「昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀(ひまつり)をする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、還って来る。これを日の伴と謂っている。宮津辺では、日天様の御伴(おとも)と称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う……。こうある。
何の訣(わけ)とも知らず、社日や、彼岸には、女がこう言う行(ぎょう)の様なことをした。又現に、してもいるのである。」
(折口信夫「山越しの阿弥陀像の画因」青空文庫より)
これは、折口信夫の『死者の書』(中公文庫)に一緒に収められている文章です。
先日、学芸員資格課程の学内実習の時に訪れようとして断念した当麻寺、その予習のために、『死者の書』を読んでいたのですが、この文章も、以前どこかで見たし、どこかで写した覚えが・・・と思ったら、奈良大通信(学部)の民俗学のレポートでここを引用したようです。
以前から書いていますように、二上山に沈む夕日を見たい、と思って、この日帰り弾丸ツアーを行ったわけですが、私も、まるでこの、日のお伴をしていたようではないか、と改めて気がついたわけです。しかも、上の文章によると、こういうことをするのは、女性であるということです。
この、太陽信仰であるとか、太陽の出てくる・沈む方角について、個人的に関心があって、これまであまり具体的に書いてきませんでしたが、いろいろ考えているところです。時間があれば、少しずつと思っています。文献史学だけでなく、考古学も、神話学も、民俗学も、さまざまな分野を総合して考える必要があると思います。
折口信夫や柳田国男は民俗学であり、彼らの書いた文章の中にも、とても興味深いものがいろいろあります。その中の一つがこれです。
まあ、私の場合は、桜井駅を出発して、北上し、箸墓古墳あたりからまた南に戻ってきたので、厳密には、南北に移動していたわけで、太陽をずっと追いかけていたわけではないのですが。お彼岸に夕日が二上山に沈む、それを見るベストなポイントを探してあちらこちら自転車で駆け回っていたのです。
その日の行程は、桜井駅からレンタサイクルで出発し、金屋付近を通って、磯城瑞垣宮跡を訪れ、桜井市埋蔵文化財センターで、卒論の参考になるかなということで「魅惑の玉」という展示を見て、大神神社にお参りする前に、とあるお店で三輪そうめんを食べ・・・
→大神神社→狭井神社→大美和の杜展望台→茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳
そして、また逆のルートで戻り、途中であの神御前神社に遭遇し、桜井駅まで戻って、自転車を返し、再び大美和の杜に戻って、日没を見ようとしましたが、帰りが遅くなってしまうので、三輪駅から日没を見ることにした、というのが一日の流れでした。それから、若宮社とよばれる大直禰子(オオタタネコ)神社もちょっと訪れました。
これまでの関連記事
崇神天皇の宮・磯城瑞籬宮跡(2015春彼岸奈良弾丸ツアーA)
倭迹迹日百襲姫命(=ヒミコ?)を祀る 神御前神社(2015春彼岸奈良弾丸ツアーB)
春分の日 二上山に沈む夕日
これまで細切れにこれらの旅のことは書いてきましたので、まだ書いていない部分をまとめたいと思います。
茅原大墓古墳
三輪山の真西にあることから、何か重要なものが埋まっているのではないか、また、誰が埋葬されているのか、と、個人的には興味があるのですが、それほど世間的には注目されていないようです。しかし、一度見たいと思っていました。
桜井市ホームページによると、この古墳は、5世紀前半代、古墳時代中期の帆立貝式の前方後円墳で、全長は約85m。地元では倭佐保姫の御陵として永く保存されてきた、とのこと。国指定史跡です。「盾持人埴輪」という、武人の埴輪も出ています。
古墳は遠目に見たのですが、上に上がるということまでは時間もなかったのでしませんでした。このあたりを自転車で走っていたとき、広々とした田んぼ・畑の中で私ただ一人、という開けた空間ができて、こんな雲一つないいい天気で、こんなのどかな、すばらしい空間を独り占めできるなんて・・・と、自転車をこぎながら「うわあー、いいなあー。」と、誰も聞いていないので一人で声をあげていました。確かに田んぼ・畑・古墳以外何もない場所なのですが、東京でごみごみした場所で生活している私にはこのような開放的な空間は魅力的に感じました。しかし、こういう場所を観光の場所として選ぶ人もめったにいないのかな??とあまりのひとけのなさにそんなことを思いました。
人がぞろぞろといるよりも、このくらいのどかでひとけがない状態が維持されることも望みます。また、行ってみたいものです。
いいなあと感動したのにその場所を写真に撮っていないという、いまだ、シャッターチャンスとか被写体のとらえ方とかがうまくない私です。
ホケノ山古墳
奈良大のスクーリングの時に、雨のために古墳の上に上がることができなかったので、上からの景色を見たい!というリベンジで行きました。
そもそも名前が、カタカナで「ホケノ」とは何ぞや?と疑問なわけですが。
桜井市ホームページより、要約しますと、3世紀中頃に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つ。全長90メートル、後円部径60メートル、高さ8.5メートルの纒向型の前方後円墳で、周濠が確認されている。大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している、とのことです。こちらも国指定史跡です。
箸墓古墳の後円部方向、三輪山側にあります。この位置関係からしても、この箸墓古墳が卑弥呼の墓だとしたら、被葬者が「豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)」とされていることからも、卑弥呼の後継者・壱与(トヨ)と音が似ているし、もしかして、というふうにも思われます。
いずれにせよ、茅原大墓古墳も、ホケノ山古墳も、箸墓古墳も、女性が被葬者であるということは、とても興味深いことです。
ホケノ山古墳の上から見た、箸墓古墳方面。後円部が丸く見えます。
ホケノ山古墳の上から見た三輪山。
聞いていたとおり、360度開けていて、よい眺めでした。
古墳の斜面の一部は、畑になっていました。近所の子どもたちも、古墳の上に上がってきて、おばあさんと一緒に遊んでいました。のどかです・・・
箸墓古墳は、今回は、あまり見るつもりはなかったのですが、一応ため池の周辺を少し走って来ました。
再度、茅原大墓古墳の裏側を通過し、
民家の街並みの中を行くと、神御前神社が出現するわけです。
桜井駅で自転車を返して、三輪駅から再び大神神社に向かいました。大神神社の手前に、「若宮社」と額がかかっている大直禰子(オオタタネコ)神社があります。オオタタネコは、大神神社の神様、大物主の子供です。だから「若宮」社なのでしょう。
若宮社前の道は、大神神社の参道から一本外れているのですが、私がそこを歩いていたら、大神神社の参道側から、若宮社に向かって、勢いよく、深々と、頭を下げて立ち去るスーツを着た若者を見かけました。急いでいたようですが、それでもとても心がこもった敬礼でした。大神神社だけでなく、こちらの若宮社に対する人々の信仰心も篤いのかなと感じさせられました。若宮社は、外観がお寺のように見えます。大神神社も三輪明神と呼ばれていたし、神仏習合の時期もあったからですね。
夕日を浴びる大神神社の入り口。
そこから、再び大美和の杜展望台へ行き、日没を待つことにしました。お客さんは、数組。本格的なカメラを構えて、二上山に沈む夕日をとらえようとする人達もいました。私は、レンズの選択を誤って(一眼レフは持っていたのに展示品の勾玉を撮るためにマクロレンズしか持っていなかった)、スマホカメラで撮るしかありませんでした。
見ていると、太陽の強い光で、二上山がよく見えないくらいで、これは、スマホカメラで撮ってもどの程度のものが撮れるか・・・というのと、三輪駅発の電車は1時間に1本しかなく、日没まで大美和の杜にいると、東京への帰着が大幅に遅れてしまう・・・ということ、日没がちょうと三輪駅に電車が来る時間と一致しているので、三輪駅から見てみようか、という判断で、大美和の杜を下って駅に向かうことにしました。
見込み通り、電車が来る前に、高架の階段途中から見ると、ちょうど二上山の谷間に、沈んで行く夕日を見ることができました!我ながら勘がいい。と喜びました。
二上山に沈む夕日は1枚だけ紹介したのですが、もう少し、載せておきます。アングルがばらばらですみません。次はもうちょっと、開けた場所で見たいと思いました。千股池がよいらしいですが、崇神天皇の宮があった、この三輪のあたりのどこかで見たいですね。桧原神社もよいらしいですね。
二上山に沈んで行く様子を見たときの感想は、こちらのリンクから改めてどうぞ。
先日の16日日曜日、博物館学芸員資格課程の学内実習3回目があり、なんとか終わりました。前日の15日、コスモスの咲く藤原京を、レンタサイクル(大和八木発)で回ってきました。広大な宮跡に、コスモスがとてもきれいでした。まだもう少し見頃は続くと思います。
今日はこのへんで。本日は休暇でございました。
何の訣(わけ)とも知らず、社日や、彼岸には、女がこう言う行(ぎょう)の様なことをした。又現に、してもいるのである。」
(折口信夫「山越しの阿弥陀像の画因」青空文庫より)
これは、折口信夫の『死者の書』(中公文庫)に一緒に収められている文章です。
先日、学芸員資格課程の学内実習の時に訪れようとして断念した当麻寺、その予習のために、『死者の書』を読んでいたのですが、この文章も、以前どこかで見たし、どこかで写した覚えが・・・と思ったら、奈良大通信(学部)の民俗学のレポートでここを引用したようです。
以前から書いていますように、二上山に沈む夕日を見たい、と思って、この日帰り弾丸ツアーを行ったわけですが、私も、まるでこの、日のお伴をしていたようではないか、と改めて気がついたわけです。しかも、上の文章によると、こういうことをするのは、女性であるということです。
この、太陽信仰であるとか、太陽の出てくる・沈む方角について、個人的に関心があって、これまであまり具体的に書いてきませんでしたが、いろいろ考えているところです。時間があれば、少しずつと思っています。文献史学だけでなく、考古学も、神話学も、民俗学も、さまざまな分野を総合して考える必要があると思います。
折口信夫や柳田国男は民俗学であり、彼らの書いた文章の中にも、とても興味深いものがいろいろあります。その中の一つがこれです。
まあ、私の場合は、桜井駅を出発して、北上し、箸墓古墳あたりからまた南に戻ってきたので、厳密には、南北に移動していたわけで、太陽をずっと追いかけていたわけではないのですが。お彼岸に夕日が二上山に沈む、それを見るベストなポイントを探してあちらこちら自転車で駆け回っていたのです。
その日の行程は、桜井駅からレンタサイクルで出発し、金屋付近を通って、磯城瑞垣宮跡を訪れ、桜井市埋蔵文化財センターで、卒論の参考になるかなということで「魅惑の玉」という展示を見て、大神神社にお参りする前に、とあるお店で三輪そうめんを食べ・・・
→大神神社→狭井神社→大美和の杜展望台→茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳
そして、また逆のルートで戻り、途中であの神御前神社に遭遇し、桜井駅まで戻って、自転車を返し、再び大美和の杜に戻って、日没を見ようとしましたが、帰りが遅くなってしまうので、三輪駅から日没を見ることにした、というのが一日の流れでした。それから、若宮社とよばれる大直禰子(オオタタネコ)神社もちょっと訪れました。
これまでの関連記事
崇神天皇の宮・磯城瑞籬宮跡(2015春彼岸奈良弾丸ツアーA)
倭迹迹日百襲姫命(=ヒミコ?)を祀る 神御前神社(2015春彼岸奈良弾丸ツアーB)
春分の日 二上山に沈む夕日
これまで細切れにこれらの旅のことは書いてきましたので、まだ書いていない部分をまとめたいと思います。
茅原大墓古墳
三輪山の真西にあることから、何か重要なものが埋まっているのではないか、また、誰が埋葬されているのか、と、個人的には興味があるのですが、それほど世間的には注目されていないようです。しかし、一度見たいと思っていました。
桜井市ホームページによると、この古墳は、5世紀前半代、古墳時代中期の帆立貝式の前方後円墳で、全長は約85m。地元では倭佐保姫の御陵として永く保存されてきた、とのこと。国指定史跡です。「盾持人埴輪」という、武人の埴輪も出ています。
古墳は遠目に見たのですが、上に上がるということまでは時間もなかったのでしませんでした。このあたりを自転車で走っていたとき、広々とした田んぼ・畑の中で私ただ一人、という開けた空間ができて、こんな雲一つないいい天気で、こんなのどかな、すばらしい空間を独り占めできるなんて・・・と、自転車をこぎながら「うわあー、いいなあー。」と、誰も聞いていないので一人で声をあげていました。確かに田んぼ・畑・古墳以外何もない場所なのですが、東京でごみごみした場所で生活している私にはこのような開放的な空間は魅力的に感じました。しかし、こういう場所を観光の場所として選ぶ人もめったにいないのかな??とあまりのひとけのなさにそんなことを思いました。
人がぞろぞろといるよりも、このくらいのどかでひとけがない状態が維持されることも望みます。また、行ってみたいものです。
いいなあと感動したのにその場所を写真に撮っていないという、いまだ、シャッターチャンスとか被写体のとらえ方とかがうまくない私です。
ホケノ山古墳
奈良大のスクーリングの時に、雨のために古墳の上に上がることができなかったので、上からの景色を見たい!というリベンジで行きました。
そもそも名前が、カタカナで「ホケノ」とは何ぞや?と疑問なわけですが。
桜井市ホームページより、要約しますと、3世紀中頃に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つ。全長90メートル、後円部径60メートル、高さ8.5メートルの纒向型の前方後円墳で、周濠が確認されている。大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している、とのことです。こちらも国指定史跡です。
箸墓古墳の後円部方向、三輪山側にあります。この位置関係からしても、この箸墓古墳が卑弥呼の墓だとしたら、被葬者が「豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)」とされていることからも、卑弥呼の後継者・壱与(トヨ)と音が似ているし、もしかして、というふうにも思われます。
いずれにせよ、茅原大墓古墳も、ホケノ山古墳も、箸墓古墳も、女性が被葬者であるということは、とても興味深いことです。
ホケノ山古墳の上から見た、箸墓古墳方面。後円部が丸く見えます。
ホケノ山古墳の上から見た三輪山。
聞いていたとおり、360度開けていて、よい眺めでした。
古墳の斜面の一部は、畑になっていました。近所の子どもたちも、古墳の上に上がってきて、おばあさんと一緒に遊んでいました。のどかです・・・
箸墓古墳は、今回は、あまり見るつもりはなかったのですが、一応ため池の周辺を少し走って来ました。
再度、茅原大墓古墳の裏側を通過し、
民家の街並みの中を行くと、神御前神社が出現するわけです。
桜井駅で自転車を返して、三輪駅から再び大神神社に向かいました。大神神社の手前に、「若宮社」と額がかかっている大直禰子(オオタタネコ)神社があります。オオタタネコは、大神神社の神様、大物主の子供です。だから「若宮」社なのでしょう。
若宮社前の道は、大神神社の参道から一本外れているのですが、私がそこを歩いていたら、大神神社の参道側から、若宮社に向かって、勢いよく、深々と、頭を下げて立ち去るスーツを着た若者を見かけました。急いでいたようですが、それでもとても心がこもった敬礼でした。大神神社だけでなく、こちらの若宮社に対する人々の信仰心も篤いのかなと感じさせられました。若宮社は、外観がお寺のように見えます。大神神社も三輪明神と呼ばれていたし、神仏習合の時期もあったからですね。
夕日を浴びる大神神社の入り口。
そこから、再び大美和の杜展望台へ行き、日没を待つことにしました。お客さんは、数組。本格的なカメラを構えて、二上山に沈む夕日をとらえようとする人達もいました。私は、レンズの選択を誤って(一眼レフは持っていたのに展示品の勾玉を撮るためにマクロレンズしか持っていなかった)、スマホカメラで撮るしかありませんでした。
見ていると、太陽の強い光で、二上山がよく見えないくらいで、これは、スマホカメラで撮ってもどの程度のものが撮れるか・・・というのと、三輪駅発の電車は1時間に1本しかなく、日没まで大美和の杜にいると、東京への帰着が大幅に遅れてしまう・・・ということ、日没がちょうと三輪駅に電車が来る時間と一致しているので、三輪駅から見てみようか、という判断で、大美和の杜を下って駅に向かうことにしました。
見込み通り、電車が来る前に、高架の階段途中から見ると、ちょうど二上山の谷間に、沈んで行く夕日を見ることができました!我ながら勘がいい。と喜びました。
二上山に沈む夕日は1枚だけ紹介したのですが、もう少し、載せておきます。アングルがばらばらですみません。次はもうちょっと、開けた場所で見たいと思いました。千股池がよいらしいですが、崇神天皇の宮があった、この三輪のあたりのどこかで見たいですね。桧原神社もよいらしいですね。
二上山に沈んで行く様子を見たときの感想は、こちらのリンクから改めてどうぞ。
先日の16日日曜日、博物館学芸員資格課程の学内実習3回目があり、なんとか終わりました。前日の15日、コスモスの咲く藤原京を、レンタサイクル(大和八木発)で回ってきました。広大な宮跡に、コスモスがとてもきれいでした。まだもう少し見頃は続くと思います。
今日はこのへんで。本日は休暇でございました。