくらいです。
東京の小野神社を訪れた記事は以下です。
武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その1
起源は古い・・・武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その2
閑散としていて寂しい感じさえ漂う神社ですが、天皇家の菊の紋が神社の入り口にあったりします。神社の位置には諸説あるようですが、多摩川の近く、神奈川県との境界に近いです。
次に紹介する古墳は、これも中期・5世紀頃の前方後円墳、五色塚古墳です。
復元されてあまりにも整った古墳で、付近で子持勾玉が出土している古墳でもあるので、奈良大の学芸員の実習で来たついでに足を延ばして明石にあるこの古墳を見て来ました。
行く価値あり、です。
明石へ。五色塚古墳見学記 (2016年10月)
淡路島・明石海峡大橋を見はるかす絶景! 五色塚古墳見学記 その2
海を見下ろす、すごく景色のいい場所に古墳が造られています。交通の便も悪くないので訪れてみてください。そして、明石焼も食べてください。本場はおいしかったです。
関東の中期古墳として、ブログに書いたのは、野毛大塚古墳です。関西の古墳に比べたら、小さくてかわいい古墳です。大井町線等々力駅から歩いて行けます。帆立貝型古墳といわれます。
野毛大塚古墳(東京都世田谷区)
ブログには記事にしていませんが、埼玉県行田市のさきたま古墳群も関東の人にはお勧めです。ちょっと交通の便がよくないですが。ピクニック気分で行かれるとよいと思います。
のどかでいいでしょう?毎年ゴールデンウィーク頃に「火祭り」をやっていて、そののぼりが立っています。
鉄剣が発見された稲荷山古墳の前方部
後円部。
なんだか古墳の紹介ばかりになってしまいました。今回は中期の古墳限定です。
緊急事態宣言も解除されたので、古墳探訪もよさそうです。古墳は大きいので、「密」になる心配はないと思います。
今日は電車に乗って外出し、カフェにも入りましたが、座席が一つおきになっていて、お店としてはお客さんを本当はたくさん入れたいのでしょうけれども、客側としてはゆったり座れて、とても快適です。
今日は、日比谷に移転した島根県のアンテナショップ、日比谷しまね館に行きました。前は日本橋にありました。出雲が好きなので島根のアンテナショップはよく行きます。
アンテナショップで買っていたものが自粛中に在庫が切れそうになって、早く行きたいなと待ち構えていたところでした。行きたいのは奈良と青森のアンテナショップです。アンテナショップだけでなくて現地にももちろん行きたいですけどね。
マスク着用、手洗い励行、夜遊び禁止(笑)、で、なんとかコロナを食い止め、自由にどこでも行ける生活に早く戻りたいですね。
大仙陵古墳に行く予定でした。
あべのハルカスから大和三山を眺める予定も組んでました。
残念です。秋でもまだ怖いです・・・
「ワカタケル大王」は雄略天皇に比定される??
籠もよ みこもち ふぐしもよ なんて万葉集の初っ端にありましたね。
ゆりさんのブログは、毎日なるほどとうなずかせてくれる中身のつまったブログですね。
あべのハルカスから大和三山が見えるんですか?
知りませんでした。私もいつか行ってみます。
新幹線なら飛行機よりも大丈夫なんじゃないかな、と思いますが、私も当分行けませんね。夏休みは短くなったし、卒業学年の担任なので、進路指導等で今年は時間がなさそうです。
そういえば万葉集の始まりはその歌、ということは、かなり5世紀は画期ということがその方面からも言えそうですね。三輪山もよく出てきますしね。